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納得できない夜 出発の朝


「ちょっと待って」


母の声は、さっきまでより明らかに強かった。夕食の準備をしていた手が止まっている。コンロの火は弱火のまま、鍋の中で味噌汁が小さく泡立っていた。


「転校ってどういうこと?」


俺は立ったまま答える。


「制度上はそうなるらしい」


「らしいって何よ」


言葉が少し鋭くなった。母は普段あまり感情を表に出さない人だった。だからこそ、その変化が分かった。父はテーブルの椅子に腰を下ろしたまま、静かにこちらを見ている。腕を組み、何も言わないが、目だけは真剣だった。


母は少し間を置き、ゆっくり言った。


「あなたの適応率が低いことは知ってるわ」


短い沈黙。


「0.3%。中学のときに通知が来たとき、説明も受けた」


俺はうなずいた。


母は続けた。


「だからこそ分からないの。どうしてあなたが選ばれたの?」


それは当然の疑問だった。


「分からない」


父が初めて口を開いた。


「本当に分からないのか」


「はい」


父は少し考えるように視線を落とした。


「学校は前から普通じゃなかったな」


静かに言う。


「朝が早すぎた」


母が小さくうなずいた。


「そうよ。六時に集合なんておかしいと思ってた」


俺は言った。


「体力測定も毎月あった」


「血液検査も」


「睡眠時間も記録された」


母が言う。


「風邪を引いただけで検査が増えたこともあった」


父が続けた。


「修学旅行も変だった」


俺は思い出す。山の中だった。観光地ではなかった。三日間、地図と食料だけを渡された。班ごとに目的地までたどり着く。それだけの行事。だが今なら分かる。あれは訓練だった。


母が言った。


「でもそれは学校の方針でしょ。特別な教育だって説明されてた」


短い間。


「どうして急に国家とか、任務とか、そういう話になるの」


答えられなかった。本当に分からないから。


父がゆっくり言った。


「明日、どこへ行く」


「代表局」


「時間は」


「午前九時」


「泊まりか」


「多分」


「期間は」


「分からない」


そこで母の表情が変わった。明らかに怒りに近い感情だった。


「分からないことが多すぎる」


声は強かった。


「どこに行くのかも、何をするのかも、どれくらい帰ってこないのかも、危険なのかどうかも、何も分からない。それで行かせろって言うの?」


俺は言葉を探したが、見つからなかった。


父が静かに言った。


「拒否はできるのか」


「……できないと思う」


父はうなずいた。驚いた様子はなかった。むしろ予想していたようだった。


「法律か」


「多分」


母が言った。


「そんなのおかしい」


その声は小さかったが震えていた。


「あなたは、特別に強いわけでもない。適応率も高くない。それなのにどうして危険なところへ行かなきゃいけないの」


俺は答えられなかった。


戦闘とは何か。任務とは何か。俺たちはまだ何も知らない。


母が言った。


「約束して」


俺は顔を上げた。


「無理はしないって」


短い間。


「必ず帰ってくるって」


それは命令でも確認でもなく、祈りだった。


俺は少し考えてから言った。


「……分かった」


本当は分かっていない。それでも言うしかなかった。


父が立ち上がった。


「準備をしろ」


静かな声だった。


「荷物は最小限と言われただろう」


「はい」


「靴は履き慣れたものにしろ。あと、メモ帳を持て」


父は続けた。


「分からないことは書け。忘れるな。帰ってきたときに、全部説明できるように」


母は何も言わなかったが、小さくうなずいた。


その夜、自分の部屋。机の上にスマートフォンを置く。通知が光る。グループ名——代表候補生。


「明日 九時 本当に集合な」


神代からだった。


「遅れるな」


真壁。


「必要な書類は持った?」


桐生。


「睡眠を優先せよ」


東雲。


そして最後に。


「明日な」


佐藤だった。


短いメッセージだったが、それだけで十分だった。俺は画面を見ながら思った。明日、代表局に行く。転校する。任務が始まる。戦闘があるかもしれない。理由は分からない。だが、もう決まっている。


目が覚めたとき、まだ外は暗かった。時計を見る。5時32分。目覚ましが鳴る前だった。しばらく天井を見ていた。昨日と同じ部屋、同じカーテン、同じ机。だが今日だけは違った。もうこの家から「学校」へ行くことはない。少なくとも、しばらくは。


階段を降りると、すでに明かりがついていた。母が台所に立っている。いつもより早い時間。


「起きてたの」


「ええ」


短い返事。テーブルには朝食が並んでいた。いつもより少し多かった。


「ちゃんと食べなさい」


それだけ言った。


食事を終え、玄関に立つ。靴を履く。いつも履いているスニーカー。


父が言った。


「それでいい。履き慣れたものが一番だ」


俺はうなずく。ドアノブに手をかけ、止まる。振り返る。母と父がそこにいる。いつもの朝。だが違う朝。


「行ってきます」


母は少しだけ間を置いてから言った。


「……行ってらっしゃい」


声は小さかったが、はっきりしていた。


父は短く言った。


「気をつけろ」


扉を開ける。外の空気は冷たかった。朝の匂い。静かな住宅街。いつもの道。歩き出す。数分後、見慣れた交差点が見えてきた。信号、コンビニ、坂道。そしてそこに、佐藤がいた。いつもと同じ場所、いつもと同じ姿勢。壁にもたれて立っている。


俺に気づくと手を軽く上げた。


「おはよう」


「おはよう」


少しだけ安心した。


二人で歩き出す。いつもの通学路。だが今日は学校へ向かっていない。駅へ向かっている。しばらく無言で歩き、やがて佐藤が言った。


「寝れた?」


「少し」


「俺はあんまり。走る前みたいな感じ」


少し笑った。


「緊張してる?」


「うん。でも、楽しみでもある」


俺は少し驚いた。


「そうなのか」


佐藤はうなずいた。


「だってさ。今までやってきたことの続きって感じがする」


俺は考える。確かにあの学校は普通じゃなかった。毎朝の運動、定期的な検査、極限環境の訓練。全部、準備だった。


佐藤が言った。


「戦闘とか言われても、まだ実感ないけど」


俺はうなずく。


「任務って言葉も、何するんだろうな」


「分からない」


短い沈黙。


佐藤が小さく言った。


「でも、多分、帰ってくるだろ」


俺は聞いた。


「どうしてそう思う」


佐藤は答えた。


「だって、まだ何も始まってないし」


駅が見えてきた。人の数が増える。電車がホームに入ってくる音が聞こえる。日常の音。普通の朝。だが俺たちは普通ではない場所へ向かっている。改札を通り、電車に乗る。窓の外の景色が流れていく。


やがて電車が減速する。アナウンスが流れる。


佐藤が小さく息を吐いた。


「着いたな」


ドアが開く。ホームに降りる。目の前に、それはあった。大きな建物。高いフェンス。厳重なゲート。そして入口の上に掲げられた文字。


神奈川県代表局


俺たちは、ついにここまで来た。

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