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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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第五節 帰る場所(一)

第五節 帰る場所(一)



 黒は掌を開いたまま立っていた。


 差し出しているつもりなのか、待っているだけなのか、その違いは黒自身にも分からないようだった。雨を受け止める若葉のように指先は静かに空を向き、その掌には何一つ乗っていない。それでも、その形だけは誰かを迎え入れるために生まれたもののようで、不器用なくらい人の手によく似ていた。


 砦には、雨上がりの匂いだけが残っていた。


 石畳はまだ水を含み、軒先から落ちる最後の雫が、小さな輪を描いては消えていく。その輪は隣り合う輪へ静かに触れ、境界を失った途端、どちらが先だったのか分からなくなってしまう。黒は、その様子を飽きることなく見つめていた。


 一つになる。


 それは、この世界でもっとも自然なことだった。


 流れる水も。


 霧も。


 夜も。


 名前を失いながら、一つへ帰っていく。


 だから、人だけが離れて立ち続ける理由を、黒はまだ知らなかった。


 喉が小さく震える。


「……ひとつ。」


 前よりも崩れない声だった。


 まだ幼く、言葉というには頼りない響きだったが、それでも石の擦れる音ではなく、誰かへ届こうとする呼吸が、その中には確かに宿っていた。


 アルトは答えない。


 答えようとしたのではない。


 答えが喉まで来ていることだけは分かるのに、その先へ進めない。


 言葉は、ときどき心より臆病だ。


 本当に失いたくないものほど、口へ届く前に形を失ってしまう。


 黒はもう一度、自分の掌を見る。


 何も持っていない。


 何も抱えていない。


 それなのに、目の前の人間は空いた手のまま、何かを落とさないように立っている。


 理解できなかった。


「……ひとつ。」


 願いではない。


 誘いでもない。


 黒にとって、それは雨が地へ落ちることや、川が海へ向かうことと同じくらい疑う余地のない理だった。


 一つなら失われない。


 一つなら選ばなくていい。


 一つなら別れも生まれない。


 その世界しか、黒は知らない。


 アルトは、その声を耳ではなく胸で聞いていた。


 胸の奥へ、小さな石が沈んでいく。


 音はしない。


 ただ、見えない波紋だけが静かに広がり、長く沈んでいた景色を水面へ押し上げていく。


 最初に浮かんだのは、一本の木剣だった。


 新品だった頃の真っ直ぐな木目はもう残っていない。柄は何度も握られたせいで掌の形へ丸く削れ、鍔の近くには細かな傷が幾重にも重なっていた。その一本には、少年が転んだ数だけ時間が刻まれているようだった。


 少年は、また転ぶ。


 膝についた砂を払い、何も言わず立ち上がる。


 木剣を握り直し、また振る。


 その繰り返しだけで、一日が終わることもあった。


 誰かに命じられたからではない。


 強くなれば褒められると思っていたわけでもない。


 昨日できなかったことを、今日できるようになりたい。


 その小さな願いだけが、毎朝、少年を誰より早く庭へ立たせていた。


「そんなに急がなくてもいい。」


 アルトは、一度だけそう言ったことがある。


 少年は木剣を肩へ担ぎ、困ったように笑った。


「急いでません。」


 そう言いながら、翌朝には誰より早く剣を振っていた。


 嘘が下手だった。


 下手なくせに、格好だけはつけたがる。


 そんなところまで含めて、あの少年だった。


 その姿を思い出した途端、アルトの口元がほんの少しだけ緩む。


 笑ったわけではない。


 笑い方を、身体だけが先に思い出したのだった。


 不甲斐ない自分の後ろを、それでも歩いてくれた少年がいた。


 勇者だったからではない。


 強かったからでもない。


 橋の下で拾ってしまった、どうしようもなく頼りない大人を放っておけなかった。ただ、それだけの理由で少年は旅を続けた。


 その少し前を、小さな足音が追い越していく。


 金色の髪が風へ揺れた。


 少女は花を見つけるたびしゃがみ込み、丸い石を拾っては陽へ透かし、水へ触れては声を上げて笑う。急げば半日で着く道なのに、あの子と歩けば日はいつも足りなかった。


 花が咲いている。


 蝶が飛んでいる。


 雲の形が変わった。


 その一つ一つが、少女には立ち止まる理由になった。


 不思議なことに、一度も遠回りだと思ったことはない。


 立ち止まるたび、世界は少しだけ広くなっていったからだ。


 アルトは旅の途中で初めて知った。


 遠くまで歩いたから景色を知るのではない。


 誰かが立ち止まった場所で、自分も立ち止まるから、同じ景色が自分のものになるのだということを。


 少女は振り返り、何かを見つけたように笑う。


 その笑顔は、誰かを励ますためではなかった。


 生きていることが嬉しい。


 ただ、それだけの笑顔だった。


 その笑顔に何度救われたのか、アルトは数えたことがない。


 数えられるものではなかった。


 黒は、その沈黙を見つめていた。


 雨は止み、風も吹いていない。


 掌も動かない。


 それなのに、目の前の人間だけが少しずつ変わっていく。


 何が起きているのか分からない。


 分からないということだけが、黒の中で初めて輪郭を持ち始めていた。


 そして、喉がもう一度だけ震える。


「……なぜ。」

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