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第二十一話 オールド・アルムの騒動 -5-

 木馬亭に戻ってから聞いたところによると、翻訳作業を終えてベッドに倒れ込んだリズは、昨晩のかなり遅くに目を覚ました。妙な時間に起きたため、また作業で加熱した頭を冷やすため、彼女は少しニュー・アルムを散歩することにした。


 このとき、ハキムとトーヤが襲撃されたことは伝えられていなかったし、もともと凡俗の無法者に後れを取るような愚はおかさない、と彼女は考えていた。


 しかしリズの弱点を熟知し、十分に準備を整えた襲撃者に対して、彼女は為す術がなかった。セヴルスとパペルに油をかけられて魔術を封じられたリズは、そのまま乱暴に拘束され、連行された。


 幸いだったのは、兄弟がヘザーの精神的な支配下にあったということだ。勝手をすれば強烈な制裁を与えられると思っていたからか、彼らはリズに対し、過度な暴力や辱めを加えることはしなかった。とはいえ、その程度では酌量の理由にもならないが。


「直接仕返しできなかったのが残念」


 リズは服どころか髪の毛まで油にまみれていたので、かなり時間をかけて洗浄しなければならなかった。ハキムとトーヤは川でローブを洗い、最終的には宿で働く給仕の少女まで動員して、なんとかリズを綺麗にした。頬の怪我はごく軽傷だったので、これは膏薬だけ塗って放っておくことにした。


 レザリアの年代記やそれを翻訳した文章は、幸い彼女が攫われたときのまま残されていた。リズはそれらを再びまとめて整理し、夕食後にハキムとトーヤを部屋に招き、途中までになっていた年代記の続きを話し始めた。


「どこまで行ったんだっけ?」


「確かオヴェリウスが国を創って、アルテナム歴が始まったとこまでだ」


「ああ。思い出した」


 彼女は中断していた箇所を探り当て、以前よりもやや張りのある声で、年代記の続きを読み上げ始めた。


〈アルテナムでは新しい法が、新しい貨幣が、新しい文化が創り出された。街道には世界各地の品を満載した馬車が行き交い、都市の辻には人々の喜びと笑いが満ちた〉


〈アルテナム歴八年まで、皇帝オヴェリウスが玉座を温めることはなかった。特に北方の民族は、長く帝国に抵抗した。しかしやがては皇帝の威光とその軍勢に屈し、アルテナムは完全なものとなった〉


〈反乱の芽を摘んだあと、皇帝オヴェリウスは新しい都の建造に取りかかった。元素を統べるエーテルが豊かに湧く地を選び、アルテナムの強固なる礎とした〉


「この間、オヴェリウスは自身の権力を盤石なものにしたみたい。国民に自身を崇拝させ始めたのもこのころね」


 記述は続く。


〈アルテナム歴十九年。皇帝オヴェリウスが齢四十一のとき、〝帝都レザリア〟が完成した。史上類を見ない壮麗な宮殿が建てられ、帝国全ての富がそこに集まった。宮殿の最上部には、〝黄金の天象儀てんしょうぎ〟が据えられた〉


「テンショウギって何だい?」


 トーヤが尋ねた。


「天象儀っていうのは、ええと」

「内側から照らして、天井に星を映すヤツだろ」


 ハキムが答えると、リズが意外そうな顔をした。


「見たことがあるの? 今でも滅多にないものだと思うけど」


「いや、昔どこかで聞いた気がする。それより、黄金っていうのはいいな。全部黄金なら、金貨何百枚、いや何千枚か」


「宮殿に行ったら探してみようか」


「はいはい。もう終わるから話はあとで」

 

〈アルテナム歴二十二年。皇帝オヴェリウスは魔術を究め、ついに不死へと至った。彼が他の者にこの秘術を与えることはなかった。ただ一人、永遠の罪人ルカナを除いては。不敬を働いた罪人ルカナは異形に変えられ、大図書館へと幽閉された〉


〈アルテナム歴二十三年。元老院は彼に〝到達者〟の称号を与えた〉


「これが最新の記述。そして〈皇帝オヴェリウスの偉業を讃えよ。一千年続くレザリアの繁栄を讃えよ〉の文言で締めくくられている。キューブに書いてあったものと同じね」


「で、レザリアが埋まったのはいつなんだ?」


「都市自体が滅んだんだから、年代記に書いてあるわけないでしょ。別の手がかりを探さなきゃ」


 読み上げられた記述を聞くに、ルカナは帝国の中でも、相当な重要人物であったようだ。彼女に聞けば宮殿の内部や、黄金の天象儀について何か分かるかもしれない。おそらく魔術的なアーティファクトでもあるそれを持ち帰れば、巨万の富が手に入るはずだ。


