第八章 名簿に残る名前
白い天井だった。
消毒液の匂いが鼻の奥まで入ってくる。機械が一定の間隔で音を立てている。
「目、開いてます。藤瀬さん、目が開いてます」
横で誰かが走っていった。足音がやたら大きい。
顔を動かそうとして、首が痛んだ。縄の跡のところだと思った。指で触ろうとしたが、腕が上がらない。腕には管が入っていた。
「真緒」
声のほうへ目だけを向ける。
母さんが立っていた。記憶より痩せて、記憶より老けていた。
「真緒、聞こえる? 返事はうなずくだけでいいよ」
うなずいた。首は一センチも動かなかったと思う。それでも母さんの顔が崩れた。
大きい粒が、俺の頬に落ちてくる。
手を握られた。俺の手だ。細くて、指が短くて、爪の形に見覚えがある。この手でシャーペンを握って、三年分のノートを埋めた。
髪が枕の上に散らばっていた。短くない。頬に当たる長さがある。
この体だ、と思った。返ってきたというより、ずっとここに置いてあった、という感じに近い。
「今日が何日か、分かりますか」
「……わかん、ない」
「大丈夫です。ゆっくりでいいですよ」
「無理して喋らなくていいですから。さっきまで喉に管が入ってましたので」
白衣の人はそう言って、枕元の何かを見た。
「真緒。痛いところ、ある?」
「……のど」
時間の感覚が戻ってこない。あの教室では、チャイムが鳴るたびに四十分とか二十分とかが区切られていた。ここには区切りがない。点滴が落ちる速さだけが、一定の間隔で何かを数えている。
枕元には名札が差してあった。
【藤瀬真緒】
口を開けた。音が出るまでに時間がかかった。
「……母さん」
「うん」
「ごめん」
母さんは首を横に振って、それ以上は何も言わなかった。握った手の力だけが強くなった。
*
個室に移ってから、母さんは茶色の封筒を持ってきた。
ベッドの背を上げるのに、看護師さんが二人がかりだった。母さんは袋から膝掛けを出して、先に脚を覆う。それから封筒を出した。
「鷹宮さんの記録も渡した。学校から来た返事は、この封筒に入ってる」
「どれくらい、寝てた」
「ひと月とちょっと」
「……年、明けた?」
「明けたよ」
窓の外の空が低かった。冬の色だ。あの日から、季節が一つ進んでいない。進んでいないのに、俺のほうは三百二十四回死んだ勘定になっている。
「記録って」
「前に話したでしょう。投稿に付いてたリンク。あのあと中身が増えてたの。あなたの名前が出てきたから、窓口の人に全部渡した」
息が浅くなった。母さんは気づいて、水のコップを寄せた。
「学校法人のほうで、校長先生じゃない人が調べてる。あなたの候補者通知と、学校に残ってる選考原票、それから訂正履歴。大学が実際に受け取った調査書も、大学のほうで確認してる」
「……それ、全部違うってこと」
「違うところがあった、っていう言い方をされた。寄付の入金の日付と、選考をやり直した日付も並べてるって」
母さんは、自分が渡したものと、学校から返ってきたものを、一つずつ分けて話した。自分で結論を足さなかった。
「窓口の人はね、前から話は聞いてくれてたのよ。ただ、動くのに時間がかかるって言われてた」
「知ってた」
「知ってたなら」
母さんはそこで止めた。止めて、封筒の角を揃え直した。
「……ううん。なんでもない」
「鷹宮さんは」
「ご家族と一緒に、話を聞かれてる。この前、聞かれてる最中に倒れて、入院したって」
「学校は、謝った?」
「謝るとは言われてない。調べます、とだけ」
「そう」
俺は天井を見た。
ゲームの中で首を裂かれたことと、現実で倒れたことは、別のことだ。同じ日に起きたとも限らない。どっちがどっちを引き起こしたのかは、誰にも分からない。
分からないまま、手続きだけが進んでいる。
それでいい、と思った。あの教室で通っていたのは、証拠のある話だけだった。こっちでも同じだ。
「読む?」
「母さん、今日は一枚だけ読む。続きは明日にする」
「うん」
「一枚読んだら、寝る」
「そうして」
母さんは封筒から一枚だけ抜いて、残りを膝に伏せた。
*
二週間後、俺はベッドの上で出願要項を開いていた。
星杜大学理工学部、一般選抜。大学独自の試験を受ける方式のほうだ。日程はまだ間に合う。指定校推薦の枠は戻ってこないし、戻せとも言われていない。調べてもらっているのは、あれがどう決まったかということで、俺を合格させるかどうかは大学が決める。
受験料の減免と、奨学金の申請書も一緒に取り寄せてもらった。
「願書は明日でも間に合うよ。今日は、どこまでにする?」
「志望理由まで。下書きだけ」
「じゃあ、ここに置いておくね」
母さんは書類をベッドテーブルの隅に寄せて、ティッシュの箱をその横に置いた。箱の側面には、青と白の花柄が印刷されている。
俺は下書きを三行書いて、手を止めた。ペンの持ち方が、まだ少し違う。握力が戻っていないせいなのか、別の手で四十分ぶん書いた記憶が残っているせいなのかは、自分でも分からない。
「疲れた?」
「まだ書ける」
「まだ書けるって言う子は、だいたい書けなくなってるのよ」
母さんは膝掛けを直して、電気スタンドの角度を変えた。
*
退院して、最初の夜。
俺は部屋のパソコンを開いて、『終業模試』のアイコンを押した。
起動画面が出た。前と何も変わらない。タイトルの下に、続きから始めるかどうかを聞いてくる表示がある。
続きから始める、という表示を、俺はしばらく見ていた。
押さなかった。
あの教室にもう一度入って、誰かの順位を下から押し上げることも、たぶんできる。できるからといって、やることにはならない。
俺は名簿だけを開いた。
クラスの一覧が出る。
久瀬亮太。小森結衣。相原陸。相原岳。
顔写真の横に、成績の初期値が並んでいる。よく知っている並びだ。
画面を下までスクロールした。
いちばん下は、三田直樹だった。
初期順位はいちばん下のまま。成績の初期値も、俺が知っているとおりの数字だ。
その一つ上に、見たことのない行があった。
【鷹宮紗季】
【登録区分:NPC】
【初期順位:下から二番目】
その一つ上に、水野航がいた。下から三番目になっている。
俺は椅子の背に体を預けた。
下から二番目。
あの教室で、そこにいる人間がどういう一日を過ごすかは、俺がいちばん詳しい。
マウスから手を離した。
画面はそのまま、光っていた。
(了)




