歌い手に殺してもらう会(2)
歌い手に三回クレジットカード情報を渡すと、楽に殺してくれるらしい。それは、突如として湧いた都市伝説だった。
パート社員、秋穂が最初にその噂を見たのは、夜だった。
薄い布団に入ったままスマートフォンを眺めているときに、タイムラインに流れてきた短い投稿が目に留まったのだ。
――【歌い手に殺してもらう会】歌い手にクレカ情報渡すと死ねるらしい。
ああ、またか、と思った。
過激な情報や嘘情報を発信すると、「それは違う」とか「許せない」といった反発がつく。
するとアルゴリズムが「盛り上がっている話題」だと判断し、さらに多くの人間におすすめする。発信者は閲覧数に応じた収益を獲得できて、儲かる。だから最近のSNSは、過激な討論の種を投げる人間と、それに乗る人間の公開ファイトで溢れているのだ。
こういう情報に釣られてお金儲けさせてしまうのは、癪だ。
そう思うのに、秋穂の目は文字を食い入るように見つめていた。
ストリートで歌う歌い手にクレジットカード情報を渡すと、原因不明の死亡を迎える。
怪談の一種だろうか。
そう思った。普通なら、それで終わる話だ。
しかし、その投稿の下に並ぶ返信を眺めているうちに、奇妙な感情が胸に浮かんできた。
知りたい。
満たされないものが満たされるかもしれない。これはもしかすると、存在しないと思っていた『自分が救われるための手段』かもしれない。そんな感情だ。
つまり、つまり――ああ、と思った。気づいた。
秋穂は、死にたかったのだ。
ずっと、ずっと、いつからか。
なんとなく、うっすらと、そんな願望が自分の中にあった。だから、吸い込まれるように指が問いかけを入力した。
『どんな風に死ぬんですか?』
送信してから、少し後悔した。
何を書いているのだろう。削除しよう。消してしまえば、なかったことになる。
けれど、返信が目に入った。複数のアカウントから、競うように答えが与えられた。
『楽にいけるらしいよ』
『眠るみたいだって』
『もう何人も死んでる』
『コミュニティに入る? 仲間がいっぱいいるよ』
そうなんだ。
「――……そうなんだぁ……」
会社では、ずっと居心地が悪かった。
相性が悪い男性社員がいる。秋穂以外には快活で社交的な、同年代の社員だ。
直接なにかを言われるわけではない。
ただ、視線を向けられたりする。
じっと。近くを通るとき、凝視される。無表情に。
右から左へ移動する秋穂を、彼の目玉は追尾する。毎回、毎回だ。
それがとても気持ち悪かった。
仕事をしていると、後ろからため息をつく。
廊下ですれ違うと、舌打ちをする。
秋穂が挨拶しても、挨拶は返さない。けれど、すぐ後ろに別の社員がいれば、秋穂が通過した後でその社員には挨拶をする。
書類を机に投げられたこともある。
……私、彼とまともに会話したこともないのに。
何も言わない。
でも、ちょっとしたことが積み重なっていく。じわり、じわりとわからされていく。その悪意に。敵意に。嫌がらせの意図に。
……嫌いなら、近くに来ないでよ。視線で追いかけてこないでよ。わざわざ聞こえるようにため息つかないで。舌打ちやめて。
もう伝わっているから、やめてよ。
耐えきれなくなって、秋穂は会社のハラスメント相談窓口に相談した。
担当者は、困った顔をしていた。
「わかりました。一度確認してみます。ですが、曖昧に伝えてもわからないと思うので、今仰ったことを相談してきた方がいる、とそのままご説明しますが、よろしいでしょうか?」
「あの……私が相談したとわかったら、もっと憎悪を向けられないでしょうか」
「その可能性はありますが」
担当者は、困った顔をしていた。ああ、困らせている。
問題を起こしているのは、私だ。
