36.国境
――もう龍の血族は終わったんだよ、ジェイク。
王国が近付くにつれて、あの男に言われた言葉が脳裏をよぎる。
ジェイクは認めなかった。
認めたくなかった。
少なくとも、ジェイクの中では終わってなんかいなかった。
だが、あの男は簡単に姫の意志を捨ててしまった。
――たかがヒト族の女に何を入れ込んでいる。愚かしい。
これはシャルーモの言葉だ。
当然だ。
自分たちの意志を棄てて、他人の意志を継ごうとしたのだから。
言われるまで気が付かなかった。相当頭に酸素が届いていなかったらしい。
結局のところ、ジェイクもあの男と同じだった。
ジェイクがあの男を責めるのは筋違いだった。
リスモアから王国に入ったら“龍の影”が統治するヒルデンノース領だ。
できれば、彼らに見つかる前に、さっさと用事を済ませて離れたい。
王国に向かう途中で、ジェイクはずっと顔を曇らせていた。
自衛隊に頼んで専用の携帯缶で積んでおいた燃料を補給しながら、北西へ車を走らせる事数日。
所々にあった日本の建物は、いつの間にか姿を見せなくなっていた。
『もう少しで国境都市だ』
特に会話の無かった車内にジェイクの声があがった。
『ここまで来てなんだけどさ、……あれ?』
国境の都市と聞いた学人が不安を覚えた。
国を越えるのだ、関所くらいはあって当然だろう。
しかし、旅に浮かれていて完全に失念していた事に気付く。
関所を通る事ができるのか訊こうとしたのだが、言葉を詰まらせてしまった。
学人は“関所”という単語を知らなかったのだ。
『……なんだ気色悪りぃな。国境にアレルギーでもあんのか?』
ジェイクが言葉を途切らせてしまった学人に眉を歪めた。
『なんて言うのかな。ほら、国の門? そういうの通れるの?』
それらしい代わりの言葉を見つけて質問をする。しかし、返って来た言葉は意外なものだった。
『なんだそりゃ? んなモンあるか阿呆』
上手く伝わらなかったのか、それとも本当に関所なんて無いのか。
一旦車を停め、辞書を引っ張りだしてヒイロナに見せるが、どうやら関所なんて本当に無いらしい。
そもそも、エルゼリスモア語に関所という単語など存在していなかった。
都市を抜けるとすぐにアイゼル王国だ。その国は五つの領に分かれている。
北のヒルデンノース領、東のファラン領、西のルーレンシア領、南のバアムクーヘン領。
そしてそれらを統括するのが中央のアイゼルハイム領だ。
それぞれの領にある城と、領主の座を巡る戦いが何百年と繰り広げられて来た。
女神大戦後は戦いの爪痕もあり、戦争は沈静化している。
都市に入る前にもうひとつ、考えなければならない事があった。
車だ。
車をどこに置いておくのか。まさか駐車場があるわけでもないだろう。
せっかく街があるのに車中泊は勿体無い。
それでなくとも疲れるのだ、既に背中が少し痛い。できるならベッドでゆっくりと眠りたいところだ。
良い考えが見つからないまま、行く手に街が見えてきてしまった。
『車どうしよう?』
再び車を停めて、二人に良い案が無いか訊いてみる。
『そのまま突っ込め』
ジェイクのは論外だ。
『んー、見張り番でも雇う?』
ヒイロナの意見はまともだが、一晩中車の見張りは可哀想な気がする。
お金もそれなりにあるが節約するに越した事はない。
『なら倉庫でも一晩借りろ』
倉庫。商人ギルドというものがあって、倉庫の貸し出しをしているらしい。
もちろんお金が掛かるが、見張り番を雇うよりは安上がりだろう。
学人としては、できれば車で街に入る事は避けたかった。目立ってしまうからだ。
大陸の人間の目からすると正体不明の物体が自走しているのだ。何が起こるともわからない。
他に良い案も浮かばず、結局倉庫を借りるというジェイクの提案を採用する事になった。
ヒイロナが先に都市に入り、北のはずれにある倉庫を借りた。
都市はいくつかの区画に分かれていて、東と西側が宿街、南側が飲食街、北側が倉庫街、中央は広場になっていて露店が並んでいる。
門は東と西、それから北にもあるが倉庫街専用の出入口で、契約した際にもらえる通行証が無いと使う事ができない。
専用の門から街に入り、隠す様に車を停めた。
倉庫街は警備兵以外は人もまばらで、あまり目立つ事もなかった。流石に警備兵たちは初めて見る自動車に驚いていたが。
東と西の門は開け放たれているが、北の門は物々しい雰囲気で倉庫の警備がされていた。
