夢の始まり
「これが世間に出たら大変だと思うんですよね。あなたは結婚していらっしゃいますし、これを知ったら奥様はさぞ悲しまれるんじゃないでしょうか」
人気のないバーの片隅で、二人の男が対面していた。
一人は視線を床に落とし、口を閉ざしていた。
橘恭平は、そんな男に“家族を心配するような”口ぶりで語りかけていた。
親身になるつもりなどもちろんない。
「何が言いたい? はっきり言ったらどうだ」
視線を落としたまま黙っていた男――加賀文明が顔を上げた。
戒めるかのような鋭い視線に、橘は一瞬たじろぐ。
「え、いやまあ、別にどうってわけじゃないんですけど、ただ俺は心配だなーって。ほら、あなたは有名な人だから、色々と面倒なことになるんじゃないかなーと」
返答する声が裏返った。
橘と加賀に面識はない。
こうして顔を合わせるのも、今日が初めてだった。
そんな二人が、こうして話しているのには理由があった。
きっかけは数日前のこと。
夜の繁華街を歩いていた橘は、加賀が一人の女と抱き合い、口づけを交わしているところを偶然目撃した。
加賀文明。
かつて数々のヒット曲を生み出した音楽プロデューサーだ。そして、その妻が元タレントであることも、橘は知っていた。
だから思った。
――使える。
後日、橘はSNSを通じて加賀に連絡を取った。
そして、あの夜に撮った写真を送りつけた。
こうして、二人は会うことになった。
「金か? いくら欲しい?」
加賀が静かに尋ねる。
「いやいや、違いますよ! それだと恐喝じゃないですか!」
「じゃあなんだ? はっきりと言え」
「あー……」
橘は一度だけ息を整えた。
そして口にする。
「曲を作っていただけたらなーと」
「……は?」
加賀の表情が固まった。
「はい。厚かましいことは承知してます。でも、天才音楽プロデューサー加賀文明さんの才能をお借りしたくて」
「お前は何を言っているんだ?」
「本気です」
「俺の専門はアイドル曲だぞ」
「もちろん知ってます」
橘は笑った。
「俺、アイドルグループを作ろうと思うんです」
「アイドルグループを作る? お前は何を言っているんだ」
加賀は、怪訝な表情で問いかけた。
それを受ける橘は、妙に落ち着いていた。
「はい。加賀さんの楽曲をもとにアイドルグループを作ろうと思ってます。スターの原石を集めて、最高のアイドルグループを作ります」
「ふざけているのかお前は」
「ふざけてませんよ。大マジです。アイドルグループを作って、加賀さんの曲を歌わせたいと考えてます。」
「お前、どこの事務所の人間だ。こんなことして許されるとでも思ってるのか」
「事務所には所属してません。個人事業主だと思っていただけたら。でも勝算はあります! 加賀さんの天才的な楽曲と、俺の手腕があれば成功間違いないです!」
「まともじゃないな。俺が協力すると思うのか?」
――よし。
加賀は、心底呆れかえった様子でため息をついた。
侮蔑するような大げさなため息を見て、橘は内心でガッツポーズをする。
無茶苦茶なことを言っているのは承知している。
無茶苦茶なことを意図して言ったのだから。
脅迫行為に話が戻れば交渉は進まない。だからこそあえて軽薄な思想を語った。狙いは概ね成功。脅迫から、協力か否かに視線を向けられた。
橘は唾をゴクリと飲み込む。
軽薄な笑みを消し、真剣な表情で口を開いた。
「加賀さん、俺あとがないんですよ。ハッキリ言って何もないです。失うものも誇れるものもないんですよ」
「脅しのつもりか?」
加賀の表情に警戒心が灯った。
「こんな方法をとったことは謝ります。本当にすみませんでした。でも、何もないから、やるしかないんですよ。無茶苦茶なことを言っているのはわかってます。でもどうか、こんな馬鹿に夢見させてくださいよ」
一度、言葉を切る。
「俺、加賀さんが作った曲が好きなんです。『ラブリーズ』の二枚目のシングルとか最高でした。過去の人みたいになってる現状はやるせないです」
橘は加賀をまっすぐ見つめた。
「俺に任せてください。加賀さんが作る最高の曲を、俺が作るアイドルに歌わせて、加賀さんのことをもう一度認めさせてやりますから」
根拠などどこにもない。
それでも橘は本気だった。 成功への執着が、根拠のない言葉に熱を与えていた。
加賀は再びため息をついた。
「はぁ……。一週間だ」
「え?」
「一週間やる。それまでにスターの原石とやらを連れて来い。それができたら話は聞いてやる。できなかったら話は無しだ」
加賀は淡々と続ける。
「写真をバラまきたければ勝手にしろ。妻との関係はとっくに冷めきっている。大した痛手じゃない。それに、世間は今の加賀文明に興味はない。その程度のネタに価値はない」
「あ、ありがとうございます! でも、一週間はちょっと厳しいんでもう少しいただけたら嬉しいとか思ったり」
「ふざけるな。その程度もできなくて何が成り上がるだ。覚悟を見せてみろ」
「わかりました」
その返事を聞いた加賀は、ゆっくりとグラスを口に運ぶ。氷の音が静かに鳴った。
橘は気付かなかった。
グラスに口をつける加賀の表情が、今日初めて緩んでいたことに。
******
バーを出た橘は、冷たい夜風を浴びながら息を吐いた。
「よっしゃ……」
震える拳を握りしめ、ガッツポーズをする。その手には汗がにじんでいた。
なめられないよう、余裕めいた態度を努めたつもりだった。だが本心は緊張に占められていた。
一歩間違えれば、脅迫罪で立場が危うくなる。人の弱味を握って交渉に臨むこと自体がストレスだった。後ろめたさが胸の奥を責めた。
何者にもなれなかった。何も残せなかった。
それでもなお、まだ認められなかった。
自分は特別で、今はまだ成功への道中なんだと信じたかった。
初めてなにかを自分の力で成したかのような錯覚に襲われる。達成感が胸の底からこみ上げてくる。
しかしその瞬間、現実が追いかけてくる。
――アイドルを一週間で集める? どうやって?
たまたま元有名音楽プロデューサーのスキャンダルを見つけたから。
ただそれだけだった。
その程度の思いつきで舵を切った夢物語。
宛も知識もない。いざ現実味を帯びそうになり、今更ながら無謀さを自覚する。
――やるしかない。もう後戻りはできない。
橘は夜の街を歩き出した
消えかけていた光が、目の奥にもう一度灯っていた。




