二月十四日 指先の甘さと告白の時
遂にその日がやってきた。沙織の心は嫌でも浮足立つ。
今まで特別視することもなかった日だが、今回は違う。要に対する恋心を抑制することなく解放するべき時なのだから。
校内は、授業開始前からチョコの話題で盛り上がっていた。既に渡していたり、交換していたりするグループもあるようだった。
その中に、どれだけの本命が含まれているのか沙織にはわからない。ただ、自分が抱えている想いだけが紛い物ではない真実である。
「なんか、みんなチョコ渡し合ってるんだけど……」
「バレンタインだからね」
何気なく向けた視線の先では、渡したばかりのチョコを食べさせ合っている光景が繰り広げられていた。
「仲良しなんだろうなー」
そんな呟きが無意識に零れる。羨ましさを感じていたのかもしれない。そもそも自分は要に渡すと決めているが、要がくれるかどうかはわからない。
「あのね、私も沙織にチョコ渡したいなって考えてるんだけど」
沙織の思考に巡り合わせたような要の言葉に歓喜を覚える。チョコを貰えるということもまた、特別ではないかと思った。
「ホントに? わたしも要にあげるつもりだよ」
「そしたら、今日の放課後、私の部屋に来ない? そこで交換しようよ」
「行く!」
「沙織はもう作ってあるの? 私は帰ってから作るつもりなんだけど」
当然のように手作りとして会話を進められることが、訳もなく嬉しい。
「わたしもだよ。放課後になったら彩の部屋に行って作るんだ」
「じゃあ、お互いに出来たてを食べられるね」
「うん!」
そうして二人で笑い合う。これから想いを伝えようと決意しているのに、不思議と沙織の心は落ち着いていた。不安が消えたということではないのだが、むしろ今は高揚感の方が強かった。まさに気持ちが抑えきれないといった様子である。
しかしその活力も、放課後が近付くにつれて変容していく。どんな言葉で気持ちを伝えるべきなのか、授業などそっちのけで考える。
秋奈からは「素直に好きと言えばいい」と助言されていたものの、それだけでは何かが足りない気もする。
その答えを探し続け、五時限目の終わり近くになってようやく気付いた。好きだからどうしたいのか。要とどうなりないのか。そういった自分の願いが抜け落ちていたのだ。
そして、自分がどうしたいのかという答えなら既に出ている。要と特別な関係──恋人同士になりたいという明確な意思が。
「要、待たせちゃってるかな……」
彩の部屋で調理を終えた沙織は、要の部屋へと向かっていた。直前に送ったメールによれば、要の方も完成が近いらしい。
「行ってらっしゃい! 健闘を祈ってるよ」
「微力ながら応援させていただきます。自信を持ってください」
彩と悠希に背中を押され、沙織は決意を胸に歩き出した。吹き荒ぶ北風もその足を止めることはできない。要に会えると考えるだけで、足取りはこんなにも軽い。
辿り着いた要のマンションを見上げ、エレベーターに乗り込んで五階を目指す。体が上階へと運ばれていく浮遊感にも似た味わい。耳の奥が詰まる感覚と共に、今更とも言えるような緊張が湧き起こってきた。
胸の鼓動が高まる。何もせずとも感じられる脈動が、熱くなった体の動きを鈍らせる。飲み込んだ生唾がそのまま溢れたような汗が滲む。隠していた弱い自分が逃げろと囁く。それなのに両脚は棒になったかのように動かない。
暗い闇に飲まれそうになった時、沙織は簡単なことに気付いた。こうして悩んでしまうということは、それだけ要のことが好きな証拠なのだと。想いが強いほど苦悩も大きくなるのだろう。
そう考えた途端、妙な自信と共に気が楽になった。悩んでいたのは一瞬だったようで、エレベーターは四階を通過したところだった。要の部屋は近い。
到着音に続いて扉が開く。さあこれからだと意気込んでエレベーターを降りると、そこには要が立っていた。
「いらっしゃい、沙織」
白い息の向こうに見える要の顔。部屋着に適当な上着を羽織った姿の要であったが、その頭にはニット帽が乗っている。沙織が渡したクリスマスプレゼントだ。もちろん沙織の首にも、要に貰ったマフラーが巻いてある。
