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浮遊感と軽い眩暈と共に視界がぼやけ、時間にしては数瞬でローレンスの周囲の景色はすっかり変わってしまっていた。スティールと夕日を眺めた土手の傍にある小さな橋のたもとで、彼女の示した通りの場所に決められた時間に立った。それからすぐに彼女の説明してくれた通り〈界渡り〉の状態になったらしい。
感動に目を見張りながらも周囲の確認は怠らない。自分の足元は獣道にも似た細い小道で、地面には丈の低い草が生えており、それが踏み固められていないところを見ると人通りはあまりないようだ。両脇は潅木の茂みと程よい茂り具合の木立が鬱蒼とまばらの丁度中間くらいの密度で続いている。まるで「寄り道しないでまっすぐどうぞ」と誘っているかのようだ。
試しに振り返ってみると、同じような道が続いている。自分がどういう風にやってきたのか判っていなければ、どちらに進めばよいのか迷ってしまいそうだった。
葉ずれの音と小鳥たちの微かなさえずり声に耳を澄ませ、振り仰いでみた。空は青く澄み渡り、緩やかに筋のような雲が流れている。しばらくそのままじっとしていたが、別段何事も起こりそうになく、微笑を浮かべて青年は歩き始めた。
数分進んだだけで、視界が明るくなった。と言っても暗いところから電灯の下へ出た時のような目にしみるものではなく、今までも十分視界は良好だったのだが、そこに華やかさが加えられたと形容すべきか。木立が途切れ、開けた場所に出たかと思うと、何処かで耳にしたような音楽が僅かに聞こえてきて、歩きながらこれはなんという曲だったかと思考する。その一瞬僅かに気を逸らせただけの筈なのに──瞬き一つ、その間に視界は一変していた。
優美な曲線を描くフェンスに囲まれた広場に、布張りのカウチと磨きぬかれた天然石で出来た丸テーブル。その上には湯気の立つ茶器のセットがあり、籐の籠には焼きたての香ばしさを匂わせ菓子が盛ってある。確かに一瞬前までは何もなかった筈の場所に、その存在はあった。そう──〈人〉と形容するには恐れ多すぎる存在が。
「お初に御目にかかります。この度は許しを頂き誠にありがとうございます」
つと息を呑んだものの、物怖じすることなく優雅に青年は腰を折った。少女であったならば絶句し立ち尽くしていただろう。
カウチに深く腰掛けていた存在は、笑みを湛えて頷いた。
「そう畏まる事はないわ。ローレンス。そう呼ばせてもらって良いかしら?」
「はい、類いまれなきお方──私はどうお呼びすれば?」
「そうね……あなたはこの界の者ではないのだから〈金の君〉で結構よ」
「畏まりました、麗しの金の君」
これ以上はないくらいに優美に微笑み、青年はその場に膝を突こうとする。その仕草を金の君が手を振りやんわりと制止した。
「止めて頂戴な。あなたは私の臣下ではないのだし、そんなに遠くに居られてはまともに話も出来ないわ。どうぞこちらに掛けて」
指し示されたのは、テーブルを囲うように配置された隣のカウチ──斜めに隣り合って座れというらしい。考える風な青年に再度手を振り、今度は招いている。
「お茶が冷めてしまうわ。私、喉が渇いているの」
「──では、お言葉に甘えて」
あまり渋るのも不敬と思ったのか、ローレンスは大人しく従った。腰掛けて勧められるままに茶器を手に取る。爽やかなハーブの香りがした。
「落ち着きますね」
ゆっくりと香りと味を楽しんだ後、そっと口に出した。
いくら年の割に場慣れしているとはいえ、違う世界の最高権力者に面会するのである。多少は緊張するのが当然だ。それを解きほぐそうとしてくれている金の君の気遣いにも安堵した。見た目の通り壮絶に美しいだけの女性ではあるまいが、そういった心配りの出来る存在であること──自分の理解と想像の及ぶ思考の持ち主であるだろうと判断できることに安堵したのだ。
何処からともなく流れてくる音楽は、まだ微かに鼓膜を震わせている。どんな旋律なのか確たる意識を持てない程度のさやかな音量である。風に乗ってくるのではなく、天から柔らかに降り注いでくるかのようにも感じられた。
「あなたは──私と話したかったのでしょう?」
青年が落ち着くのを見計らっていたのか、絶妙のタイミングで金の君が口を開いた。確信している面持ちで。
はは、とローレンスは照れたように髪をかき上げた。狭間の界ならば、その仕草で周囲の女性全員が動きを止め恍惚と見入ってしまうだろう。
「流石に何もかもお見通しですね」
「まさか。私はただの統治者ですもの。解らないことは沢山あるわよ」
うふふ、と食えない笑みを浮かべ小首を傾げて視線を投げる。可愛らしいながらも、他のもの全てを圧倒しないではいられない風格を漂わせていた。
「──ひとつ、お伺いしたいことが」
その視線を真っ向から受けて、ローレンスはそっとカップをソーサーに戻した。
頷くのを待って、
「統治者たるもの……その存在は、何を持って示されるのでしょうか。大まかに分けて血肉と精神両方を持っていて生物となり、通常の生物は血肉なくしては存在し得ない。しかし、それならば特別な力を持つ統治者の場合思念体だけでもその界にあれば良いのかというとそうではない。体が失われる際にそこに含まれていた力はその世界に拡散するけれど、それだけでは世界を支えるものとしては弱くなってしまう。私の勝手な推測では、どれだけ微小な力になっていたとしても、統治者と認められるのは生命活動をしている体そのものであるという認識ですが、それでよろしいのでしょうか」
真摯な問いに、金の君はきょとんと唇を開き──やがて納得したように吐息した。
「成る程……今回の会見は、それをあの子に提案すること……」
そっと貝殻のような瞼を閉じ、それから開き射るように青年を見つめた。
「──あなたは、それが最善だと思うのね?」
「はい」
躊躇なく応える。
「あなたには、何もメリットはないと思うのだけれど」
「ありますよ」
揶揄するような表情に、何を心に浮かべたのか幸せそうな笑みが返る。
「彼女の心の支えが取れるのならば──それで私も幸福です。例えそれにより私たちの関係が揺れたとしても……選ばれるのは私だという自信もあります」
「大した自信家ね」
さしもの金の君も呆気に取られた。
「自信というよりも確信ですかね」
しれっと言いながら再びカップを手にするのを見て、金の君はくすくすと笑いながら、先刻青年が現れたのと九十度違う方向を手の平で示した。
「先程の問いへの答えは──それで合っている、よ。彼がやって来たようだわ」




