監獄の天使(3)
胞子だ。
いや……雪だ。
「寒いと思ったら、雪が降っているのか」
父が呟き、山あいの社殿の前で立ち止まった。
これは、過去だ。
あの頃、三郎は喋れなかった。
同じ年齢の子はたくさん話すのに、とよく言われていたのを覚えている。誰がそう言ったのかはあまり覚えていないけど。
記憶の中の風景は、夜だった。
篝火がいくつも焚かれて揺れている。
集まった大人たちは、みんな、どこかが変だった。いちばん変なのは、父だ。
「よく見ておけ。父さんは、第三次世界大戦を止めるぞ」
父の目は血走っていた。
「思金神をわが身に卸し、祭事によりて天照大神を迎える。地上に蔓延る腐ったものはすべて焼かれ、神による絶対統治の時代が始まるのだ」
天岩戸神話だ、わかるだろう? と問われて、兄が「はい」と折り目正しく答える。
兄は優等生で、大人を満足させるのが上手だった。
だから、三郎はいつも何かを問われたときには引っ込んで黙っていて、兄がうまく受け答えするのを見ていた。
そのうち、三郎という存在は消えるのだと思っていた。そういうものだと誰かが言っていたのを聞いたので。
機嫌を上昇させた父は、「これからの世の中はとても良くなる」と微笑んだ。
「地上の争乱が宴会だ。どうしようもない人間たちを全員、生贄にすればいい」
怖い、と思った。
絶対におかしいのに、周りの大人たちが素晴らしいことのようにうなずいているのが、怖くてたまらない。
「どうした三郎」
後ずさる三郎に、父は詰め寄る。
その双眸に浮かぶ落胆に、三郎は胸が抉られるような気分になった。
いつもそうだ。僕が表に出るとこれだ。
ぼくはダメな子なんだ――そんな思いが湧いてくる。
けれど、怖いものは、怖い。
「何を怖がる? 父さんだって怖い。しかし世の中のためにしなければならない。これは崇高な使命なんだ」
父は懐から刃物を抜いた。
白刃が篝火を反射して、ぎらりと赤く光る。
殺される。
三郎の喉がひゅっと締まった。
「いいか三郎。父さんが世の中のために、つらいことをする。お前を殺すんだ――」
その瞬間、兄が飛び出して、父の膝に体当たりをした。
「うっ⁉」
獣のように唸り、父の体がバランスを崩して倒れこむ。
「三郎、走れ!」
兄に手を引かれ、三郎は駆け出した。
大人たちは、篝火を揺らしながら追いかけてくる。
兄弟は怯えながら杉林の中を逃げた。
舗装されていない細くてでこぼこした道は、走りにくくて体力が削られる。
三朗は何度も転びそうになり、そのたびに兄が支えてくれた。
時には兄も一緒になって転び、二人で一緒に立ち上がって、また駆けだした。
走らないと殺されてしまうから、疲れていても必死に走った。
足が棒のようになり、肺が焼ける。
遠くなったり、近くなったりする追っ手から、走ったり隠れたりしながら逃げていく。
兄は必死な声で「大丈夫だ」と繰り返していた。
「こっちだ。こっちに行こう」
こんなときに、何か言葉を返せたらいいのに。三郎は喉を開き、声を出そうとしたが、喋ることはできなかった。
――兄さんが励ましたり、安心させようとしてくれるように、ぼくも兄さんを励ましたり、安心させてあげたいのに。
やがて、兄は隠れ場所を見つけた。
祠のような場所だ。ここなら大丈夫、と言われて、三郎は言われるがままに身を潜めた。
ずっと走っていたから、とても疲れていた。
呼吸がうるさい。心臓が落ち着かない。
汗で全身、濡れている。
熱さを持て余していた体は、じっとしているうちにどんどん熱を奪われていった。
兄は肩掛け鞄を地面に置いた。
その拍子に、鞄からスケッチブックが零れ落ちた。
「三郎」
三郎は、顔を上げた。
「今夜は賑やかだね。まるでお祭りだ」
天使のような微笑みを浮かべて、兄は三郎の頭をぽんぽんと撫でた。
そして、スケッチブックを拾い上げ、ページをめくる。りん、と鈴の音がした。
「神様に助けてもらおう。そうしよう」
――にい、さん……?
