第七章 単独一位
教室のドアを開けると、全員の顔が上がった。
上がって、すぐ下がった。入ってきたのが担任じゃないと分かったからだ。読み上げる声が、途中から戻ってきた。
俺は教壇に上がって、小脇の束を講卓に置いた。
「榊原は消えた」
声が続かなかった。もう一度言った。
「担任は消えた。俺が消した。それでも試験は止まらない」
読む声が止まった。
「何言ってんの、水野」
「これ、全員分の個人票だ。名前と、写真と、死んだ回数が書いてある」
俺は束を教壇の縁から押した。紙が落ちて、床に広がった。拾ったやつが三人、四人。自分の名前を探す手つきは、廊下の順位表を見るときと同じだった。
「三百二十四って、何……」
「俺のも……」
「勉強しても意味ないってこと? ねえ、意味ないの?」
「意味はある」
俺は言った。
「一位を取れば生き残る。そう書いてある。書いてあることだけが効く教室だ」
「一位って、委員長じゃん」
「それ、もう決まってるってことだろ」
「じゃあ何のためにこれ読んでんだよ、俺ら」
誰かが教科書を床に叩きつけた。別の誰かが、それを拾って机に戻した。
視界の端の字を確かめる。
【記録:公開中】
まだ出ている。
この会話は外に残る。ゲームの中の台詞は、成績と一緒にプレイログへ積まれていく。あいつが高得点を見せるために開けっぱなしにしている、あの穴からだ。
だから、現実の紙と突き合わせられる言葉だけを言う。日付、学部、枠の名前。一つでも嘘を混ぜたら、全部が使えなくなる。
俺は教室の後ろを見た。鷹宮は椅子に座ったまま、化学の問題集に指を挟んで、こっちを見上げていた。面白いものを見る顔だ。
「面白い。隠しルートでも引いたの? 三周目でも見たことないんだけど」
「藤瀬真緒」
鷹宮の指が止まった。
「汐見学園三年、藤瀬真緒。十月十七日付で、校内選考の候補者通知をもらってる。星杜大学理工学部、指定校推薦枠。うちに写しがある」
「……は?」
「十二月に撤回された。総合的な判断だそうだ」
俺は赤い紙をもう一枚、講卓に置いた。
「接続記録、第三百二十五号。接続プレイヤー、鷹宮紗季。接続数、一。この教室でこの紙を持ってるのは、担任とお前だけだった」
「読めるんだ、それ」
「読めるように書いてあった」
「それ、先生の字じゃないでしょ」
「印刷だ。最初から刷ってある」
「先生の机、勝手に開けたの? 立入禁止だったでしょ」
「吊られたけどな」
鷹宮は立ち上がった。問題集が床に落ちる。
三歩ぶん近づいて、俺の顔を見た。距離を詰めないと確かめられないものがあったんだろう。目尻のあたりで、視線が二回往復した。
「……藤瀬」
「久しぶり」
「なんでその顔で」
「知らねえよ。俺が聞きたい」
「……まあいいや。中身が誰でも、いまのあんたはNPCでしょ」
「そうだな」
「認めるんだ」
「認めたら何か変わんのか」
鷹宮の声が低くなった。
「候補だっただけでしょ」
それが答えだった。
「最後に選ばれたのは私なんだから。決めたのは学校でしょ。私が書類書いたわけじゃないし」
「寄付の話も知らないって言うのか」
「うちの父がどこに金を出すかなんて、私に関係ある?」
教室が静かになっていた。誰も、この会話の意味を理解していない。理解しないまま、聞いていた。
鷹宮は俺から目を離し、クラス全体を見渡す。それから、笑った。さっきまでの面白がる顔じゃない。
「もういい。付き合ってられない」
右手が上がった。指が鳴った。
教室の全員が止まった。ページをめくる手も、涙を拭く手も、同じ高さで止まった。
それから、まとめて落ちた。
机の上に、床に、椅子の背に。三十三人が一度に、同じ形で崩れた。音は一度しかしなかった。
赤いものが床を伝って、俺の上履きの先まで来た。
窓際の女子が握っていた化学の教科書が、開いたまま床に伏せている。
俺は動けない。
この連中は、さっきまで化学式を読んでいた。一位を取れば生き残ると聞いて、席に戻って、指で行をなぞっていた。紙の上では全員がデータだ。その紙を読んだのは俺だ。