「まあいい。天象儀を手に入れれば、そのあたりも大体分かるだろ。明日から気合い入れていこうぜ」


 それからハキムたちは解散し、各々翌日からの探索に備えて眠りについた。



 リズもトーヤも寝静まった夜半過ぎ。ハキムは冴えた目で天井を眺めていた。なぜか落ち着かず眠れない。


 明日の探索を考えての昂り。それはおそらくさほどでもない。昼間に兄弟二人を殺した罪悪感。これも過去の経験から考えると違うだろう。


 多分、これまでの信念を曲げてリズを助けに行ったことが気にかかっているのだ。トーヤの働きかけがあったとはいえ、自分はなぜあんな判断をしたのか。


 ハキムがおもむろに起き上がると、その気配でトーヤが目覚めた。


「どうかしたかい」


「いや、ちょっと眠れないだけだ。少し外を歩いてくる」


「んん……。アヤメ、夜風で身体を冷やさないようにな」


 寝ぼけているようだが、放っておいて問題ないだろう。


 ハキムはきしむ廊下を通って階段を降り、鍵のかかっていない玄関から外へ出た。どこかから、昼夜の感覚が狂った探索者たちが、酒を飲んで騒ぐ声が聞こえた。


 闇夜には銀色の見事な満月が浮かんでいる。ハキムは最近、自分が空を見上げることさえしていないことに気づいた。別段、雲や星空を見上げて感傷に浸る趣味はないが、色々な事件や人間関係に巻き込まれて、なにかと近視眼的になりつつあった自分を顧みる。


 ハキムは二、三度夜気を呼吸してから、特に目的地も決めず、オールド・アルムの方向に歩き始めた。一人で行動するのも、なんだか久しぶりであるような気がした。


 三人での探索が不快なわけではない。ただ、ずっと続けたいかというとどうだろうか。それはなんとなく軽やかさに欠ける気がして、無条件に肯定し辛かった。


 オールド・アルムに近づくと、向かいから一人の女が歩いてきた。白い薄布だけを纏った娼婦だった。


「夜のお散歩? かわいい探索者さん」


 数歩の距離に近づくと、娼婦はハキムに声をかけてきた。カールした赤い髪の毛を持ち、頬にはそばかすがある。その容貌も肉体もごくごく凡庸だったが、ただその瞳だけが、月光のような珍しい色をしていた。


「そんなところだ。悪いが、今は女を買う気分じゃない」


「私も実はそんな気分じゃなくなったから、早めに切り上げてきたの」

「ふーん」


「ねえ、少しお話ししましょう。最近、月をゆっくり見る機会がなかったから」


 このまま歩いて何があるわけでもなし、たまにはそういうのもいいだろう。ハキムはほんの気まぐれで、この娼婦と付き合うことにした。街道沿いにあった木箱に腰かけ、月を眺める。


「私はウェルテア。あなたは?」


 身分に見合わない立派な名前だ。いや、自分も別に誇れる職業ではないか。


「ハキム」


「南の人ね。肌の色で分かる」


「生まれはね。最近は流浪の身だよ」


「探索は大変?」


「今のところ、あんまり割には合わないな」


 このまま適当に受け答えして、相手が飽きるのを待ってもよかった。しかし気づけばハキムは、今日起こった出来事を、ウェルテアに話し始めていた。自分のうちにある戸惑いも。ウェルテアはそれを穏やかな顔で、飽きもせず聞いていた。


「私、なんとなく分かる気がする」


 彼女は言った。


「こんなことを言うと不愉快かもしれないけど、あなたは何かを失くすのが怖いんだよ」


「仲間を失うのが怖いから、助けに行ったって?」


 ウェルテアは微笑みながら首を振った。


「ううん。いつか失うかもしれないから、大切に持っておくのが苦手なんだよ。仲間も、仲間に対する信頼も」


 まあ、言われてみればそうなのかもしれない。名前さえ持たずに生まれ、与えられることなく生きてきたから、その状態に、何も持たない自分に戻ることが怖いのだ。今思えばこれまでに盗んだ宝や、それを売ったカネさえ、あまりこだわることなく手放してきた。


 普段の自分なら、こんなに立ち入ったことを言われれば反発せずにいられないだろう。彼女の言葉が腑に落ちるのは、今が夜の遅い時間だからか、相手が見知らぬ娼婦だからか。


「昔の恋人がね、似たような人だった。でも、彼は何もかも手に入れようとして、すごく遠くに行ってしまったの」


「俺とは逆か」


「あるものを大切にするのが苦手、っていう意味では同じなんだと思う。でも、失うかもしれないっていう怖さと、何かを大切にするって想いは、切っても切り離せないものだから」


 その二つを抱えながら耐えるしかない、ということか。そういうのは苦手だ。


「色々偉そうに言ったけど、所詮は娼婦の戯言だから。意味のない夢だと思って忘れてね」


「まあ、せいぜい参考にして幸せになるさ」


 風が強くなり、気温が下がってきた。自分はともかく、薄着のウェルテアには辛いだろう。話をして少し落ち着いたハキムは、そろそろ宿に帰ろうという気持ちになった。木箱から立ち上がり、ウェルテアに別れを告げる。


「さようなら、ハキム」


 赤毛の娼婦は、月夜のように優しい声で言った。


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