「地上の争乱が宴会だ。どうしようもない人間たちを全員、生贄にしよう」
ぞくりとした。兄は、まるで父のようだった。
りん、りん、と鈴の音が近づく。
それが、なんだかとても怖かった。
「思金神をわが身に卸して、天照大神を迎える」
兄がそう言った瞬間、スケッチブックから無数の何かが飛び立った。
これまで父に連れられて訪れた各地で、兄と描いた絵だ。
いっぱい、いっぱい描いてきた。
それが、ひとつ、またひとつ。ページを余白にして、代わりに世界へと羽ばたいていく。
兄の仕業だ。
兄は、呆然とする三郎に顔を寄せ、耳元で優しく囁いた。
「三郎。大丈夫。怖くないよ。兄さんは、お前を死なせないからね」
スケッチブックから世界へと羽ばたく怪異の奔流。
それを、面白がるような気配が、上にある。
巨大な何かが、上から降ってくるようだった。
危険な気がして、三郎は「何かをした方がいいのではないか」と思った。
けれど、何もできなかった。
兄は天を見上げて、何かを迎えるように腕を広げ――その表情が、曇る。
「にせものだね。でも、まあいいか。いらっしゃい」
夜の山に、百鬼が満ちる。
百鬼夜行の主のような兄は、くしゃりと笑った。
どこか残念そうに、それでも及第点、というように。
「三郎。父さんはいなくなったから、兄さんが代わりにお祭りをするよ」
夜風に乗り、呻き声がする。
聞き覚えのある声で、三郎はどきりとした。たすけて、と聞こえた気がする。
母と祖母の声に似ている。
「気にしなくていい」
声を無視するように言い、兄は言葉を続けた。
「神社にきつねを生んだ。まがい物だが、神の使いだ。お前を助けてくれる存在だよ」
きつねの絵は、神社に行った帰りに描いたのだ。
尻尾が大きくてふかふかで、耳がぴんとしている。優しい目に描けたから、三郎のお気に入りだった。
――たすけて。
呻き声が近づいてくる。
三朗は無視できなくなって視線を向けて、呼吸を忘れた。
母と祖母が、白い繭のようなものに絡みつかれ、ひとつに縫い合わされている。
双頭の白い蜘蛛のように、首と手足が突き出ている。
白目を剥き、涙と唾液を垂らしながら、わさ、わさとぎこちない動きで近づいてくる。
げ、げ、げえ――三郎はこみ上げてきたものを衝動のままに吐瀉した。苦しくて、怖くて、壊れてしまいそうだった。
「ああ、三郎。嫌なものを見てしまったね。可哀そうに」
兄は口元を拭って痛ましげに言い、三郎を庇うように移動して、手のひらを上に向けた。
その手に、白い刀が生まれる。まるで魔法使いか神様にでもなったみたいだった。
「弟が怖がっているじゃないか。失せろ、醜い化け物め」
兄は白い刀を軽々とひと振りさせた。
距離があるのに、刀は切っ先を伸ばし、『化け物』に届く。
すぱりと鮮やかに繭が裂け、断末魔と共に無数の胞子が夜空に散った。
「三郎」
兄は、白く煌めく胞子が舞う夜空を背負うようにして振り返り、支配者のように微笑んだ。
そして、別れを告げて三郎の前から消えた。
そう――あの日、兄の人格は三郎の中から消えたのだ。
まるでスケッチブックから出ていった怪異たちのように。
白い何かが降る。
雪だ。否――胞子だ。
怪異の芽だ。
人の心に根差し、現代社会に祭司を中心とした村をつくり、兄のために宴会を続ける。
そうしていつか、目当ての神は誘われるのだろう。
恐ろしい。
恐ろしい。
三郎は悲鳴を上げた。
「――稲荷!」
名を呼ばれ、腕を掴まれ、引き戻される。
「――……はっ……?」
夜風が頬を打った。寒い。
気づけば、稲荷は寮の屋上に転がっていた。
雲が風に流されて、小さな星を散りばめた夜空が覗いている。月は遠く、凍てるような白色の光を放っていた。
稲荷を掴んでいるのは、黒づくめの常盤神護だ。
顔を覗き込んできて、垂れ目がちな黒い瞳には、困惑するような感情が浮かんでいるようだった。
「お前、自分からふらっと落ちかけてたんだぞ」
自分は、落ちようとしていたのか。
助けてもらったのか。
状況を理解すると同時に、左手に、小さな感触があることに気づく。
手を持ち上げて開いてみると、黒い折り鶴が握られていた。
「おい。とりあえず着ろ」
「ん? ――……あっ……」
コートをかけられて、そこで初めて稲荷は自分が一糸纏わぬ姿だと気づいた。道理で寒いわけだ。怪異も、せめて服くらい着させてくれてもいいものを。
「っくしゅ」
――こんな目に遭うのも、兄さんのせいだ。
くしゃみをしながら、稲荷は兄を恨んだ。兄は行方不明で、他の家族同様に事故死という扱いになっている。
兄さん。どこかにいるんだろ。
こんなお祭りは僕が終わりにしてやるからな。
兄さんのことも、いつか探し出して……。
そのあと、僕はどうするんだろう。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
稲荷はその後、再び監獄に呼ばれることはなかった。
調査報告を終えて別の仕事へと切り替えて、数日後。
ネットニュースの片隅に、小さな記事が掲載された。
オンラインゲームのオフ会で、火災が発生。参加者は全員消息不明。現場には真っ白な灰が不自然に降り積もっていた――そんな記事だった。この事件は、白色症例として分類されている。
白色症例は、現在、東京都内限定で確認されている。
なぜ他の地域では発生しないのか、その理由は謎である。




