彼女の選択
「お加減はいかがですか?」
「えぇ、大丈夫。ありがとう、エリー」
部屋に漂うのはお気に入りの香り。目の前には香りの元でもあるフェデルシカの好きなカモミールが、これまたお気に入りの白に小さな花柄が描かれたカップに入って置かれている。
フェデルシカが紅茶を飲もうと手を伸ばしカップを掴むと、カタカタと食器がぶつかる不快な音が部屋中に響いた。急いでもう片方の手をカップに添え、両手で口元まで運ぶ。一口飲んだフェデルシカはカップを戻すと、ホッと息を吐いた。
フェデルシカがいるのは自室のベッドの上。ここしばらく庭には行っていない。
ベッドの上から窓の外を見れば、木々は太陽の光を浴びてその青さを増し、花は踊っているかのように風に揺れる。何処もかしこも生命力で溢れ、フェデルシカには眩しくて仕方がない。
その眩しさから逃げるようにフェデルシカはそっと視線を紅茶の隣に置かれた便箋に移す。何度も読まれ、少し皺々になってしまったそれは、ウォルからの、いや、ウォーレルからの手紙だった。
枝垂桜の花が散った頃、ウォーレルの手紙は届いた。長々と書いたフェデルシカの質問に丁寧に答えてくれている内容を読むと、自然とフェデルシカの頬が緩む。押し花を大切にするという言葉を見た時は、嫌がられなかった事への安堵と胸がギュッと締め付けられるくらいの喜びがフェデルシカの心を満たしてくれた。
次は何を書こうか、と考えながら弾んだ気持ちで読み進めていたフェデルシカは最後の一文で、息を止める。
『俺の本当の名は、ウォーレル・アラウド・ヘルス。ヘルス王国の第二王子をしているが、地位などは気にしないでほしい。素性を探らないという条件を知った上でお願いしたいことがある。
あなたのことを教えてはくれないだろうか』
その一文はフェデルシカに大きな衝撃を与えた。
まず、相手がヘルス王国の第二王子であること。まさか王族が文通相手になっているなどとは思っておらず、今までの文通内容を思い出したフェデルシカは頭を抱えたくなる。
そして、相手がフェデルシカの事を教えて欲しいと言ってきたこと。内容からして、決して今までのような好みの話などではないだろう。名前や立場を教えて欲しい、そういう意味合いで間違いないはずだ。それも、王子としての命令ではなく、頼み事として聞いてきたのである。
フェデルシカは返事を書かなかった。書けなかった、という言葉の方が正しいだろうか。
フェデルシカはどうすべきかわからなかった。手紙のやり取りをして知っていったウォルが本来のウォーレルと変わらないのなら、教えずに文通をしたところで文句を言ってくることはないだろう。
それに、教えるとしたら、国家の秘密を話さなくてはならなくなる。知ったからと言ってウォーレルがローゼリア王国に何かしてくるとは思わないが、国家を危険に晒すようなことを王族であるフェデルシカがしてよいはずがない。
そこまでわかっているのなら悩む必要などなかったのだろう。しかし、心の奥底ではウォーレルに知ってほしい、私はここに居るの、と泣き叫んでいる自分がいることをフェデルシカは自覚していた。
「手紙を、書かれますか?」
静かなエリーの問いかけで我に返ったフェデルシカは無言で首を横に振る。それを確認したエリーは「かしこまりました」とだけ言い、部屋を後にした。
フェデルシカがベッドでの生活を送るようになったのは数週間ほど前。ちょうどウォーレルからの手紙を受け取った頃だから、それだけ返事を止めていることになる。
フェデルシカの身体は毎日予知夢を見ていることで命が削られ、立つことすらままならなくなっていた。予知夢を見なければ風邪のように回復するのだが、今のフェデルシカに寝ずに生活する体力は残っていない。
死という現実が、刻一刻とフェデルシカに近づいていた。
とは言っても、フェデルシカは予知夢を見ると決めた幼い頃から覚悟していたのだ。予知夢の代償は己の命。それは、決して覆せるものではなく、両親である国王や王妃は色々と調べてくれていたようだが、回避する手立ては見つけられなかった。
だから、フェデルシカは予知夢を国の、民のために使うと決めた時から、死が早く自分に訪れることを理解し、覚悟していた。
怖くないと言ったら嘘になるし、死にたいとも思っていない。それでも、誰にもそんなことは言えなかった。
娘に大きな荷を背負わせることになってしまった事を悔やみ悲しんでいる両親にも、幼くして家族と離れることになり心配をし続けてくれる兄にも、文句も言わず甲斐甲斐しく世話をしてくれるエリーやアレンにも。これ以上、己の事で心を痛めて欲しくはなかったのだ。
だから、フェデルシカは常に笑顔を浮かべている。明るい話をし、自由気ままに生活を送っている。
こんなに大切に想われて、戦の時代にこんな平和なところで生きられて、決して私は不幸ではないのよ、と。
だけど……だからこそ、フェデルシカは悩む。
このチャンスを逃したら、二度とウォーレルに本当の自分を知ってもらうことはできないだろう。もしかしたら、これが最後の手紙になるかもしれないのだ。
それは、死がフェデルシカを迎えに来るからだけじゃない。既にフェデルシカにはペンを握る力すらなくなってきているからだ。最初の頃はまだよかった。字が汚いくらいで読めないほどではなかったから。しかし、今ではギリギリ読めるかどうか、そんな字しか書けなくなっている。
「もう、会いたいなんて望みは持たないわ……」
一緒に見たかった桜も散ってしまったし、と言い訳がましく心の中で愚痴る。
「でも……貴方に知られないのはとても嫌なの」
以前、エリーがフェデルシカに教えてくれた。
その人の事を考えただけで、体が熱くなって、心がウズウズしたり。胸がギュッて悲鳴を上げたり、体全体で叫びたくなったり。その人の事が知りたくて、声が聞きたくて、自分が自分じゃないみたいになるのが、恋なのだと。
本だけでは中々理解できなかった恋とは、そういうことなのだと。
「貴方が誰なのか知って、この気持ちがより強くなってしまった」
出会わない方が幸せだった。
知らない方が幸せだった。
そうすれば私は未練もなく、幸せなまま去れたのに。
「嘘……こんなに心が満たされるのは貴方のおかげよ、ウォル」
ふにゃっと小さな笑みをこぼしたフェデルシカはもう一度ウォーレルの手紙に視線を向ける。
貴方には、私に唯一素直でいられる場所をくれた貴方だけには、やっぱり知っていてほしい。
「勝手でごめんなさい、お父様、お母様」
フェデルシカは目元に溜まった熱いものを引かせるために上を向きながら長く息を何度か吐き出す。そして、エリーを呼び、手紙を書く用意を頼むと、何から書こうか考え始めた。
そんなフェデルシカの様子をエリーが嬉しそうに見ているなど、フェデルシカが気づくことはない。