「えっ、なんで?」
「待ちきれなくて廊下に出てたの。そうしたら沙織の姿が見えたから」
思わず、この場で想いを打ち明けそうになってしまう。それほどまでに、要のことが愛しく思えてしまった。
「こんなところじゃ寒くて風邪ひいちゃうよ」
しかし、今は要の手を取るだけに抑えた。手袋を付けていないその手は冷えており、自分の手で温めてあげたいと思う。
その手を包み込むと、要は嬉しそうに微笑んでくれる。ほのかな温もりが消えないようにしながら、どちらからともなく部屋の扉へと歩いていた。
部屋の中は暖房がきいており、外の寒さを一瞬で忘れさせてくれた。つい先ほどまで調理をしていたのだろう。甘い香りが漂っているのがわかる。
「ねえねえ、要のチョコは?」
和室に腰を下ろしてすぐに問いかけてしまうほど、沙織の心は湧き立っていた。
「ちゃんとできてるよ。今持ってくるね」
部屋を去った要を見送り、沙織も今しがた作ってきたチョコを机の上に出す。こうしておけば、戻ってきた要の目に必ず入るだろう。どんな顔をしてくれるのかと期待に胸が膨らむ。
「お待たせ──あっ、それ沙織の?」
「要のために作ったチョコだよ」
言いながら包みを解く。要が持ってきたのは、平たい棒状のケーキにも似た洋菓子だった。どんな味がするのだろうと想像していると、要がその答えを教えてくれる。
「これはね、ブラウニーっていうお菓子なの。クルミが入っているから、しっとりした食感だけど歯ごたえもあると思うよ」
「おいしそう……」
思わず見とれてしまい、自分のチョコが見劣りしないかという不安が生まれる。けれど要に食べてほしいという想いは抑えられず、箱の中身を明らかにした。
「わたしはね、フォンダンショコラ作ってきたんだ。ほら」
台座代わりの型で膨らんだ八個の洋菓子たちに、要の視線が注がれているのがわかった。興味を持ってもらい、どんなチョコ菓子を作るか提案してくれた彩へ感謝の念を送る。
「これ、中にトロトロのチョコが入ってるんだ。レンジでちょっと温めたらいい感じになるよ」
「じゃあ、レンジ貸すね。その間にお湯湧かすから、紅茶でも淹れようか。泉沢先輩のやつには遠く及ばないようなインスタントだけど」
「ううん、要が作ってくれるなら……なんでも欲しい」
「なんでもー? ふふっ、食いしんぼさんだね」
穏やかに微笑む要と共にキッチンへ向かう。レンジとコンロを使っている間の沙織は自分を抑えることなく、要に寄り添っていた。要も満更ではないようで、優しい視線を存分に注いでくれる。
「今回も彩に作り方教えてもらったんだ。彩にはお世話になりっぱなしだよ」
和室に戻って、沙織はそんなことを口にした。すると、要もこんなことを打ち明けたのだ。
「実は、私もそうなの。必要な道具とか少し借りたりもしたし」
「そうなんだ?」
「うん。沙織にあげようって考えたら、やっぱりちゃんとしたのを作りたいって思ったから……」
同じ気持ちを抱えていたことを知り、また心臓が跳ねる。
「わたしだって、要にあげるために頑張ったんだよ。これ、ホントに自信作なんだから」
「じゃあ、早速食べてみようか」
互いに紅茶を一口飲む。渋みが強く感じられるが、これから甘い物を食べるとあって好都合だった。これが要の普段飲んでいる味なのかと意識しながらもう一度飲んでみる。
「沙織は自信作って言ったけど、私だって同じだからね?」
そう言って先手を打ってきたのは要だった。手頃な大きさに切られたブラウニーを持ち、沙織の口元へと近付けてくる。
「はい、食べてみて」
こちらから行動を起こすことには慣れてきたのに、要に何かをされると途端に照れが出てしまう。気恥ずかしさで熱くなる頬を感じながらも、沙織は口を開けた。そっと差し込まれる洋菓子を含み、咀嚼する。
要の言葉通り、柔らかな生地の中にあるクルミが絶妙なアクセントとなっており、どこまでも広がる甘さに酩酊すら覚えそうになる。できるなら、永遠にこの味を楽しんでいたいと思ってしまうほどに。
