秘密の通路
「随分と変わったなぁ…」
錫箔の鏡を見て、僕は思わず呟いた。
表面に映る込むのは、平凡な赤毛に染められた髪を一本の三つ編みに結った姿だ。
一晩中眠れず、顔色の悪かった頬にはうっすらとソバカスが書き込まれ、チークで血色が加えられていた。唇は白粉で少し赤さが抑えられているが、仄かなピンク色だ。
上品さよりは、晴れ晴れとした明るさが際立つような顔だ。
それでもダリアからすれば、納得のいくものではないらしい。
化粧筆を両手に握りながら敗北者のように踞るダリアは、今も僕の足元で呻いていた。
「街娘には見えません…美貌がっ!お肌のキメが!全てが邪魔をしますぅぅぅ」
そう言われると不安になるのだが、ダリアのこの苦悩はいつものことだと、ヴィオレッタは相手していなかった。
服装は婚約祝いで賑わう街に合わせて、少しだけ華やかなものが選ばれていた。
ゆったりと袖が広がる白いブラウスは手首の辺りで絞られ、襟元は詰められている。
焦げ茶色のスカートと繋がった形のコルセットは、十分に絞られてはいるが、いつもよりは締め付けが緩く随分と動きやすい。
踵の低い茶色の靴に爪先を通し、ポシェットを持つと最後に麦わらのボンネット帽子を被る。
これで特徴的な瑠璃色の瞳も、隠すことができるだろう。
顎下で帽子のリボンを結ぶヴィオレッタが、今朝からずっと繰り返している注意をまた口にした。
「少し猫背ぎみで歩いて下さいませ。街娘はそんなに姿勢はよくありませんから。あと、仕草も元気が良すぎるぐらいがちょうど良いかと存じます」
「分かったよ。それより二人とも父上にバレないように……よろしく頼む。もしも何かあったら、僕に命令されたと言ってくれ」
準備が終わって鏡の前から離れると、僕は二人の方を振り返った。
「どうぞ、お気をつけてお出掛け下さいませ」
ヴィオレッタが折り目正しく頭を下げると、慌ただしく立ち上がったダリアもヴィオレッタに倣う。
頭を上げると、二人は僕を残して部屋の外へと出ていった。
彼女たちがいなくなったのを見届けてから、僕は部屋の隅へと歩み寄る。
なんの変哲もない壁の前で腰を屈めて、指先を壁と床との境に滑らせた。
白い鏡石の床と壁のモールディングのほんの僅かな隙間に、出っ張りがある。
触れなければ殆ど分からない引っ掛かりを、僕は軽く押し込んだ。
同時にカコン、と何かが外れる音が響いて、手を掛けていたモールディングが上へとずれる。
片手で押し上げると、装飾は蓋のように開いて、ぽっかりと大きな口を開けて見せた。
僕はスカートをたくし上げて入り口を潜り抜けると、隠し通路の中で立ち上がる。
ひんやりとした湿った空気が、どこか洞窟を思わせた。
石造りの壁は入り口以外、夜のように暗い。
壁に視線を向けると、数個のランタンが掛けられているのが目に入った。
一緒に吊るされている麻袋の中からマッチを取り出すと、僕はランタンに火を灯す。
途端に暗く沈んでいた通路の先が照らし出される。
出入り口の扉を閉めると、今度こそ光源は手元のランタンだけとなる。
僕はランタンを差し向けながら、前へと踏み出した。
この通路は、公爵家の人間と大公殿下しか知らない秘密の抜け道となっていた。
有事の際に逃げるためにある通路は、公爵家に遣える家人にも知らせることができない場所だった。
この秘密の通路には、二ヶ所の出入り口がある。
一つは市民街にある家の一室、もう一つは城壁を出た先にある、公爵家直轄の穀倉地帯に通じていた。
農地を管理するための小屋が出入り口となっており、その裏手には大公家の有する鉱山の尾根が聳え立っている。
その山を越えると、友好国である帝国に抜けることができる。
亡命を目指すのに、適した場所だった。
妹の部屋から地下に通じる螺旋階段を降り、市民街にある出口を目指して地下道を歩き始めた。
暗く長い通路は、数ヵ月に一度公爵とその子息子女が共に点検することになっていた。
僕にとって慣れた道のりであったが、注意深く周囲を照らしながら歩くせいで、自然と歩みは遅くなった。
「見落としは……ないか……」
落胆が滲む僕のひとりごとは、石壁に虚しく反響した。
妹が屋敷の厳重な警備の目を掻い潜って屋敷から姿を消すとしたら、この通路を通るしかない。
妹の失踪を知った父は、真っ先にこの通路を目指したという。
そして備え付けのランタンが一つなくなっているのを、見つけたと言っていた。
だが、分かったのもそこまでだ。
失踪した日に降りだした雨が、妹の痕跡を全て洗い流してしまったのだ。
父も僕も諦めきれず、一日の終わりにここを訪れては、妹の姿を何度となく求めたが、虚しさだけが折り重なるばかりだった。
いつもの癖で目を凝らして通路を通り、結局何も見つけられないまま市民街の家の一室に通じる階段を昇っていく。
押し上げるように出口の床板を細く開くと、室内を見渡した。
床の高さから見上げた窓は鎧戸が閉ざされ、わずかな隙間から午後に差し掛かろうとする陽射しが、糸のように床に向かって垂れていた。
僕は誰もいないことを確かめてから、通路から抜け出した。
出入り口となっている木製の床板を戻してしまえば、地下に通じる扉がどこにあるか一目では分からなくなる。
僕は火を吹き消して簡素なテーブルの上にランタンを置くと、外に通じる木戸に手を掛けて、外へと踏み出した。




