二月十五日 素直な気持ちと秘められた事情
翌日、沙織は普段通りの様子で接してきた。要の目から見る限り、その姿は今までと変化がない。まるで昨日の告白は嘘だったかのように。
しかし、沙織の存在がそんな幻想を打ち砕く。話しかけられたり、ふとした拍子に手が触れたり、そんな何気ないことが起こるたびに好きだと告げられた場面が浮かぶ。
変わらぬ沙織と向かい合い、更に意識してしまう自分がいた。こんな姿を見られて幻滅されないかと心配になる。
一人では処理できないようなこの気持ちをどうするか。そこで要は、ある考えに行きついた。一人になった瞬間に、その人物へとメールを送る。
「──で、私を呼び出したわけね」
「急にごめんね、秋奈さん」
放課後、図書館の部屋という恒例の場所に、今日は秋奈と要の姿があった。ルームメイトということもあり、沙織のことは秋奈に相談しようと考えたのだった。
「いえいえ、むしろ頼ってくれて光栄だよ」
「そう……えっと、ね。その──」
続く言葉を持ち出せず、言い淀んでしまう。けれど、黙っていては始まらない。興味津々といった様子で待つ秋奈に向け、要は今日ここへ呼び出した理由を告げる。
「──沙織に、告白されたんだけど」
「うん。知ってる」
「えっ?」
一大決心とばかりに打ち明けた核心は、いとも簡単に受け止められた。
「って言うか、沙織の背中押したの私みたいなもんだし。あ、それと彩と泉沢先輩もね」
言葉を失うという感覚を、要は初めて味わった。不快という意味ではなく、薄い驚愕にも似た気分に溺れる。
「まあ、それは置いといて。沙織に告白されて、どうだった?」
「えっと……嬉しかった、けど」
「けど?」
「どうしたら、いいのかなって」
それが要の正直な気持ちだった。沙織に好きと言われたことは嬉しい。
けれど、どのように応えれば良いのかがわからない。女性同士の恋愛に抵抗がないと自分で言っていたのに、いざ当事者となった途端に自信が霧に包まれてしまう。
「そっか……参考になるかわからないけど、少し私の話をしてもいい?」
「うん」
「あのね、私も女の子に好きだって告白されたんだ。幼馴染で、二歳下の子」
そうして秋奈は自らの過去を語り始めた。偶然の出会いから、家族ぐるみとなるまで仲を深めたこと。久永への進学直前に告白されたこと。遠く離れていながらも、想いは膨らみ続けたこと。
そして、大切な人が特別な人に変わった年末の出来事。
「──そんな感じでさ。今は遠距離恋愛中ってことになるのかな」
「そうだったんだ……」
「だからね、要さんも沙織のことをよく考えてあげてほしいの。あの子、相当勇気を出したはずだから」
「うん。そのつもり」
「勝手な推測だけど、要さんの中では答えがもう出てるんじゃないかな。それをどうやって形にするかで悩んでるだけで」
「……そうかも」
「そんな時はね、こう考えるの。その人と一緒にいたいかどうか。簡単でしょ?」
「それだけでいいの?」
「こういうのはね、難しく考えるとドツボにはまってくものだから。単純になれば、それだけ素直な気持ちが出てくるものだよ」
「……わかった。ありがとね」
「どういたしまして。これもルームメイトの務めってやつですよ」
芝居がかった仕草で手を振る秋奈は、漠然としながらも確かな信頼感に溢れていた。
*
要を見送った秋奈は、部屋から出ずに腰を下ろした。これから来る人物を待つためである。
「やあ、待ってましたよ」
程なくして現れたのは、彩と悠希であった。何度も利用しているだけあって、その動きは慣れたものだった。それぞれが自らの所定の椅子へと腰掛ける。
「すみませんね。要さんが話したいって言うから時間を遅らせてもらっちゃって」
「いえ、いいんですよ。四十崎さんとは、やはり麻生さんの件で?」
「そんなところです。でも、問題ありってわけじゃなさそうですね。むしろいい方向へ流れそうですよ」
「へえー、アイちゃんもさおりんのこと気になり始めたのかな」
「前からそんな気はしてたけどね。あれだけ仲良しだったから」
「ねー。あたしから見ても付き合ってないのが不思議なくらいだもん。なんて言うか、その辺りの女の子がするスキンシップとは違うんだよね」