二口目を頬張った瞬間、異なる感触が唇にぶつかった。それが何かと考える間もなく、要の指先を咥えてしまったことに気付く。
「んっ……」
すぐにそれは離されたが、ゆっくりとした動きが残した余韻は消えず、洋菓子の味を楽しむどころではなくなってしまう。チョコよりも圧倒的に甘い誘惑が沙織の中を駆け巡る。
その果てに、もう一度要の指を口に含みたいという考えまで浮かんでいた。
「もう一つ食べる?」
要は指が唇に触れたことなど気にしていないかのように、新しいブラウニーを沙織の口へと運ぼうとしていた。
「……うん。食べる」
拒否という概念が抜け落ちてしまったかのように、沙織は頷いて口を開けていた。再び味わうブラウニーは当然のように甘く、やはり最後には指が侵入してくる。そこまでは同じだった。
違うのは、その時要と目が合ったことである。
「……」
沈黙の中で沙織は与えられた甘さを味わい、要はどこか恍惚とした笑みを浮かべている。絡み合う視線は外れることなく、ようやくどちらからともなく逸らすまで十秒ほど経過していた。
「おいしい?」
「……うん」
要の問いには、小声で答えることしかできなかった。そっと窺えば、要は自作のブラウニーを口に運んで「うん、いい味」と頷いている。それを掴むのは、数秒前まで沙織の唇に触れていた指。
「どうしたの、沙織。ぼけっとしちゃって」
「えっ、いや」
既に耳まで熱くなっているのを自覚しながら、それでも要へと手を伸ばす。
「……要も、わたしのチョコ、食べて」
フォンダンショコラを要の前に差し出す。俯いているので要の顔は見えないが、なかなか食べないということは驚いているのだろう。
そう考えていたのだが。
「でも、このままじゃ食べられないね」
どういうことかと顔を上げると、すぐに理由がわかった。慌てていたせいか、型に入れたまま差し出してしまったのだ。柔らかな紙で作られているものの、取らなくては齧ることもできない。
「あっ、すぐ外すから」
そう言うと、すかさず要から声が届く。
「ううん、待って」
同時に、沙織の手が要に包まれる。小さな手に薄い皮膚をなぞられ、少しだけくすぐったい。
「動かさないで、そのままでね」
要はもう一方の手で、張り付いた型を剥がしていく。固定された手の中で捲られる紙から目が離せない。
やがて露わになったフォンダンショコラは微かに震えている。その原因となる鼓動は自分にあるのか、それとも要からくるものか。
「おいしそう……」
吐息混じりに紡がれた声と共に、要の口が沙織の手元へと近付く。微かな吐息を感じ、指先に神経を集中させてしまう。要の唇に触れることを想像し、期待と不安と歓喜と焦燥が混ざり合った感情が渦を巻く。
「……あむっ」
一口だけ齧って要は離れた。沙織の指は唇に触れていない。しかしそんなことに気を取られる余裕はなく、フォンダンショコラを味わう要に五感を奪われていた。
「ねえ、もっと食べてもいい?」
沙織の返事を待たず、要は再び唇を近付けてくる。今も要に掴まれている手には逃げるという選択肢は存在しない。あったとしても選ばれることはないだろうが。
次の一口で、沙織にも断面が見えるようになった。中のチョコはうまく溶けているようで、溢れた一部が側面を伝う。
「どう、かな。おいしい?」
ようやく動いた口から出たのは、そんな言葉だった。
「うん。とってもおいしいよ。病み付きになりそう」
そしてまた、要の体温を間近に感じる。病み付きになりそうなのはこちらも同じだという本音は隠しておいた。それよりも先に伝えるべきことがあるから。
最後には要の口を塞ぐような形になりながらも、どうにか完食してもらうことができた。残された型をそのままに、沙織はそっと手を下ろす。
「……暑い、ね」
見れば、要の顔も赤く染まっていた。頬から耳にかけて、湯気が出るという表現が妥当と言えるほどの色合いになっている。
「食べさせ合いとかしちゃったから、かな」
