子供の時間はあまりにも短くて
福与を出産してからの数日間、幸は事前に予習していた事の実践をする事になった。
彼女が歩けるようになったのを待ってから、育児に必要な授乳の仕方や赤ちゃんを沐浴させる適切な方法の指導。
そういったことや、産後に子宮から出てくる悪露と呼ばれる分泌物がきちんと出ているかの検査を受けたりといった事をこなしながら、幸は順調に体力を回復して行き、ついには退院に漕ぎ着けたのだった。
「んー、悪いなお袋。家事全部まかせっきりで」
幸はその平たい胸の中でぱちぱちと瞬きをしながら食い入るように自分の顔を見る福与を抱きながら、台所に立つ母に声を掛ける。
そしてまだ首の据わらない福与の眼前に顔を寄せて微笑むと、それを見たのかどうなのか、きゃっきゃっと笑う福与を見て、その小さな身体を持ち上げて頬ずりする。
そんな幸にふすまを通して母からの返事が届く。
「いいのよ。私だってあんたのお祖母ちゃんに赤ちゃん産んでからしばらくは上げ膳据え膳させてもらったんだから。あんたは体調を戻す事と福与の面倒を見ることに集中なさい」
ちなみに若葉は今、母の隣に立って昼食の用意を手伝っている。
幸が必死で覚えようとしている料理を、彼女はさらりとやってのけた上で言ったものだ。
「私は護衛ですよ。それは食の安全をも含まれます。食材の安全性も完璧に見抜けますし、調理もできるのは当然と言うわけです」
その言葉は幸に密かなショックを与えていたのだが、それはさておき。
福与はやはり少し変わった子供だった。
幸以外が抱くと幸を求めて泣き出すのは、母を求める本能と取れなくも無い。
だが福与は幸が自分を抱けない状態になる事を言い含めると、ぴたりと泣くのを止め、身じろぎはするもののぴたりと静かになり、場合によってはそのまま眠る。
空腹やオムツの異常を感じれば泣き出すが、それ以外は幸の言う事を聞く。
理解しているのだ。
幸が言い聞かせれば祖母や祖父、若葉の腕にも抱かれるがその間は眠る振りをして笑顔を見せない。
これは孫の笑顔を期待していた二人には残念がられたが、幸にはどうしようもなかった。
笑ってあげてといえば福与はその意を汲み取ったかもしれないが、言われたから笑うなどという笑顔で両親は微妙な心持になるだろう事を幸も察していたのだ。
母はそんな母子を見て、これは福与が独り立ちをするまで福与に直接関わる家事以外は面倒を見るしかないかと思っていた。
幸も、薄々そんな母の気持ちを感じ取って内心申し訳なく思うのだった。
だがそれはそれ、幸は母として福与に学ばせなければならない。
「ねぇ福与。なんでお祖母ちゃんが抱いた時は笑ってくれないの?」
幸の言葉にぱちくりと瞬きだけする福与。
そんな薄いリアクションにもめげず幸は語りかける。
「福与が嫌じゃなくて、福与に笑って欲しいっていう人が居たら、福与が笑ってあげて欲しいな。そうすればきっとその人は福与のことを好きになってくれるから」
うーうー、と唸って幸の髪の一房を引っ張り、知らぬ存ぜぬで居ようとする福与。
その手をゆっくりと握りながら幸は福与に更に語りかける。
「福与がもしそんな事できないっていうならそれでもいいよ。ただ、俺が福与に優しさを持って欲しいって思ってる事だけは解ってくれよな」
そういって、福与のおでこにキスを落とす幸。
すると福与は両手を元気に振り回し、笑い声を上げて喜ぶ。
こうして幸の福与への語りかける日々は続いた。
そんな日々が一年弱続いて、近所のママさんから人見知りな赤ちゃんを授かった後輩ママとして、それなりに受け入れられていた。
幸が他のママさんと話していると静かにしているが、少しでも間が空けばふにゃふにゃと言葉になりきらないなん語で幸の気を引き、それを見た周囲のママさんに本当福与ちゃんはお母さん大好きね、と笑いが起こる。
そして、それは逆にそれに答える幸が子供大好きなお母さんという評価になり、ママさん間の私のほうが子供と仲良しという気持ちに日をつけ、遊びまわりたい子供達が今日はお母さんと遊ぶのよね、なんて具合に拘束されてお母さん相手にグズるなどという1コマもあったが、それは余談だろう。
しかし、そんな日々も福与が本格的に言葉を発するようになると、まるで幻だったかのように消えさってしまった。
「おかーさん」
母は少し郵便局に出掛け年賀状用の葉書を買いに行った日、若干拙い声で、でも確かに幸をそう呼んだ福与に幸が喜びをあらわにしようとしたその時、福与はすでに語り始めていた。
「かみさま、わたしのからだをかつどうにてきせつなじょうたいまでへんかさせてください。そのあと、わたしにはすべてがきこえるほうそくのてきおうをおねがいします」
その言葉と共に急激に重量を増した福与の身体を幸は取り落とした、と感じて喜び一転青ざめた。
だが福与の身体はいつの間にか寄り添っていた若葉によって支えられ、ベビー服を引き裂きながら見る間に幸の解りやすい美少女顔とは対照的な、どちらかと言えば地味な造りの、しかしそのパーツの配置の比率が美しい、例えるなら仏を思わせる柔和な顔立ちで、一気に育った為か足元まで届くかと言うほどの黒の長髪を伸ばした成人の体つきになった福与がそこに居た。
それを見て幸は本当の意味での改変者は普通の子供とは違う、という言葉を感じたのだった。
言葉を喋る前の、少し変わった子供とは違う。
明確に特別な存在。
それに成った福与は自分よりも小さな母を抱きしめる。
「母さん。私は母さんのおかげでこの世に生まれてこれました。ありがとう。大好きです」
福与の、邪気の無い一言。
ソレを聞いて色々と子育てに願望を抱いていた幸も、その執着を捨てる決心をした。
そして自分も福与を抱きしめながら言った。
「俺も大好きだよ福与。辛くなったら俺に言って。聞いてあげることしか出来ないけど、ずっと傍に居るから」
その後、若葉に福与の服を買ってきてもらう間に母が郵便局から帰ってきて、見知らぬ成人が全裸で娘を抱え込んでいるのを見て危うく警察に通報しそうになったり、父が家を出る時は小さく可愛かった福与が一気に大きくなった事にショックを受けたりしたが。
今まで若葉の腕の中が定位置だった幸が、目を瞑りながら事務的な口調で神への改変希望を天に伝える福与の腕の中が定位置になってから、幸があちら側に掛かりっきりの福与の認識を現世に戻し、食事を食べさせるのが日常になったのだった。