そんな空気になっている。
数日後。秋穂は上司に呼ばれた。
「君、ちょっと考えすぎなところあるよね。気にしすぎというか……」
そうだろうか。
会議室を出たあと、誰かが小さく言う声が聞こえた。
「被害者意識強いタイプっているよな」
「最近は難しいんですよ、すぐハラスメントになっちゃうから……」
「可哀そう」
可哀そう、は秋穂に向けられた言葉ではなかった。『彼』は同情され、仲間に囲まれていた。秋穂が何をされていても、何も起きていないような空気を醸成している仲間たちだ。まるで、まるで……本当に何も起きていないみたい。秋穂の認識だけがおかしくて、何も起きていないのに妄想で騒いでしまったみたい。
――私が悪いのだろうか。
帰り際、ロッカーの前で荷物をまとめていると、舌打ちが聞こえた。
振り返ると、彼が背を向けて出ていく背中が見えた。同じエレベーターに乗るのが怖くて、秋穂はゆっくりと帰り支度をして部屋を出た。建物を出てしばらくは、周囲の暗闇が気になって仕方なかった。
彼が復讐してくるのではないか。そんな不安が湧いて、それも自分の被害妄想なのだろうかと思うと、頭がおかしくなりそうだった。
家に帰ると、もっとひどかった。
玄関を開けた瞬間、臭いがする。
食べ残し。ゴミ。抜けた髪の束。消臭剤を空になるまで散布した抜け殻のスプレー缶。赤ワインらしきものをこぼした染み。
親は、ソファに寝転がっていた。若い頃はお姫様のようだった母だ。召使いをひとりまたひとり捨てて、娘だけは手放さない女王様だ。
「おかえり。あーちゃんが遅いから、ママ眠いのに寝れなかった」
「ただいま。ごめんなさい」
老いと病みは、退行するように彼女を幼稚にしている。体は弱く、プライドは高く、思考能力は低く、金使いが荒い。
そんなネガティブな感想が不快な匂いを嗅ぐたび、耳障りな音や声を聴くたび、呼吸するたびに鼻から、喉から、気管から、肺から、全身を浸して染みていく。
家は散らかり放題だ。片づけても、すぐに汚れる。潔癖症では生きていけない。
掃除をする。
洗い物をする。
ゴミをまとめる。
クレジットカードの請求書を見ると、知らない支払いが増えている。
「ねえ」
親が言う。話し相手は、医師と娘しかいない親だ。もしかしたら娘の目の届かない場所では、どこかのフリーダイヤルにでも電話して迷惑をかけているかもしれない。
「明日はお休みでしょう。どこか連れてって」
楽しみにしていたの。子供のような声だった。
転職活動をする時間なんて、どこにもない。
疲れる。
ただ、疲れる。
人間は、疲れると考える力が鈍くなる。頭も体も怠くて重くて、麻痺したようになって、這い上がる力がどんどん失われていく。
そんな泥沼の夜に、蜘蛛の糸は細く美しく垂れていた。
『コミュニティに入りたいです』
送信ボタンを押すと、コミュニティに誘われた。
こんな風に世の中に絶望しているとか、こんな風に生きるのがしんどいとか、コミュニティの誰それが死んだとか、これから誰が死のうとしているとか、そんな過激すぎる会話が流れるコミュニティだ。
危険な集まりだ。通報した方がいい。そんな思いが湧くと同時に、秋穂は不思議なほどの親近感をメンバーに覚えた。
こんな美味しいご馳走を食べたとか、こんなに綺麗な場所に行ったとか、家族や恋人との幸せな日常だとか。そんな会話であふれる場所よりも、そこは心癒される場所だった。息がしやすくて、自分に近いと思える心がたくさん存在した。
『みんな、もう疲れたよね』
「うん。うん……」
『生まれてきてしまって、運が悪かったね』
「本当だよ」
夜の街で、歌を聴いた。
白い髪の歌い手は、一生懸命歌っていた。七氏、というらしい。
