第五節 帰る場所⑵
第五節 帰る場所⑵
黒は、その沈黙を見つめていた。
何も起きていないはずだった。雨は上がり、砦には風だけが静かに流れ、白露草の先で揺れる雫も一つ、また一つと土へ還っていく。それなのに、目の前の人間だけは、雨水が石へ染み込むように、誰にも気づかれない速さで変わり続けている。
その変化には形がない。
匂いもない。
音もない。
だからこそ黒には分からなかった。
分からないということを、黒は初めて知った。
「……なぜ。」
その問いは、もう戦うためのものではなかった。
壊すためでもない。
目の前の人間を知りたい。
その願いだけが、覚えたばかりの言葉へ宿っていた。
アルトは静かに瞼を閉じる。
今度は紙の匂いだった。
乾いた紙。
日に焼けた頁。
インクが滲んだ跡。
旅が長くなるほど荷物は減っていったのに、あの少女の鞄だけは少しずつ重くなっていった。書き留めた文字が増えたからではない。書けなかった景色が、一冊のノートの中へ静かに積もっていったからだった。
ページを開く。
鉛筆を置く。
書かない。
それでも閉じない。
考え込むと前髪を耳へ掛け、そのまま遠くを眺める癖があった。答えを探しているようで、本当は答えになってしまうことを急がない人だった。
懐かしい匂いをまとった知的な少女が、ずっと隣で考えてくれた。
「違う」と言われたことは、一度もない。
「そうだ」と言われたこともない。
ただ、「もう少し見てみよう」と景色の方へ視線を戻される。そのたび、答えは少し遠ざかり、その代わり世界は少しだけ広くなった。
分からないままで歩くことは、立ち止まることではない。
そのことを、アルトは彼女の隣で知った。
黒は小さく首を傾ける。
答えがない。
それなのに歩いている。
答えがない。
それなのに笑っている。
一つになれば、そんな迷いは生まれないはずだった。
「……なぜ。」
その声は、さっきより少しだけ人に近づいていた。
アルトはゆっくりと息を吐く。
今度は温度を思い出す。
肩へ置かれた掌だった。
剣を握り続けたせいで節は太く、荷を運び続けたせいで皮膚は硬くなっていた。それでも、その手は何かを掴むためではなく、誰かの隣へ置かれる時だけ、不思議なくらい柔らかかった。
その掌は、幼い娘にも同じように向けられていた。
転ばないよう引くのではない。
転んでも立ち上がれるよう、歩幅だけを合わせる。
急がない。
置いていかない。
待つことを惜しまない。
その男は、支えるということを教えようとはしなかった。
生き方そのものが、支えるという形をしていた。
その歩幅は、もう一人の男にも向けられていた。
帰る場所を見つけられない男だった。
朝になると白露草の前で立ち止まり、夕方になれば同じ花を見つめる。その背中だけが、季節から少し遅れて歩いているようだった。
花が好きなのではない。
忘れられないものが、そこに残っていた。
だから立ち止まる。
だから翌日も、またそこへ帰ってくる。
長い戦場を共に生きた男だけが、その理由を知っていた。
肩へ手を置く。
何も言わない。
歩き出せば隣を歩き、止まれば自分も止まる。
それだけだった。
それだけなのに、一度も置いていかなかった。
娘を支え続けてきた男は、帰る場所を見失った友のことも、同じように支え続けていた。
アルトは、その二人を何度も見ていた。
どちらが支えていたのかは分からない。
肩へ手を置く男も、隣にその友がいたから今日まで歩いてこられたのかもしれない。
帰れなくなった男も、その掌があったから白露草の前で立ち止まり続けられたのかもしれない。
人は一人を支える。
そのたび、自分もまた誰かに支えられている。
それは貸し借りではなく、雨が土へ染み込み、土がまた草を育てるような、ゆっくりと巡る営みだった。
黒は、その景色を見つめていた。
一つになれば。
こんな痛みはない。
一つになれば。
こんな別れもない。
それなのに、この人間たちは傷を抱えたまま離れようとしない。
失うことを知りながら、なお誰かの隣を歩こうとする。
その理由だけが、どうしても分からなかった。
「……なぜ。」
その問いを聞いた瞬間、アルトの胸へ最後の景色が静かに浮かぶ。
夕暮れだった。
橋の欄干へ腰掛けた少女が、西日に透ける髪を風へ遊ばせながら、川ではなく空を眺めている。
こちらを見ない。
それでも、自分がまた考え込み始めたことだけは見抜いてしまう。
「また、一人で抱えてる。」
呆れたように笑う。
責めるでもない。
慰めるでもない。
ただ、その一言だけで胸の奥へ積もっていた重さが、少しだけ置き場所を変える。
答えは、まだ出なくていい。
歩きながら考えればいい。
彼女は、一度もそう言わなかった。
言葉にしないまま、その時間だけをアルトへ残した。
風が吹く。
夕焼けがほどける。
橋も。
笑い声も。
ゆっくりと景色の向こうへ溶けていく。
それでも、その温度だけは消えなかった。
アルトは目を開く。
黒は、まだ掌を開いたまま立っている。
その手を取れば、何も失わずに済むのかもしれない。
もう選ばなくてもいいのかもしれない。
アルトは、その掌を長く見つめた。
口がわずかに開く。
しかし、言葉は生まれなかった。
黒は、その沈黙を見つめる。
言葉にならないものの方が、言葉より深いことだけは、黒にも少しずつ分かり始めていた。
「……なぜ。」
その問いだけが、雨上がりの砦に長く残り、誰にも答えられないまま、風と一緒に白露草を揺らした。




