100.草食動物の反撃 2
まだ意識が少し朦朧とするものの、一度吐いたおかげか幾分楽になっていた。おそらく自律神経に影響を及ぼしているのだろう。
とは言っても気分が悪いのは相変わらずで、一人で歩くには足取りがおぼつかない。シャーウッドに肩を借りる形で歩く。
学人が目を覚ますと階段は跡形もなく消えていた。ただ、魔法が解けたわけではないらしく、城内が完全に迷路と化している。階段が至る所に点在していて、昇ったかと思えば降りてを繰り返している。
城内に詳しいシャーウッドとノアでも、これでは完全にお手上げである。
『まいったな、また同じ道みたいだ』
壁を見たシャーウッドが項垂れる。
少し進むごとに、物置にあった炭を使って目印を付けている。この場所に戻って来たのはこれで三度目だ。
目の前には十字路が待ち構えている。三つのうち二つは進むとこの場所に戻ってきた。地道に一つづつ潰していくしかない。
『正しい道なんて……ないのかも……』
ノアがぼそりと不吉な発言を漏らす。
その懸念は十分にあった。リフォーム番組も顔負けの大改造をしているのだから、上階への手段を潰していてもおかしくはない。
本来ならば一度外に出て仕切り直したい。このままでは迷路から抜け出せず、ただただ迷子になるだけである。
しかし、延々と窓も扉も無い廊下が続くばかりで、脱出どころか外の様子すら窺う事ができない。
歩き続けてもう大分時間が経っている。学人の焦燥感は募るばかりだった。
(しかし……)
壁を軽く叩いてみる。音、感触、温度、どれを取ってみても、これは紛れもない本物だ。元が幻影魔法などとはにわか信じがたい。
しかも壁だけではなく、間隔はまばらではあるものの、ご丁寧に灯火までかかっている。学人はそこに違和感を感じていた。
もし明かりが無ければ真っ暗である。たとえ窓があったとしても、空は分厚い雨雲が渦巻いているので、月明りなど届かない。
真っ暗であるという事は、ただそれだけで障害となる。もし学人なら、絶対に灯火など配置しない。これはゲームの親切なダンジョンなどではないのだから。
となれば答えは簡単に見つかった。
この迷路にはノットの意思は反映されていない。もちろん、こうなるように魔法を生成したのだろう。しかし、通路の一本一本がどうなっているかなんて、本人ですら把握できていないように思えた。
例えるならローグライクゲームと同じ原理だろうか。きっとこれはテクスチャとして複製し、ランダムに配置しているに過ぎない。
辿り着いた答えが結局ゲームだった事に、学人は少し苦笑いを浮かべる。この考えが正しければ、出口が完全に塞がっているとは言い切れなかった。
進む前に目印を書き加える。どんどん書き加えていけば、何度戻って来たのかが把握できる。
書いた文字は“3”だった。
『それはお前のとこの文字か?』
『うん、数字だよ』
この世界にも、もちろん数字という概念は存在する。こちら側の世界では二進数、十六進数といった様々な数記法があるが、この世界では十進数のみだ。
一番馴染みのあるもので助かっている。
『もし逸れた時に、読めた方がいいから覚えてよ。簡単だから』
しばらく進むと、まだ目印の書かれていない廊下に出る事ができた。
耳を澄ませばかすかではあるが、戦闘音らしきものが聞こえてくる。どこも同じにしか見えない迷路の中で、学人たちは音を頼りに進むしかなかった。
『ところで……』
ふいに、シャーウッドが口を開いた。
『なぜノットを殺らなかった? 話を聞いた限りじゃ、簡単にやれたはずだろう?』
学人に向けられた視線は、呆れや怒りとは無縁のもので、心底理解できないといった感じだった。
刺していればきっと、全てが終わっていたのだ。なのにそのチャンスを棒に振ってまで、裁きにかける事を選んだ。
『僕じゃ駄目なんだ。僕じゃ単なる殺人以外の何物でもないんだ』
シャーウッドには言っている意味がわからなかった。
大量殺戮を企てていて、それが証明されれば待っているのは死刑である。誰が手を下そうが、結果としては同じだ。
もっとも、ノットがそう簡単に尻尾を掴ませるとは思えない。ヴォルタリスが尋問したところで、のらりくらりと躱す事が予想される。言い逃れなんていくらでも準備しているだろう。つまり、リスクを背負う事になる。
『本当に変な奴だな。お前の世界じゃ、みんなそうなのか?』
その問いに、学人は即答できなかった。他の誰かならどうしただろうか。
吉村小鳥なら、竹岡淳平なら?