それを見て沙織は確信する。要も自分と同じなのだと。このような行為に恥じらってくれるということが、上手く言い表せないながらも嬉しく感じた。
その根底には、要も自分を意識しているのではないかという淡い期待も含まれる。
「ねえ要。もう一個、食べてみる?」
そのおかげか、沙織は普段のペースを取り戻しつつあった。今度は型を外してから、要の口元へと手を伸ばす。指が触れるかもという動揺は、今ではもう消滅した。
そこにあるのは、ただ要が食べてくれることを望む期待だけ。
「……食べる」
小さく呟いた声を聞き、沙織は指先で柔らかな感触と温もりを受け取った。
互いの洋菓子はすぐになくなり、紅茶を飲みながらゆっくりとした時間が流れていた。何をするでもなく、ただ隣に寄り添っては手に触れ、その頬を緩ませる。
既に何十年も連れ添ったパートナーであるとさえ錯覚しそうな雰囲気。このまま心地良いぬるま湯に浸かり続けるのも悪くない。そんな誘惑が沙織の首筋を撫でる。
だが違う。そうではない。今日ここに来た目的はそれではない、と沙織は己を奮い立たせる。
秋奈、彩、悠希の顔が浮かぶ。弱音を吐きそうになった自分の背中を押してくれた彼女たち。協力してくれたその意思を無駄にしてはいけない。
けれど、最終的には自分のため。この秘めた想いを伝え、そして受け取ってほしい。恋愛は自分勝手だというどこかで耳にした言葉が浮かび、まさにその通りだと今なら思える。
「あのね、要……」
体を離し、姿勢を正して要と向かい合う。背筋を伸ばすと要を見下ろす形になってしまうため、そうならないよう更に距離を取る。
「なあに?」
少しだけきょとんとしたような表情に向けて、沙織は言葉を絞り出す。
「えっと、さっきのチョコなんだけど──」
伝えるべき言葉は何度も頭の中で描いてきた。しかし、それを口にするとなると緊張を隠しきることはできない。要の顔さえ、今ではまともに見ることができない。
「──本命、だから」
「本命?」
これだけでは不十分だということはわかっている。だから、沙織はすぐに次の言葉を続けた。
一番伝えたい、自分の想いを。
「わたし、要のことが……好き、なの」
握った拳が震え、肩を強張らせる。落とした視線の先には要の表情など見えない。言葉も返ってこないので、どんな心境でいるのかも読めない。
「友達じゃなくて、もっと特別な……恋人に、なりたいって思ってる。そういう意味の、好き」
それでも沙織の言葉は止まらなかった。秘め続けた想いを打ち明けて、要からの返事を待つ。早く何か言ってほしいという願いと、このまま何も言わないでほしいという甘えがぶつかり合って沙織の心に火花を散らす。
言ってしまった。伝えられた。
背筋を這う嫌な汗が、心の奥底までくすぐるような悪寒をもたらす。体はこんなにも熱を帯びているのに震えは止まらない。自由を奪われたように、ただ沙織は座して固まり続けた。
どれだけそうしていたのかは定かではない。時刻という概念を忘却したかのように思える時間が過ぎた後、ようやくその沈黙が破られた。
「──ありがとう、沙織」
温かな言葉に目を見開き、沙織は顔を上げる。
要の姿は変わらずそこにあったが、慌てているらしいことがわかった。眼鏡の奥では視線が無差別に泳ぎ、瞬きが多くなっていた。俯き気味になった顔は、先ほどの比ではないところまで赤くなっている。
そんな姿を見て、沙織は言葉が出てこなかった。返事が明確になるまでは、何を言ったら良いかもわからない。
「……ちょっとだけ、考えさせてもらってもいいかな。ちゃんと返事はするから」
その言葉に、安堵してしまう自分がいた。実際、今ここで返事をされたとしたら、たとえそれが望んだものであっても平静を保てるか自信がなかったのだ。
「うん。要の返事……待ってる」
照れを隠すことなく全面に押し出した要の表情を見ていると、徐々に気分が高まってくる。
それを端的に表現するならば、今すぐその胸に飛び込んで抱き締めたい衝動だった。
