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青年が視線を遣った時には、これもまたいつの間にか現れていたフェンスの扉から、もう一人の青年が入って来るところだった。ローレンスが取り戻した記憶の中に、まだ彼の姿はなく──完全に初対面の存在。愛しくてたまらない少女が毎日口にする彼の姿は、想像通りでもありまた思っていた以上に儚げで、それでいて老成した疲れを纏っていた。
緩く巻いた髪は光に融けそうな銀糸。菫色の大きな瞳は、捨てられた子犬のようにおどおどと金の君とローレンスの二人を行き来していた。簡素なアースカラーの服は、とても金の君と同じ存在と思えないほど地味で、洗濯はされているもののくたびれた感じがする。狭間ほどではないが金と銀でも染物の技術はかなり発達しており、作れない色はないくらいなのだが、それでも何度も煮たり手間の掛かるものや原料が希少なものはかなり裕福な者たちでないと手にすることが適わない。今のシャールでは市井の民と同じ程度の生活レベルを保つのがやっとなのであろう。初めて間近で見た金の君も、心を打たれる佇まいだった。
「ようこそ金の界へ──シャール」
ふわりと微笑んで、金の君が片腕で招く仕草をした。幾重にも白い肌を飾る細い腕輪がシャラリと鳴る。
「こ、こんにちは」
慌ててぺこりと頭を下げてから、シャールは意外にも機敏に二人に歩み寄ると指し示された通り金の君を間にしてローレンスの対面のカウチに腰を下ろした。青年のように社交辞令を述べることも遠慮も何も無い。物怖じしない性格なのではなく、ただ単にそういった社会経験がないからこその行動のようだった。
「初めまして、シャール。ローレンス・シュバルツです」
本来なら一度立ち上がり握手を求めるところだが、青年は腰掛けたままカップをテーブルに戻して笑みを向けた。
淡い紫色のスーツは当然オーダーメイドで、公式行事用ではないが体のラインを綺麗に見せるようにと計算され洗練された作りになっている。金の君と並んで視界に入っていても全く遜色なく──輝くばかりの二人に束の間見惚れていたシャールは、はっと我に返ると共に胸の痛みを感じた。
敢えて開口一番に名を名乗ったこと──この男性は、自分の異母兄の『ディーン』ではない。その記憶を取り戻してはいない。そうさせているのは自分だろうと無言で責められているようで……それが自分の思い込みに過ぎないとしても、負い目を感じてしまう。
「シャール、です」
何とか会釈だけは返せた。
自分はこの人に弟として迎えて欲しかったのか、全くの他人になりたかったのか、判らなくなっていた。銀の界で義母の攻撃から庇ってくれたとき、血が繋がる義兄が自分を嫌ってはいないと知り心の底が歓喜に震えた。けれど──無茶な転生をしてまで大事な少女と同じ世界で生きることを望んでいると知った時、羨ましくて妬ましくて堪らなくなったのも事実だ。その結果、本来ならば出会った後には時間をおかず取り戻すはずの前世の記憶が戻らないという事態を招いてしまっている。それはリルフィとジルファが危惧していた通り、シャールも自覚している事実だったのだ。意識してそうしたわけではなくとも、その気持ちがあるのは確かだったからそうなってしまった。それ故に今──正面からまともに目を合わせることが出来ない。
「どうぞ、あなたも飲んでみてね」
つと金の君に示されて、おずおずと左手でカップを持った。ふわりと鼻腔をくすぐる甘くて爽やかな香りを胸いっぱいに吸い込んでみると、不思議と背筋が伸びる。口を付けると温かなものが体中に染み渡っていった。
「君のお陰であの子と出逢えたよ。御礼が遅くなってしまったけれど……ありがとう、シャール」
そのタイミングを待っていたのか、そっとローレンスが口を開いた。
お茶を飲む前なら狼狽していたであろう。今ならそれを素直に受け入れることが出来る。人の心とは不思議なものだ。
「──いいえ。寧ろ、僕は」
「いいんだよ、これで」
謝罪の言葉を口にしようとしたのを遮り、ローレンスはしっかりとシャールを見つめて首肯した。
「僕も君には謝らない。人の心は自由であるべきだ。だから君も……もう縛られなくていい」
金の君に対しては「私」と言っていたことをシャールは知らないが、ディーンは誰に対しても私と言っていたのでやはり二人は別人なのだなと気付く。
彼女を奪う形になってしまったこと、それを謝りはしない。それは互いを求め合った結果だから。無理に略奪したわけではない。そうは思っていても、奪われたと感じている方はなかなか思い切れないし割り切ることも出来ない。その事に対して謝らないと本人にはっきり告げたのだ。
だが──縛られる、とは。誰に? 何に?
