第6話 真央くんは今日もいるよ
最初に違和感を覚えたのは、保育士の佐伯だった。
午前九時三分。登園のピークを抜け、靴箱の列が落ち着いたころ、三歳児クラスの出欠をタブレットで確認する。
「真央」――欠席。昨日も、その前も、同じ表示のまま変わらない。
靴箱の端に、見慣れない封筒が立てかけてあった。
白い封に、園の住所。差出人は空欄。代わりに、赤いスタンプ。
《警察》
佐伯は手に取りかけて、やめた。受付の引き出しを開けると、同じ封筒がもう一通、未開封のまま押し込まれている。
どちらも、“ここにあってはいけないもの”の顔をしていた。
部屋の奥から笑い声がした。
「まおくん、はやいよ」
積み木の島の上で、男の子がバランスを崩して転ぶ。隣で小さな手が支える。
支えたはずの手は、見えない。
佐伯は一歩踏み出し、止まった。
子どもたちの輪が一瞬だけ広がり、誰かの居場所を空けた気がしたからだ。
「順番ね。次、だれ?」
「まおくん!」
呼ばれた名前に、誰も振り向かない。
それでも、順番は、きちんと回っていく。
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給食の時間。
配膳表の席順は、年度初めから変えていない。丸いテーブルに六席。
今日も、五人分しか置いていないはずだった。
それでも、六つ目の椅子がわずかに引かれ、皿の縁に、スプーンの当たる音がした。
「こぼさないでね」
無意識に声をかけてから、佐伯は自分の口を押さえた。
誰に、言ったのか。
「まおくん、にんじんたべたよ」
向かいの子が、得意げに報告する。
皿の端、にんじんのグラッセが一つ、欠けていた。
厨房に戻ると、調理員の小池が首を傾げた。
「今日、にんじん多くない? 計量はいつも通りなんだけど」
廃棄量の記録は、いつもより少ない。誤差の範囲、と言えばそれまでの、ほんの数十グラム。
けれど、積み重なると、誰か一人分に届く。
事務室の棚に、クリアファイルが一冊だけ、逆向きに差し込まれていた。
背表紙に手書きのラベル。
――真央
中身は、数枚。
最初の一枚に、コピーされた書式。
《死亡診断書(写)》
年齢:三歳
死因:外傷性ショック(多発打撲)
備考欄に、医師の角張った字で一行だけ。
――家庭内での受傷が疑われる
ページの端に、薄く押された受付印。日付は、三日前。
次の紙は、メモ。ボールペンで急いで書いた筆跡。
――母同居男性による暴行の可能性
――園への連絡は保護者同意得られず
佐伯はファイルを閉じた。
棚に戻すとき、背表紙を、他と同じ向きに揃えなかった。
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園長は、書類の山を整えながら、言った。
「憶測で動かないこと。家庭の事情は、こちらが触れるべきではないの」
その言葉は、まっすぐで、正しい形をしていた。
佐伯は頷いた。頷きながら、喉の奥で別の言葉が固まっていく。
――亡くなっている子の席を、どうして残すのですか。
質問は、音にならないまま消えた。
園長は、机の上の封筒に手を置いたまま続けた。
「警察とも、話はついているわ」
白い封の端から、赤いスタンプが半分だけ覗いている。
“ついている”という言い方に、終わりではなく“区切り”の気配があった。
⸻
午後、昼寝。
薄暗い室内に、規則的な呼吸が並ぶ。
シーツの列を見回りながら、佐伯は一つ一つの胸の上下を数えた。
一、二、三、四、五。
六つ目は、布団の凹みで分かる。
誰もいないはずの場所が、静かに沈み、ゆっくりと戻る。
耳を澄ますと、ひとつ分、呼吸が多い。
見回りの手を引いたとき、指先に、かすかな冷えが触れた。
人肌ではない温度。
けれど、そこに“体重”はあった。
佐伯は、数え直さなかった。
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異変は、保護者の側からも滲み始めた。
「最近、よく“まおくん”って名前を聞くんです」
迎えの時間、新しく入園した子の母親が、軽い調子で笑った。
「うちの子、人見知りなんですけど……まおくんが遊んでくれたって。おかげですぐ慣れて」
佐伯は、笑い返した。
笑顔は、練習すれば形になる。
「そうですか。よかったです」
名簿には、その名前はない。
けれど、連絡帳には、子どもたちの手で、何度も書かれている。丸い字で、はみ出したインクで、消しゴムでこすった跡で。
――まおくんと あそんだ。
――まおくん はやく はしれる。
――まおくん きょうもいる。
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プリンターが紙詰まりを起こした。
取り出した用紙の端に、かすれた文字が重なっている。
前に印刷したはずのない文面。
《本園において発生した事案につき、関係各位に対し深くお詫び――》
そこから先が、白紙のまま途切れている。
印刷ログには、この文書の履歴がない。
園長は無言で紙を取り上げ、折り目をつけずにシュレッダーへ滑らせた。
刃の音が、やけに長く続く。
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夕方。
靴箱の前で、子どもたちが親を待つ。
名前を呼ばれて、ひとり、またひとりと手を引かれていく。
最後に残ったのは、五人。
いや、と佐伯は思う。違う。
六人分の靴が、きちんと並んでいる。
小さなスニーカーが一足、誰にも触れられないまま、揃えられている。
泥はついていない。新品みたいに、軽い。
「まおくん、もうおうち、かえらないんだって」
誰かが、事実を覚えたての語彙で言う。
別の子が、首を振る。
「でも、ここにいるよ。だって、いたいの、なおったもん」
“なおった”という言い方が、妙に正確で、残酷だった。
「じゃあね、まおくん」
その声に、全員が同時に手を振る。空白に向かって、揃った角度で。
ガラス扉に映るのは、五つの影と、
もう一つ分の、歪み。
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夜、最後の点検で、佐伯は監視カメラの映像を見た。
再生バーが、数秒だけ跳ぶ。
その隙間に、子どもたちの輪が一度、広がり、また閉じる。
フレームの中央に、空いた場所がある。
空いているはずの場所が、誰かに押し戻されるように、わずかに歪む。
音声には、笑い声が一つ多い。
再生を止める。
停止画面で、子どもたちは全員、こちらを見ている。
口が、同じ形で開いた。
「まおくんは、いるよ」
⸻
翌朝。
出欠の欄に、変化はない。
「真央」――欠席。
けれど、保育室の扉を開けると、もう遊びは始まっている。
積み木の島の上で、順番が回る。
呼ばれた名前に、誰も振り向かない。
それでも、順番は、きちんと回っていく。
佐伯は、タブレットの画面を伏せた。
記録は、現実を追い越さない。
「おはよう」
そう言って、空いた場所を、最初から空いていなかったみたいに、避けて歩く。
子どもたちが笑う。
ひとつ分、多く。