「それでね、えっと──」
要は何かを言おうとして、そこで間を置いた。どんな言葉が続くのか沙織は座して待っている。
「──返事ができるまでも、今まで通りでいたいんだ。沙織と気まずくなったりとか、その、したくない、から」
その言葉が起爆剤となった。沙織の動きを制限していた何かは跡形もなく弾け飛び、気付いた時には要の手を握っていた。冷え症であるはずの手は熱を持ち、それが言葉なき答えとなっている。
「もちろんだよ! わたしも要と離れたくなんてない!」
要の顔を間近でまじまじと見つめる。それを避けるかのように要が顔を逸らし、表情を強張らせていた。そのまま観察していれば、涙が零れ落ちそうなほどに感情が膨張しているのがわかる。
「でも……やっぱり、ちょっとドキドキしちゃう、かも」
注意していなければ聞き取れないような小声だったが、沙織の耳にはしっかりと届いていた。その言葉で、要に自分を意識させるという目的が達成されたことを察する。
「わたしだって、ドキドキしてるんだから……」
要の手を掴んだまま、自分の胸に押し当てた。その上から更にもう一方の手を当て、要の手を完全に包囲する。耳の奥でうるさく鳴り響いていた鼓動は、その行動により一段と速さを増した。
「……ホントだ」
困ったように微笑んで、要も残った左手をそこに添えた。
一つの鼓動を互いに感じながら、二人は赤く染まった顔の置き場に迷っていた。
要の部屋を後にし、沙織は寮に向かって寒空の下を歩いていた。あれほど熱を帯びていた体は、冬の厳しさで既に落ち着きを取り戻している。
今では気分もいくらか余裕が生まれていた。要の姿を思い出し、染まった頬が可愛かったと空想に浸ることもできた。心が少し暖かくなる。
何よりも、要が真剣に受け止めて考えてくれるということが嬉しかった。そして、沙織を思いやるような言葉をくれたことも。告白によって今までの関係さえも崩壊してしまうという心配が不要になったのだ。安堵するなと言う方が無理だろう。
寮の玄関を通過すると、エントランスホールでくつろぐ寮監と目が合った。挨拶をしようかと思うよりも早く、寮監は満面の笑みでこちらに向かってくる。
「麻生、頑張ったな」
「え、はあ……」
何が起こったのかわからずに気の抜けた声が出てしまうが、寮監はすべてを理解しているとばかりに首を横に振る。
「いいんだ。今は何も言うな。みんな待ってるぞ」
肩を抱かれ、半ば強引に寮監室へと連れ込まれてしまう。何か抗議でもしようかと口を開くが、室内で待っていた三人を見て再び言葉を失った。
「おかえり、沙織」
「さおりん、待ってたよ」
「お疲れ様です。どうぞ楽になさってください」
秋奈、彩、悠希。自分を支えてくれた彼女たちが、それぞれの温かい言葉で出迎えてくれたのだ。言い表せない感情が、視界を潤んだものへと変容させる。
「今日の主役はあんただ。ほら、そこの椅子に座りな」
示された椅子に腰を下ろすと、それが尋常ではなく座り心地が良いことに気付く。体は適度な深さまで沈み、背もたれは限度を知らぬほど反り返って背筋を支える。未だ消えずに残っていた緊張が、ここに来てようやく完全に溶けきった。
しばし、沙織は休息する。その間、場の誰もが口を開かずに沙織の動向を見守っていた。
「──ねえ。なんで、みんないるの?」
多数の視線に晒され、ある種の居心地の悪ささえ感じ始めていた。自らこの沈黙を破るには多少のためらいもあったが、状況を変えるためならば仕方のないことだった。
「そりゃあ、さ。ほら、アレよ」
秋奈の言葉は要領を得ない。けれど、言葉にされなくても沙織にはある程度の推測があった。彼女たちが共通して興味を持つことは一つしかない。
「……要の、こと?」
そう言った瞬間、再び八つの瞳に射抜かれる。あまりの剣幕に、沙織は苦笑するしかない。
「さおりん、アイちゃんにチョコ渡してさ、伝えたんでしょ?」
「……うん」
「どうだった、って訊いてもいいかな?」