「見てるこっちがハラハラしてたよ、ホント。これからどんな関係になっていくことやら」
「アイちゃんも積極的なところあるし、心配する必要ないんじゃない? ねっ、悠希」
「そうね。あとは陰ながら祈ることしかできないけれど、失敗するなんて未来は想像できないわ」
そうして要と沙織についてしばらく話し合った後、秋奈は核心に触れることを決めた。要と沙織の件が落ち着いた今、どうしても明らかにしたいと考えたのだ。
「ところでさ。そろそろ、本当のことを話してくれてもいいんじゃないかなって思うんだけど」
その言葉に一瞬だけ眉を動かして反応したが、彩はすぐに元通りの陽気な顔を作る。
「ナギさん。本当のことって?」
「とぼけちゃって。どうして沙織や私の背中を押してるのかってことよ」
「それは以前お話したと思いますが」
悠希の言葉に少なからず焦りを感じ、手応えを得た秋奈は更に踏み込んだ。
「そうですね。私もそれは本当だと思います。けれど、何かが足りないような気もするんです。ただの勘ですけど、もっと大きな理由があるんじゃないですか?」
「それは……」
「この際ですから隠し事はなしにしましょうよ。私も一個、言ってなかったことを伝えておきますから」
視線を交わしながらも沈黙を続ける彩と悠希に向け、秋奈は言葉を続ける。
「年末に実家へ帰った時ですが、私は衿香に想いを伝えてきました。このまま待ち続けるなんて、耐えられなかったんです。それでも衿香は私を受け入れてくれて……一つ先の段階へ進みました」
口付けが証明になったことは言えなかったが、その場面を回想して顔が赤くなっていた。
その様子から真相を気取られるのではないかと表情を引き締める。迫力に押されてか、彩がたじろいでいた。
「うーん……どうしよう、悠希?」
「仕方ないわ。隠しておいてもためにならないもの」
悠希は諦めたように首を横に振り、秋奈へと向き直る。
「薙坂さん。いい機会ですからお教えいたしましょう。協力して頂いたのですから、それがフェアというものです」
真剣な話をしようかという雰囲気ながら、悠希が従える優雅さは薄れることがない。向けられた瞳に射抜かれただけで、秋奈は深く引きずり込まれていた。
「皆さんが委員会に入られたばかりの頃です。この部屋で私たちが、久永学園に伝わる噂についてお話したことを覚えていますか? あれは根も葉もない噂などではなく、すべて現実の話なのです」
「と、言いますと……?」
「思うままのことができるようになる能力を、この私が持っているということです」
確証を得られず繋がらなかった無数の点が、一本の線で結ばれた。稲妻を彷彿とさせる衝撃が秋奈を貫き、悠希の言葉に絡め取られていく。
「難しいことを話しても始まりませんし、まずは簡単なところからお伝えしていきましょう──」
そうして悠希は語り始めた。抱えた能力を誰かに譲渡したいと考えたこと。能力を持つ条件として、深い絆で結ばれたパートナーが必要なこと。最初はそのために要や沙織、秋奈たちの背中を押していたこと。
「──しかし、皆さんが絆を深め合っていく姿を見ているうちに、その考えが変わっていきました。そして、いかに自分が愚かなことを企んでいたかに気付いたのです。償いなどと取り繕うつもりはありません。ただ、これからは誰も苦しまず、幸せになれるように動こうと決めたのです」
「えっと……なんと言ったらいいのか」
去年の春、同じ話をされた時から薄々察しはついていた。あの場で語る内容にしては、あまりにも不自然過ぎた。それに、校内でそんな噂が流れているということを、この二人以外から聞いた覚えもない。
秋奈は苦笑することしかできない。自分の理解を超えた話をすぐに受け入れろという方が無理な話であろう。世迷い言への返し方などわからない。
悠希もそれは理解しているのか、動じる様子はない。儚げな表情のまま、静かに佇んでいた。そこで、ふと浮かんだ考えがあった。
「あの、一つ訊いてもいいですか?」
「なんでしょうか」
「そんなに凄い能力を持っているのに、どうして誰かに譲ろうなんて考えたんですか?」
特に深い意味などなく、それは純粋な疑問から生じた質問であった。仮に自分がその能力を持ったとしたならば、独占して有意義に使うだろうと空想する。