読んだからといって、いま床で鳴った音が軽くなるわけじゃない。
「これで静かになった」
鷹宮はそう言って、俺のほうへ指を向ける。
指が鳴った。
俺の視界の端に、字が出た。
【照合失敗】
鷹宮がもう一度鳴らした。字は同じだ。三度目も同じだった。
「……なんで」
「知らねえって言ってんだろ」
俺は教壇に戻って、持ってきた答案用紙を二枚、講卓に並べた。
「鷹宮」
はじめて、その名前で呼んだ。
「最後の科目、まだ残ってる。化学だ。受けろよ」
「私が落とすと思う?」
鷹宮は答案用紙を一枚取って、自分の机へ戻った。
「そっちこそ、一問も間違えられないよ」
*
チャイムが鳴った。
担任はいない。それでも時間は始まった。
四十分。
俺はペンを握った。首の皮が引きつって、顎を引くたびに痛みが走る。指はまだ震えていた。
問一。有機の構造決定。
書ける。
書きながら、三年分の教科書の匂いが戻ってきた。夜中に台所のテーブルで解いていたときの、蛍光灯の音まで戻ってきた。
時計を見る。残り二十五分。
手が止まるたびに、首から落ちたものが答案の端に点を作る。紙が吸って、赤が丸く広がった。名前欄にかからないように、俺は紙を少し傾けた。
問三で手が滑る。係数を書き間違えている。左辺の酸素が一つ多い。
消しゴムを出して、消して、書き直した。
鷹宮のほうは見なくても分かった。ペン先の音がしない。紙が一枚めくれる音だけがする。答えは向こうから埋まっていく。
俺の側には、そんな道具はない。
あるのは、撤回された一枚の通知と、三年分だ。
机の天板の縁で、貼ってある化粧板が小さく欠けていた。そこにペンの尻が引っかかる。俺は角度を変えて、続きを書いた。
鷹宮が一度だけ、こっちを見た。目が合う。向こうが先に視線を戻した。
残り十分で、全部埋まった。
そこから見直しに入る。係数。単位。有効数字。問五の答えを二回計算して、二回とも同じ数字が出た。
残り二分。
俺はもう一度、問三に戻った。酸素が合っている。
ペンを置いた。
「終わった?」
鷹宮が言った。
「終わった」
「じゃあ、見せてよ」
「チャイムのあとでいいだろ」
「見せてって言ってるんだけど」
「規定にないことは、この教室じゃ起きない」
鷹宮は鼻で笑って、自分の答案を裏返した。
*
チャイムが鳴った。
赤い字が滲み出てくる。
【成績:百 順位:一】
「ほら」
鷹宮が自分の答案を持ち上げた。同じ字が並んでいる。
「一位。私が一位。死ぬのはあんただけでしょ」
「俺も百点だ」
俺は答案の右上を向けた。
鷹宮の顔から、笑いが抜けた。
「……は?」
「鷹宮。順位の下まで読め」
二枚の紙に、もう一行が浮かんだ。
【判定:失格/生存者:〇】
注意事項の二行目だ。生存枠一名の科目は、単独一位のみ生存。同点一位が生じた場合、生存者なし。
あれは前の日から、答案用紙の名前欄の下に刷ってあった。読んだ人間がいなかっただけだ。
「待って」
鷹宮が首に手をやった。
「待ってってば。ねえ、止めて。止められるでしょ、これ」
「止め方は書いてない」
「嘘。あんた、読んだんでしょ、全部」
「読んだから言ってる」
「待ってよ、私はプレイヤーなんだけど。ねえ、聞いてる?」
俺の首の、縄の跡のところが裂けはじめていた。温かいものが鎖骨へ落ちていく。痛みは思ったより遠かった。
これで戻れるのかどうかは、どこにも書いてなかった。赤い紙にも、注意事項にも。戻れないほうに賭けているのは、たぶん俺のほうだ。
鷹宮の首にも、同じ細い線が走っていた。線が開いていく。
「なんで。なんでよ!」
「同点一位は、同点最下位と同じだ」
俺は言った。
「一緒に落ちるぞ、鷹宮」
鷹宮は答案用紙を両手で掴んで、赤い字のところを爪で削ろうとしていた。紙が破れただけだった。
視界が上がった。
最後に見えたのは、こっちを睨んでいる目だった。
「死ぬのはあんただけ! 私は――」
そこで音が切れた。
白い線が視界の端から走って、教室が縦に割れた。
割れた向こうに、色がなかった。
――真緒。
遠くで、誰かが俺を名前で呼んだ。