シャールは首を傾げた。まるきり無垢な子供の仕草そのままの姿に、ローレンスは困ったように瞬きをした。
「狭間の界──こう呼ぶには些か戸惑うけれど……僕たちの住んでいるところでは、生まれた時から組織培養をしているのがごく一般的でね」
ますますキョトンとするシャールにしっかりと目を合わせ、なるべく解り易い言葉を選び説明する。
「怪我や病気などで体の一部が失われた時に、あらかじめ育てておいた自分自身の体のコピーを使って修復することが出来るんだよ。これは大昔みたいに他人や家族の体の一部をもらうことに比べてとても体に優しくて、危険もない。だからごく普通の家庭の生まれならば、寿命で亡くなるまで余程難しい病気や即死するような事故に遭わなければ五体満足に生きていくことが出来る」
ここまでは何となく理解できる? 念を押し、不思議そうに頷くのを待って、
「僕の場合は、それに加えて体全体まるごと一人分のコピーが用意してあるんだ。多少僕自身より若くなるのは仕方ないんだけど……僕が幼い頃から両親が用意していたらしくて」
言いながらローレンスも苦笑している。そこまでやるのは実は非合法なのだ。現実的に、その体に脳だけ移植して体を乗り換える──という神をも恐れぬ所業を可能にすることは無理だとしても、倫理的に何かが抑制をかけるのである。勿論試してみた者は過去限りなくいる。だがいくら自分の細胞から出来ていても、ロボットみたいなものにしかならないのである。感情は脳の中だけには納まっていない、そういうことらしい。
「はあ……」
話の展開についていけないシャールは、しきりに瞬きしながら何とか内容だけは理解しようと努めている。金の君はあくまで立会人としての立場を守り、この場の主導権はローレンスに任せているかのようになりを潜めて静かに二人を見守っていた。
「君さえ良ければ──その体を使って欲しいと思う」
だからズバリとそう言われても、咄嗟には何のことだかまだシャールには解らなかった。時計があればチッチッチッと秒針の動く音がたっぷり百を数える頃、それでもまだ呆けたような表情の彼にもう一度ローレンスが説明を試みた。
「断片的にしか思い出せないんだけど……以前君の体を借りてディーンが狭間の界にやって来たということがあったよね? それはつまり、君は自分の意識と体を切り離すことが出来るということだよね」
「ええと……まあ、そんな感じです」
覚束ない様子ながらも頷くのを待って、ほっと吐息する。
「良かった。それを前提として僕が考えた案があるんだよ。まずは銀の界の何処か安全な場所で生命活動を最低限まで落として体を眠らせる。それから意識だけを狭間に飛ばして、僕が用意する体を動かしてあちらで生活する。簡単に言うとそういうことなんだけど」
言葉の意味をシャールが理解するまで今度は数十秒だった。呆けた口元がぎゅっと結ばれて眉根が寄り、首を傾げてぷるぷると乱暴に振る。ただただ困惑している様子を黙って見守り、ローレンスは待った。
「──それはつまり……元銀の君が湖を作り出した状況のように、眠ること……ですよね。そして意識は覚醒させたまま狭間の界で、その……あなたの言う体に入る、と」
「そうだね。体を安置する場所さえ確保できれば、そう難しいことではないと思ったんだけど。どうかな? もしも定期的に戻らなければならないなら、その時はあちらの体もきちんと僕が管理しておくし、生活に必要なものも全て揃えさせてもらうよ。それくらいは容易く出来る立場だから心配しなくていい。肉体の顔も出来るだけ今の君に近付けるように出来るし、これも以前と同じように周囲の人には本来の自分が見えるようにすることも可能なんだろう?」
「それは、まあ……」
自分の属する界以外で力を使うのは本来禁じ手ではあるけれど、誰かを殺めたりしない限りそう厳しく取り締まられているわけではない。ちらりと金の君を見ても淡く微笑んだままこちらを眺めているばかりなので、きっとそれは許されることなのだろう。
「ならば問題ないね」
ほっと息をついて、ローレンスは足を組んだ。本来は目上の者がいる場でとるべき体勢ではないが、背筋は伸びたままでごく自然に行われたのもあり、崩れた感じはしない。両手の指を組んで膝頭に載せると、返事を待つ風情になった。
急かす風ではなかったが、その視線を受けたままでは考えがまとまりそうになく、シャールはゆっくりと瞼を下ろして深呼吸してみた。
この青年が提案する通りになったとして……と想像してみる。以前のように犬の姿ではなく人としてあちらの世界に住むことが出来る。彼女と同じ学校に通い、好きなことを学び、友達を作り、共に遊ぶことも出来る。同じ家には住めなくても、今まではついて行けなかった場所に行くことが出来る。犬の足では触れなかったものに触ることが出来る。伝えたくても言えなかった事を言葉で話すことが出来る。それらは──なんて……なんて素敵なことなのだろう。
あまりにも夢のようで、まるで現実味がなかった。
銀の界から一生出られないと──〈ちから〉を持つ最後の一人だからと言われた時、その一瞬前に夢見た彼女との安寧な暮らしが泡のように儚く消えていった。例え犬の姿で短い命だったとしても、何も知らずに彼女の傍に居られた方がどんなに幸せだったかと思い、世界の理を恨みもし、それでも彼女と彼女のいる世界を守るためにそこに残ることを決めた。
その決心を今になって揺るがす言葉──。
でも、きっと。こんな機会はもう二度と訪れない。あっという間に青年の気が変わってしまうかもしれない。そんなことはないと知りつつも、悪い方へと考えてしまう癖は抜けない。
けれど、もしも。自分が不在で抜け殻みたいな体だけではあの界を支えることが駄目で、狭間の暮らしにすっかり慣れて幸せの絶頂にいる時に何か不具合が起きてしまったら? そうしたらその時こそ……今度こそ世界を破滅へと導いてしまうかもしれない──。
ずっと夢にまで見ていた「普通の狭間の界の男性の暮らし」を想像しながらも、益体もない心配ばかりしてしまう自分が情けなく、それでも今の生活を捨てても良いものかと迷ってしまう。優しく手を差し伸べて孤独から救ってくれた最長老、そして派遣されてきたレンブラントとリンドグレーンの双子。それに生活の補助と住まいを提供してくれたヤツカとユキの夫婦。ようやく少しは仲間らしく意思の疎通が出来てきたところなのに──彼らをあっさりと切り捨ててしまうのは、あまりにも薄情なのではないだろうか。