「それは……」
口ごもる悠希の様子に、秋奈は首を傾げる。更に深く秘められたことがあるのではないかと勘繰ってしまう。たとえば、能力には代償が必要であるといったところか。
だが、それを考えることは悠希の話を信じているという証拠でもある。認めるか疑うか。次第に秋奈は考えることが苦痛になってきた。この議論が行き着く先さえ見えなくなる。
「それは……きっと、普通の生活に戻りたいと思ったから、でしょう」
人生に達観したかのような表情で告げられた言葉は、静まり返った室内へ溶けていった。
その言葉へ到達するまでにどのような道を歩んできたのか、秋奈には知る由もない。
「そう、ですか」
秋奈はそれ以上追及ができず、ただ声を落とすことしかできなかった。
「驚いた? いきなりだもんね。すぐに信じられちゃったら、あたしの方が逆にビックリしちゃうよ」
「なんか、驚くっていうより信じられないって方が大きい」
「じゃ、証拠見せようか」
なんでもないことのように言い放ち、彩は悠希に目配せをして辺りを見回す。
「そうだなあ……ナギさん。この紙に適当な数字をいくつでもいいから書いてくれる? あたしたちは後ろ向いてるから」
秋奈は言われるがまま、紙に数字を書き始めた。いくつでもという言葉に従い、更に一捻りしたものを完成させる。
その間、確かに彩と悠希は背を向けていた。向こう側の壁が鏡や窓になっているということもない。
「書いたよ」
これで正確に言い当てられたなら、少なくともこの二人は普通ではないということが明らかになる。念のため渡された紙とペンを調べてみたが、どちらも不審な点などない。そもそもペンは自分の所有物だ。
「そしたら、今からナギさんが書いた数字を当てるよ。このままでね」
そう言って、彩は悠希に寄り添った。腕にしがみ付いて、何かしらの力でも送っているのだろうか、と秋奈は冗談半分に想像する。しかし、どう見ても彩が悠希に甘えているようにしか見えない。
時間にして一分にも満たない沈黙の後、悠希の声が室内に舞う。
「見えました。五百六十割る三十五、イコール……答えは書いてありませんが、十六ですね」
「えっ、ナギさん計算式書いたの? しかもそんなに難しいやつ。なかなかニクイことしてくれるねえ」
秋奈は絶句した。手元の紙には、悠希が言い当てたのと寸分違わぬ数式が書いてあるのだから。
式でも数字には変わりなく、即興の暗算では答えが出しにくい問題だったにもかかわらず、悠希はその先へ軽々と飛んでみせたのだ。
完敗だった。今の悠希は透視能力に匹敵する何かを持っているのだろうか。
「なんか手品みたいになっちゃったけど、これで信じてくれるかな? 他にも何かリクエストしてくれたら大体のことはできると思うけど」
「ううん、もう十分……信じるよ。私たち、友達でしょ。疑うはずないじゃない」
「ナギさん……ありがとう」
「私からもお礼を申し上げます。受け入れてくださって、本当にありがとうございます」
「いえ、そんな頭を下げられるようなことじゃ」
未知の存在にも思えた悠希は、今も変わらず独自の空気を連れている。恐れを抱く対象としては見られない。
こんな能力を持ってしまったのにも、何か理由があるのだろうと秋奈は考えた。
「薙坂さん。無茶なお願いだとは承知しておりますが、これからも私たちに協力してくださるでしょうか」
当然だ、と返そうとした秋奈の脳裏にある妙案が閃いた。
「……それは、できません」
「そうですか……残念です」
彩と悠希は目に見えて落ち込んでしまった。そんな顔をさせるつもりはなかったのだが、想像以上に上手くいったので思わず吹き出してしまう。
「協力だなんて他人行儀なことはしません。言いましたよね。私たちは友達だって。友達が困っていたら手を貸してあげるのが当然じゃないですか」
「ナギさん……!」
「ありがとう、ございます……」
これで対等だ、などとは思っていない。むしろ、この状況を楽しみ始めていた。
考えてみれば、今はとても貴重な経験の中にいるのだから。久永に来て、様々な人に出会い、親しい関係になれた。そのどれもが輝いている。
秋奈は思い描く。きっと衿香もこの輪に加わって楽しく過ごせるだろうという未来を。