第8話 辿り着けない
Aさんがその話をしたのは、保護者会から一週間ほど経ってからだった。
最初は誰にも言わなかったらしい。
「疲れてたんじゃない?」
と笑われる気がしたし、自分でもそう思おうとしていた。
でも、どうしても妙だった。
渋谷区の自宅から、中野寄りにある公立小学校までは徒歩十五分ほど。
大通りを避けるように作られた遊歩道を、ほとんど真っ直ぐ進むだけだ。
Aさんはその道を何度も通っていた。
子供の面談。
運動会。
保護者会。
道に迷うような場所ではない。
その日も、午後三時前に家を出た。
空は曇っていた。
冬の前の、中途半端に湿った空気の日だったという。
遊歩道にはほとんど人がいなかった。
遠くで工事の音がしていた。
カン、カン、と金属を叩く音だけが、風に混じって聞こえていた。
十分ほど歩いた頃、
Aさんは小さな違和感を覚えた。
白い壁の家だった。
赤いポスト。
門の横に、素焼きの植木鉢が三つ並んでいる。
「……ここ、さっき通った?」
そう思った。
だが一本道だ。
分岐もない。
似た家があるのだろうと思って、そのまま歩いた。
しばらくして、
また同じ家が現れた。
今度ははっきり分かった。
ポストの脇に、
子供用の青い傘が掛かっていた。
さっきと同じだった。
Aさんは立ち止まった。
振り返っても、
道はただ真っ直ぐ伸びているだけだった。
人はいない。
工事の音も、
いつの間にか聞こえなくなっていた。
気味が悪くなり、
スマホで地図を開いた。
GPSは正常に動いているように見えた。
だが現在地の青い点は、
なぜか遊歩道の途中から動かなかった。
歩いても、
止まっても、
少し揺れるだけで位置が変わらない。
その時点で、
少し汗をかいていたという。
それでも、
保護者会に遅れると思い、
早足で進んだ。
途中、
誰ともすれ違わなかった。
犬の散歩をしている人も、
自転車も、
車の音もない。
東京なのに、
妙に静かだった。
十分ほど歩いて、
また白い家が現れた。
赤いポスト。
青い傘。
植木鉢。
三回目だった。
Aさんは、
その場で足が止まった。
時計を見ると、
家を出てから四十五分以上経っていた。
十五分で着くはずの道だ。
急に怖くなったという。
「このまま歩いても着かない」
そう思った。
Aさんは学校へ行くのを諦め、
来た道を引き返した。
すると、
その瞬間だった。
風が吹いた。
急に、
止まっていた空気が動き始めた。
遠くで車の音がした。
誰かの話し声。
犬の鳴き声。
東京の音が、
一気に戻ってきた。
Aさんは夢から覚めたみたいだったと言っていた。
帰り道は普通だった。
十分ほどで自宅に着いた。
玄関に入った瞬間、
背中に冷たい汗が流れた。
スマホを見ると、
保護者会のグループLINEに通知が大量に入っていた。
「今日来られますか?」
「大丈夫ですか?」
開始時間は、とっくに過ぎていた。
その夜、
Aさんは妙なことに気づいた。
靴の裏に、
黒い湿った土が付いていた。
遊歩道は舗装されている。
土を踏む場所なんてない。
しかも、
妙に細かい粒だった。
翌日、
Aさんは近所の古いクリーニング店で、
何気なくその話をした。
店番をしていた老人は、
黙って聞いていた。
話が終わると、
少し考えるような顔をした。
「ああ……あの道か」
Aさんは驚いた。
「知ってるんですか?」
老人は曖昧に頷いた。
「たまにあるよ」
「何がです?」
老人はすぐには答えなかった。
店の奥を見て、
それから小さく言った。
「中野に行けなくなる日」
Aさんは意味が分からなかった。
「まっすぐ歩いてるのに、
なぜか渋谷側に戻される」
老人はそこまで言って、
変なふうに笑った。
「昔から境界なんだよ、あそこ」
「境界?」
「昔は川もあったし、
寺も墓も多かったからね」
そして、
最後にこう言った。
「道ってね、
時々、
どっちへ通すか間違えるんだよ」
Aさんは、
それ以来、
その遊歩道を通っていない。
ただ、
一つだけ妙なことがあるらしい。
あの日以降、
スマホの地図アプリであの遊歩道を見ると、
時々、
現在地の青い点が、
動かなくなることがあるという。
※これは実話です。
渋谷と中野の境目の、清水橋交差点から東大附属中の方面に向かうと辿り着けない経験をしたという人が複数います。
真っ暗な土の地下道のある神社とか不思議なものがたくさんある地域だそうです。
洒落怖向けにに投稿したものを単独小説に改稿しました。
洒落怖はこちらです。
https://kakuyomu.jp/works/822139846405988445/episodes/2912051599655369546




