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大変お待たせいたしました。最終章です。
唯一無二の存在として、ただ一人悠久の時を越えてきた〈金の君〉の宮は、誰も辿り着けない場所にあるという。金の界を統べる絶対の存在。彼女を守るためにか、または主の気分次第でなのか、その宮は姿を変え場所を変え、この世界の何処かに存在している。
そして必要とする者が居る時だけ、そこへの道は開かれ、導かれる。それは、彼女が自由な出入りを許可している者──具体的にいうなれば、ジルファとリルフィ以外への始めの時からの決まり事であった。そう、側仕えであるチェスミーたちさえ、己の意思では外の世界との行き来は不可となっているのである。金の君の宮だけが、彼女たちが終生過ごす場所と定められているのだった。
香しき花々と緑の木立に囲まれ、中庭のカウチで午後のお茶を楽しんでいる女性がいた。金糸銀糸をふんだんに使い様々な吉祥文様を織り込まれた薄い紗のヴェールをふんわりと肩に掛け、その下の裾の長いドレスはゆったりとドレープをとって柔らかな下草を覆うように流れている。全てが無垢な白でもあり、これが人の手によって作られたものであることを疑いたくなるような虹色の輝きを放っているのだった。
意識の隅に微かな呼び掛けを感じて、女性はたおやかな腕を傍らの丸テーブルにかざした。細い手首を彩る沢山の腕環がしゃらりと音を奏で、テーブルを薄く被っていた水が淡く明滅し人影を結ぶ。
『ご機嫌はいかがですか、我が君』
人型のジルファは、唇の端を上げて微笑を浮かべていた。
「良いと言えなくもないわね。でもその含みのある笑顔を見たら少し盛り下がってしまったわ。何かあったの?」
かざしていた腕を戻すとそのまま長い金の髪をかき上げ、女性は吐息した。緩く波打つ金糸が風に吹かれてドレープを滑り落ちていく。
『ひと目で見抜くとは流石ですね、御方様』
「おべんちゃらはよくってよ。今度はどんな厄介事なの」
『さて厄介事と一概に言ってよいものか判断付きかねますが……。実はあの狭間の界の青年が、シャールと会いたいと申しているようで』
予測の範囲外だったようで、金の君はその美しい柳眉を顰めた。
「記憶が戻ったということ?」
『いえ、まだ部分的なようです。ですが、一度直に会えば状況が変わるのではないかというのと、彼女と出会えたことの礼が言いたいのだと』
「礼、ね……」
茶器をテーブルの端に置き、細い指先で顎を撫でながら思案する。只人が目にすればそこから動けなくなる程の可憐な美しさであった。
「暴走した時より落ち着いているとは言っても、気の進む話ではないわね……。あなたから見てどうなのジルファ。ずっと銀の界でついているのでしょ?」
『そうですねぇ……』
珍しく言葉を濁す。もともと一つの存在であった二人には、隠し事は通じない。しかし言葉に出来ない、ためらいは感じ取れた。まあつまりは、大丈夫と確約できる状態ではないということなのだろう。それならば。
「まあいいわ。そっとしておいたからってどうにかなるものではないのでしょう? 恋慕の気持ちというものは」
月日で薄れる程度のものならば、周りはここまで緊張したりはしない。そしてそれが〈ちから〉のない者であるならばともかく、今のシャールには〈銀の界〉並びに〈金〉と〈狭間〉の存亡をも左右する可能性があるのだ。
『あちらは界渡りして銀で、と考えているらしいですが、私は反対です。もしかしたらそれでディーンの記憶は戻るかもしれない。けれど』
「ええ、解っているわ。この間のような暴走が起こった時、今度こそ狭間も巻き込んで世界が揺らぎかねない──」
とんとんと指先で宙を叩き、そうね、と金の君は頷いた。
「こちらに呼びましょう。宮に結界を張り、もしもの時には私が食い止めるわ。こちらの界で起こる事にならば、私は堂々と干渉できる。通路も結んでおきましょう。狭間の方は、いつもあなたたちが使っているからその結節点から連れて来れば良いわ。界渡り自体はシャールでも楽にこなせるでしょうけれど、なるべく力は使わせないようにしないとね」
『それは助かります』
ジルファの口元が綻んだのを見て、白々しい、と花弁のような唇が尖る。
「最初からそうさせるつもりだったくせに」
『とんでもない言いがかりで。今お聞きして最善の策だとは思いましたが。それと、次元管理官には』
「勿論私から連絡しておきます」
はいはい、と吐息して繊手を振った。
挨拶を交わし、すうっと水が引くように消えゆく人影を眺めながら、金の君は緩く首を振った。たった一人の少女の言動でたやすく世界の均衡を揺るがす存在。彼についてはずっと心を痛めていた。
とうの昔に統治者が居なくなり、血脈に残る力により安定している現在の〈狭間の界〉。それを目指すならば、なるべく早く少女への執着を捨てさせ同じ界で伴侶を得るべきだろう。事実、〈銀の界〉で唯一残っている民衆による自治組織である院の長老たちは、見合い話をせっせと進めているらしい。銀の君であったフレデリックとその妻テイトを畏れ敬い──憎悪しながらも、民衆はその血による己の一族の繁栄を願っているのだ。その矛盾が人間らしく、金の君には理解しがたいものではあるが、それこそが一般的な人間という生き物そのものなのだと解釈している。