この少年には未来があって、自分が死んだ後も生きて、成長する。もしかしたら大成するかもしれない。
そう考えると、眩しかった。
嫉妬めいた感情と同時に、慰めを見いだせた気がした。自分たちは、この少年の養分みたいになるのだ。
帽子が置いてある。コミュニティで聞いていた通りだ。貢ぐのは、一日一回、合計三回で効果が出る。すぐに効果が出てほしいのに、もどかしい。
カードを取り出し、神聖な儀式のように帽子に入れる。
秋穂は七氏の元へ通い、二回カードを帽子に入れた。あともう一回だ。いける、と思った。歌う少年は、天使に見えた。死なせてくれるのだから、死神? どちらでもいい。
ただ、救世主であることだけは確かだ。秋穂は少年に祈った。
――家には帰りたくなかった。会社はもう辞めてしまった。今すぐ消えてしまいたい。そんな気分が息をするごとに高ぶっていくようだった。
夜風が冷たい。
足が軽い。
踏切が見えた。
警報機が鳴っている。
赤い光が点滅している。不思議と、音は聞こえなかった。
世界が静かで、ノイズがない。
それは幸せの入り口のようだった。
足が、そのまま前に出た。
「……――待って!」
秋穂の静寂の世界は、少年の声で破られた。ぐい、と腕を掴まれて、振り返ると七氏が息を切らしていた。
まるで、今まで思い込んでいた天使や死神じゃなくて人間みたい――少年はそんな慌てぶりだった。
そこで、「ああ、人間なんだ」と思った。
汗の匂いがして、夢が壊れる音がした。掴まれた腕は痛くて、力が強いと思った。他人の手のひらは汗ばんでいて熱くて、気持ちが悪い。
「あ、あ、あのっ、最近多くてっ……こんなの受け取れません!」
七氏はメッセージカードを取り出して、差し出してくる。少年の目は必死だった。
「そ、そ、それに、し……死ぬのは、やめてほしいです!」
「え……?」
そのとき、秋穂は自分が踏切に飛び込み自殺しかけていた現実に気づいた。
暗闇の中を傲然と鋼鉄の塊が駆けてきて、風が吹きつける。
轟音を伴い、電車が目の前を走り抜ける。これに轢かれると、ひとは死ぬ。そう思った。思った瞬間、ぞくりとした。
少年に掴まれた腕が痛くて、轢かれたらもっと痛いだろうとか、死ぬ瞬間はどんなに苦しいだろうとか、自分という存在が消えることへの恐怖が一気に湧いた。
今こうして思考して、感じている。この自分が無になる。それは、すごく恐ろしく思えた。
「あ……あ……」
え? 怖い。死にたくない。あれ? 私、すごく死にたくない。
あれ? あれ? あれ?
足がふらついて、膝が折れる。
少年が慌てているのが、大変な事態に思えた。身体が震えて、止まらなくなる。
「どうして……」
「お姉さん! 大丈夫ですか? 救急車呼びますか?」
優しく心配してくれる声に、視界がにじむ。
「わ、わ、わから、ない。もう、……」
私は今、どうなってしまっているのだろう。
どうしてこうなってしまったのだろう。
パニックに陥る秋穂。
その耳に、場違いなほど爽やかな声が、背後からかけられた。青年の声だ。
「お二人とも、こんばんは」
振り向く。
スーツ姿の男が立っていた。黒髪を丁寧に撫でつけていて、まるで新卒の営業マンのような青年だ。
青年は釣り目がちな目を不器用に細めた。あまり愛想を振りまくのが得意ではないが、仕事だから頑張っている。そんな微笑だ。
「僕、稲荷と申します。通りすがりの善良な公務員です。つかぬことをお尋ねしますが、今もしかして、何かお困りでしょうか」
青年は風呂敷を取り出し、二人がよからぬものに祟られていると言い出した。
突拍子のない怪談だ。
けれど、真っ白な髪になり、奇妙なコミュニティに振り回された二人には、説得力があった。とても。