彩の質問に、場の全員が息を飲んだのがわかる。普段は能天気な仕草が目立つ寮監や、落ち着いた雰囲気を崩さない悠希までも一緒になっていると考えると、どこか滑稽にも思えてしまう。
そして、他人のためにここまで感情移入できることを羨ましくも思った。自分がそんなことをできる対象は、要以外にいないだろうから。
「とりあえず、保留って感じだった」
「えっ、保留?」
「うん。ちゃんと考えてから返事してくれるって」
「へえ、アイちゃんらしい答えだね。やったじゃん」
輝きの色さえ見えそうな視線を送ってくる彩の横から、秋奈が近寄ってくる。
「頑張ったんだねえ……沙織がここまで成長してくれて、私は嬉しいよ」
まるで自分が何かを成し遂げたような顔をしながら、沙織の肩を抱いて優しく撫でてくれる。
「ちょっと秋奈、どうしたの。いつもとなんかキャラ違う」
「いいじゃない。今日くらいは、さ」
噛みしめるように何度も頷く秋奈の後ろでは、悠希がその代名詞とも言える優雅な微笑みを浮かべている。
「麻生さん。きっと、うまくいきますよ。四十崎さんの気持ちが固まるのも時間の問題でしょう」
根拠のない言葉でも、悠希に告げられると信憑性が高まる気がした。
「ありがとうございます」
だから、沙織も素直に頷いていた。
「いいねえ……乙女たちの友情と愛情。見てるだけで若返っていくよ。寮監やっててよかったって思える瞬間だね」
妖艶さすら感じさせるほど蕩けた表情をしている寮監にかける言葉は見当たらなかった。むしろ触れてはいけないような雰囲気すら漂っている。
「さおりん、これはスタートだからね。ここからが勝負だよ。アイちゃんのことが好きって気持ち、もっとわかってもらわないと」
「うん。要にわたしのこと、いっぱい知ってもらいたい」
今、要は何をしているのだろうか。離れたあの部屋で一人、夜の寒さに震えていないだろうか。
そんなことを考えると、今すぐにでも駆け付けてあげたくなってしまう沙織であった。
*
頭から浴びる熱いシャワーが、様々なものを洗い流していく。皮脂、寒さ、疲労感、嫌な汗。最後には余計な思考までも削ぎ落とされ、緊張の糸も解けていく。
そうすると残るのは、沙織に告げられた言葉だけだった。
──要のことが好きなの。
思い返すのはこれで何度目だろう。受け取ったのはほんの数時間前だというのに、要の中では終わることなくその言葉が繰り返されていた。
「ふぅ……」
全身を洗い終え、湯船に身を沈める。目を閉じて物思いに耽れば、浮かんでくるのは沙織のことばかり。いつからか抱き続けていた正体不明の感情が、沙織の言葉によって増幅されたように思える。
それはつまり、沙織を今まで以上に意識しているということだった。沙織のことを考えると、安らぎを覚えながらも胸の奥が苦しくなる。そして、会いたくて堪らなくなってしまう。
こんな想いを抱くようになったのは、一体いつからのことだろうか。気付いた時には、一人の時間が寂しく思えるようになっていた。
そんな時に浮かぶのは沙織の姿ばかり。会いたいという欲求は消えることがなく、沙織に呼ばれればすぐに駆け付けた。
沙織にブラウニーを食べさせた時のことを思い出す。どうしてそうしたのかは自分でも説明ができない。気付いたら沙織の口元へ手が伸びていたのだ。沙織の唇に触れた瞬間に、全身を微弱な電流で打たれたような衝撃が襲ったのを覚えている。
逆に沙織から手を伸ばされた時もそうだった。考えるより先に体が動いており、沙織の手を離したくないという意思が働いていた。もっと近くに、距離を詰めたいという欲求があったのだろうか。
他の誰かにはそのようなことはないし、積極的な行動をしたいとも思えない。沙織に対してだけという、特別とも言えるこの気持ち。
ようやく、不思議な感情の全貌が明らかになってきた。物語の中では何度も目にしたが、自分が体験するのは初めてだった。自覚してみると、書籍に記されていたことと合致する点もいくつかある。
薄く目を開き、ぼやけた視界の中で天井を見つめながら思う。
これが恋心というものなのか、と。