商人たちの荷物を預かっているのだ。当然だろう。
東の門をくぐると真っ直ぐに街を横断し、広場を円状にぐるっと回って西の門へ抜ける事ができる構造になっている。
一際立派な防壁に囲まれた倉庫街から直接街に入り、とりあえず宿を取って学人達は街へ繰り出した。
ジェイクの言う通り、関所なんて物は存在していなかった。
ランダルと比べると小さな街だが、ここも中継都市のひとつなのだろう。
国境こ越える商人や旅人が一息つく。そんな場所だ。
人通りの多い道を歩いていた学人は大勢の視線を感じた。
周囲を見回すと人々が物珍しそうに学人を見ている。
『あ……やっぱりリスモアの服に着替えた方がよかったかな?』
学人はランダルで慣れてしまっていたせいか、普通にスーツ姿で出歩いてしまっていた。
見える範囲では洋服を着た人間など、どこにも見当たらない。完全に目立ってしまっている。
『大丈夫だろ。お前らの話はもうここまで広がってるはずだ』
ジェイクの言う通り、商人によって話は伝えられているだろう。
しかし目立つという事に、学人は不安を拭い切れない。
『とりあえずメシにしよう。俺は腹が減った』
『わたしもお腹すいたー』
見ると日が傾き始め、空は朱色に染まっていた。
『火酒を。それとお薦めの料理を適当に持って来てくれ。そうだな……肉料理なんかがいい』
『あ! わたしお茶で。それから野菜もほしい!』
酒場に入るなり、ジェイクとヒイロナが適当に注文する。
まだ暗くなりきっていないのにも関わらず店内はほぼ満席で、既に酒に酔って陽気になった客の熱気で充満していた。
奥にはステージが用意されていて、吟遊詩人であろう森林族が楽器を演奏しており、かなり賑やかだ。
『……ていうかジェイクお酒飲むの??』
酒を注文するジェイクに、学人が意外そうに言葉を向ける。
ランダルに滞在していた時も、酒を飲んでいるところなど見た事がなかったのだ。
バーニィに拉致されて酒場には行っていたようだが、実際に目にしたわけではない。
『たまに嗜む程度だ』
しばらくすると先に瓶子に入った酒、ナッツにサラダが運ばれて来た。
学人がテーブルの上に置かれたサラダに目を向けると、あるまじき物が映った。
『え? ちょ……なにこれ??』
芋虫だ。
野菜に混じって、カブト虫の幼虫みたいな物が沢山入っている。
『リストレア名産のクリムワームだよ。サラダに超合うんだよー』
溢れんばかりの幸せそうな笑顔で、ヒイロナが野菜と一緒に頬張る。
『んー、おいしー! ガクト? 早く食べないと全部食べちゃうよ?』
『あ、はい……うん、ドウゾ』
もちろんドン引きだった。
『ガクト、お前も飲むだろ?』
返事も聞かずにジェイクが火酒を注いで学人に突き付ける。
学人は酒を全く飲まないわけではないが、あまり強くない。付き合いで飲む以外は、ごく稀に自分の部屋で少し飲んでいたくらいだ。
少しくらいなら……と酒の入ったコップを受け取る。
一気に呷るジェイクにならい学人も一気に呷った。
灼けるような感触が喉を通り過ぎて身体の奥へ落ちていく。
「ゲホッ!!」
むせた。
『汚えなおいっ!』
『ゲホッゴホッ! ちょ……』
涙目でジェイクに非難の視線を向ける。
テキーラ、学人が知っているのはクエルボくらいなものだが、それと比べてもこの酒は比にならない程度数が高かった。
空きっ腹にきつい酒、一気に血液の流れが早くなり顔に紅みが帯びる。
……。
結局学人はジェイクに何杯も飲まされ、ロクに食事もしないままテーブルに突っ伏してしまっていた。
『ガクト大丈夫?!』
『なんだ、情けねえな』
『ちょ……ちょっと外で吐いてくる……』
『わたしも行く!』
『ガキじゃねえんだ、ほっとけロナ』
『でも……』
『ヒイロナ……一人で大丈夫だから』
千鳥足で店の外に出て、胃の少ない内容物を吐く。
『だいじょーぶ? はい、水や』
割れるような頭痛を抱えて吐いていた学人の背後から女の声がして、水が差し出された。
背中を擦られ、渡された水を飲み干して振り返る。
『あぁ……ありがとうヒイロ、ナ?』
違った。
猫だ。
振り返った学人の目の前にいたのはヒイロナではなく見知らぬ女、猫の獣人族だった。
急に視界が歪み、強烈な眠気に襲われる。
『ほな行こか』
猫の獣人は笑みを浮かべて眠った学人を担ぎ上げ、闇夜の中に溶けて行った。