今はまだ到底受け入れることは出来ないだろう。彼がどんなに誠心誠意尽くしても、民衆は彼を疎んじ、できれば関わりたくないと排斥し、聞く耳を持たなかった。それでも復興のため界の安定のためにと身を粉にし働き、どうにか周囲に認められて今のシャールの居場所がある。
最長老により与えられた補佐役の双子、リンドグレーンとレンブラント。利発で彼より若干年上の二人は、最初こそ物知らずな彼に呆れていたそうだが、今は戦友のように家族のように何くれとなく世話を焼いている様子だ。たまに水鏡で垣間見る彼らは、和気藹々として楽しそうだった。だが、あの二人はスティールに好感情を持ってはいない。主人であるシャールの望みを叶えようとしないからだ。今回もきっと二人は同伴したがるだろうけれど、それを許すことは出来ない。そしてスティールもその場には居ない方が良いだろう。
転生した体ゆえ今は血の繋がりがないとはいえ、異母兄弟である本人同士……腹を割って話をして欲しい。それによって何かが彼の心を変えるかもしれない。
恋慕や執着──それらの感情は、統治者には不要であり無用なものだ。金の君には解らない。推察することはあっても、理解してはならない。始源よりこの世界に存在し、完全なるものとして悠久に在り続けなければならない。そのことを倦んではならない──その時、世界の崩壊が始まるのだから。
他の界がどのように変わり行こうと、心を揺らしてはならない。
私こそが──この〈金の界〉の統治者。名も無き唯一の存在なのだから。
「ああぁ~心配だよう」
折角編み込みにしてもらった紅茶色の髪に指を突っ込んで、少女は河原で右往左往している。散々青年との別れを惜しみ、リルフィはともかくジルファまで呆れさせたというのに、界渡りするのを見送ったあともその場所を離れられずにこうして気を揉んでいる。
青年は未だ前世の記憶を取り戻したわけではない。また、取り戻したとしても以前のような特別な力を持っているわけではない。シャールがちょっと強く念じれば、たやすく傷つけられてしまう。
スティールだとて、シャールを信じていたい。その心に微塵もぶれはない。けれど、どうも自分が絡むとシャールが簡単に自我を失い暴走してしまうということは、自他共に認めざるを得ない事実なのだ。それは人柄を信じるとはまた別の次元の問題なのだと思う。一般人の感覚としては、くしゃみや咳をするのと同じくらい簡単に、また制御不能に〈ちから〉というものは行使されてしまうのだ。それだからこそ安易に〈人〉に与えてはいけないのだと、金の君が己を律し続けている最大の理由である。意識してきちんと制御する、分け与えられる人物はその人となりを吟味され厳選されなくてはならない。その時点で誤ってしまったかつての〈銀の君〉の末路と〈銀の界〉の現状。考えても悩んでもスティールにはもうどうにも出来ない。
「お願い……シャール」
ローレンスに敵意を抱かないで。頭から離した両手の指を組み、心から祈った。誰にとも言えない祈り。
以前ローレンスに諭されたが、自分ならその手にかかっても許すことができる。納得もしている。けれど、義兄であったディーンやましてや転生体であるローレンスには何の咎もない。
ただ、好きになってしまった。
シャールが欲してやまない恋慕の情を抱いてしまった。そのことを確信してしまった。生まれて初めて、異性として愛してしまった。
できるならシャールの願うようになりたかった。でもそれは今の自分には不自然な状態だ。この気持ちを押し込めて、シャールの下に行くことは出来ない。自分の片思いなら、いつかはそんな可能性もあったかもしれない。けれど──スティールの気持ちが二人のどちらにもなかった時点で、ディーンは彼女に会うためだけにほんの僅かな可能性に賭けて転生してくれたのだ。この世界、今のこの時間軸に、世界の理を騙して誤魔化して裏をかいて。
揺るがぬ想いと少女の願いと少年の応援で二人は再会を果たし──それなのに、否、それだからこそ、シャールは自分の気持ちが恋であると気付いてしまった。
僅かに芽生えかけていた義兄への思慕はたやすく否定され、拒絶から憎悪へと変わってしまう。本人もそんな己を嫌悪し、どうにか抑制しようと日々の忙しさで紛らわせているのだが。
今回、何故ローレンスが突然こんな要望をしたのか、スティールには解らなかった。一応の理由は聞いている。断片的にだけれど記憶を取り戻し、今正式にスティールと付き合うことが出来るようになったことへの礼を言いたいと。それならば完全に記憶が戻ってシャールが落ち着いてからでもいいと止めた。当然リルフィもジルファも難色を示した。周囲の助けがなければこの逢瀬は実現しない。けれど、その頂上におわす〈金の君〉が許可を出してくれたのだ。
幼い日に迷子になったスティールは、金の君とリルフィに金の界で出会った。本人はそのことを憶えていないから、〈金の君〉はリルフィとジルファから話を聞くだけのとてもとても遠い存在の方だった。要するに他の世界の神様のような存在なのだから、話をするだとかそんなこと夢にも思ったことはない。同じような存在の〈銀の君〉にはかなり盛大な啖呵を切ったことなど記憶の彼方に捨て去られてしまっている。
ローレンスはそういう感覚が自分とは違うらしい。地位のある人だから、〈偉い〉人と会うのも臆さないのかな、なんて思いながら、スティールは足を止めて少し前に彼が界渡りした名残のある結節点を見つめた。