『みんなとは言わない。でも、ちゃんと全体が見えていたら、きっと同じような事をしていたと思う』
そう、これは簡単な話ではない。
ノットは魔術研究者で、世間の評価も決して悪くない。それはペルーシャから初めて彼の人物像を聞いた事からも読み取れる。
そんな地位ある研究者を異人が殺害したとなればどうなるか。
真実を知らない王国から怒りを買うだろう。事後で証明しようとしても、完全に敵視された立場では、素直に耳を傾けてもらえるとも思えない。
今を乗り越えたところで、待っているのは最悪の結果である。王国と日本との間に溝を作ってしまっては、元も子もないのだ。
これは未来を見据えた行動と、そして結果が要求されているのだ。
二人のやりとりを黙って聞いていたペルーシャは、複雑な心境だった。
彼女に与えられた任務は領主の暗殺である。ここでそれを全うしてしまうと、学人の考えや努力が無に帰してしまう。学人の事を考えれば、暗殺は一番の悪手だった。
話が終わると、丁度また目印を付けた地点に戻ってきてしまっていた。
書かれている数字は“1”。全体で見れば、そこまで複雑な構造ではないらしい。この先でどれだけ迷おうとも、これ以上戻ってしまう事はなさそうだ。
『シャーウッド……!』
ボソボソと喋るノアとしては珍しく、はっきりと聞き取れる口調だった。一行は足を止める。
学人も不穏な空気を感じ取っていた。目の前は曲がり角になっていて、ここから先の様子を窺う事はできない。揺らめく炎の明かりが漏れているが、影が伸びているわけでもなく、何かが近くにいるとは思えない。なのに、妙な気配だけがする。
正面を見据える学人とシャーウッドとは別に、ノアとペルーシャの視線は天井へと注がれた。
『上……何かいる!』
警告と同時に二人が動く。
視界を上げると天井を黒い何かが、まるで水が流れるかの如く這っていた。
ノアが小型の弩を向ける。引き金が無い代わりにレバーが付いており、奥に倒すと台座に取り付けられた箱のような装置から矢が装填され、手前に倒すと発射される。
間髪入れずに連射される矢が、次々に黒い何かを撃ち落とす。威力はあまりないらしく、遠距離というよりは接近戦向けの弓のようだ。
ノアが撃ち漏らした分を、ペルーシャのナイフが撃墜していく。しかし数が多い。
床に落ちたそれを見ると、丸い胴体を中心に沢山の触手が付いた、手の平サイズの魔獣だった。
『あかん、走れ!』
およそ二十匹、全体の三分の一ほどを仕留めたところで諦めた。ノアは矢を撃ち尽くし、予備の矢を装填している余裕がない。ペルーシャのナイフも数が多いわけではないので、所詮は焼石に水だった。
生き残った魔獣が次々に飛び掛かって来る。
『ニャんやねん! めっちゃきしょいッ!』
剣で弾き落とし、あるいは躱しながら先を急ぐ。
防ぎきれなかった魔獣が体に張り付いてくる。全身を鳥肌が駆け抜け、慌てて振りほどこうとする。
しかし吸盤のように吸い付いているのか、思うように引き剥がす事ができない。
魔獣がどんどん降り注いでくるので、こちらにばかり気を取られていられなかった。何体か投げ捨てたると、今は逃げる事にのみ専念する。
逃げ惑っていると、今度はあの蛇の魔獣が数体、行く手を塞いでいた。寒さのためか動きは鈍い。
『おい!』
シャーウッドに言われて、学人も剣を向ける。たとえ倒せなくても道さえ開ければそれでいい。
肩に回した腕を離して突進する。突き出した刃が無防備に曝された青っぽい肌を貫いた。刀身が根元まで沈み、血飛沫が頬を濡らす。
すぐさま引き抜こうとするも、筋肉の硬直か、倒れた魔獣に剣を掠め取られてしまった。
シャーウッドを見れば突撃などせず、横薙ぎのスウィングが首元を狙っている。剣の扱いの差が出た形だった。
剣を失った学人に一体のメデューサが襲いかかる。
『伏せて!』
ノアの呼びかけで咄嗟に身を屈める。学人の頭上で風が切られると、三本の矢がメデューサを射抜いていた。
『あ、ありがとう』
『いいから……!』
メデューサの屍を踏み越えて再び駆け出す。
すると、天井を這っていた魔獣が追って来なくなった。不思議に思って振り返ると、メデューサの死骸に群がり始めている。張り付かれていた体の部分を確認しても、怪我はどは一切しておらず、フナムシのような魔獣なのかもしれない。
落ち着きを取り戻した途端に、遠くに聞こえていた怒声や悲鳴が近くになっている事に気付いた。呼吸を乱しながらも足早に歩みを進める。
通路の先は広い空間になっているらしく、魔獣と戦闘を繰り広げる兵士たちの姿が確認できた。その中に、聞き覚えのある声を拾う。
『ジェイクッ!』
通路を抜けると、そこは正面ホールだった。
豪華な装飾が施された柱や、動物の物と思われる彫刻が血で汚されている。おびただしい数の死骸が転がり、どうやら鎮圧寸前といったところだった。
中央ではジェイクが兵士に囲まれて、睨み合いになっている。こちらに気付いたジェイクはとても良い笑顔を見せた。
『よう、斬新なアクセサリーだな。俺にもひとつ買って来てくれ』
何の事だ? そう思った刹那、背後から伸びた腕が胴に絡み付き、魔獣の血に塗れた白刃が首に当てられた。
前に躍り出たノアが弩を学人に向ける。
『剣を捨てろッ!』
学人の耳元でそう叫んだのはシャーウッドだった。




