たったひとりに逢うために 〈前〉
少しさかのぼり、ディーンと死別して半年後のスティールの話。シャールからの素敵な誕生日プレゼント。
映画館なんて久し振りだった。ましてやペア席なんて指定したのは、初めての経験だ。
視界いっぱいに大迫力で繰り広げられる三D映像のアクション映画に、本来なら釘付けの状態だっただろうけれど、今はそれよりも隣に腰掛けている人に心臓の音が聞こえやしないかと気もそぞろ。
ペア席は、柔らかめの二人掛けソファとテーブルで構成された完全な個室である。絶妙なアングルで他の座席と視線が合わないよう配置されており、前を向いて視界に入るのはスクリーンのみ。また硝子でカバーされており、映画の音は室内のスピーカーで直接聞くことになるが、中の声も外に漏れないようになっているのだ。
そっと寄り添うように隣でスクリーンに見入っている青年の体温が、服越しに伝わってくる。息をするのさえそっと気遣わないと、全てが伝わってしまうのではないかと変なことにばかり気が要ってしまい、大好きなアクション俳優の映画だというのに、少女はストーリーに入り込むことが出来なかった。
「どうかした?」
派手なアクションシーンが終わり、青年が首を傾げて尋ねた。
ああどうしよう!
それだけで心臓が跳ね上がるような錯覚にとらわれる。
少し長めの漆黒の髪が、さらりと襟を流れ、彼は触れ合うほど近くに置かれていた左手で、少女の右手を取った。
「具合でも?」
こんなにドキドキしているのに指先の冷たいのが気になったのか、わずかに眉をひそめ、彼は顔を寄せてじっと瞳を覗き込んできた。
吸い込まれそうな深い闇の色。少しだけ紫の掛かった虹彩。束の間本当に息をすることを忘れてしまった。
ぼーっと上気した頬が暗闇でもばれてしまったのか、更に顔を寄せてあろうことかおでこでこつんなんてされてしまったものだから、硬直したまま気を失ってしまうかと思った。
口をぱくぱくさせて固まってしまった少女に、今度は青年の方が狼狽し、
「ごめん、私があちこち引っ張り回したから疲れたんだね?それとも風邪でもひいたかな」
と不安そうに謝罪した。
「ち、ちがっ……」
あうあうとスティールはようやく息を吸い込み、顔の前でぱたぱたと両手を振りながらなんとか平静を取り戻そうと努めた。
それからテーブル脇のコンソールに手を伸ばし、紅茶を注文する。
「飲み物頼むね、一緒でいいかな?」
「勿論君と一緒で」
本当に大丈夫かな、とじっと顔を見たまま、青年は映画を観る事は放棄してスティールに意識を移してしまったようだ。
程なくして、ティーセットがテーブル上の給仕口から現れた。ポットに入った紅茶にたっぷりのミルクポット、輪切りのレモン、カロリーオフの糖分にカップとソーサーとスプーン。何処ぞの喫茶店のようなしつらえだった。一緒に置いてある砂時計から、さらさらと砂が滑り落ちていく。
「ちょっと意識しすぎみたい私」
正直にも程があるが、いつも正直すぎる家族に囲まれているせいで隠し事の出来ない性質らしく、少女は呟いた。
「意識、というと?」
「つまり……あなたのこと」
青年は不思議そうな表情で、やはりまじまじと少女を見つめていた。
「だって学校でもこんなにぴったりくっつくなんてこと滅多にないんだけど、近所の男の子とだったら全然こんな風になったことないのに、おかしいの。ドキドキが止まんなくてそれが聞こえたらどうしようってずっと気になってて映画みるどころじゃなくって。そんなだから手なんか繋いじゃったらもうどうしたらいいか判んない位緊張しちゃって、ついつい息まで止まっちゃったんだもん」
「・・・・・・」
一瞬言葉を失った青年は、幸せそうに微笑んだ。
「なんだ」
「なんだじゃないよー」
「だって」
青年はもう一度少女の手を取り、自分の胸に押し当てた。
ドキドキと、通常より速い心拍数が伝わってくる。
「ほら、一緒だよ」
「……どうして?」
「だって私は君のことが好きで仕方ないんだから」
囁くように言う青年の表情は、心底幸せそうで。
疑うとか、茶化すとか誤魔化すとか、そんなこと絶対にできないような雰囲気で。
どうしよう。
「同じように感じてくれているってことは、少しは希望があるのかな」
そんなこと言われても、まだ自分のことさえわからなくて。
ただ、ずっとずっと会いたかった。
あの時伝えられなかったこと、いっぱいあるような気がして。
それでも、もう二度と会えないと思っていたから、どうしたらいいのか全くわからなくて。
そんな自分がもどかしくて仕方ないまま、こうして時間だけが過ぎてしまっているのに。
スティールは、両親と白い愛犬シャール、そして金色の鳥リルフィと暮らす平凡な十六歳の女の子だった。そう、半年前のあの日までは。
事の発端は、シャールの体調不良だった。原因不明の高熱で立つことさえままならなくなった愛犬を病院に入院させたのだが、その夜スティールの部屋にシャールと同じピアスをした少年が忽然と姿を現した。苦しげな息のまま状況を説明する少年は、十年間スティールと共に過ごした愛犬の真実の姿だった。シャールの生まれ故郷はスティールの住む【狭間の界】と隣接する異世界【銀の界】。シャールはその王の庶子だという。王妃に疎まれ殺されそうになった母親が、必死の思いで息子を変化させ異界に逃がしたのだった。だが変化の効力が切れ、このままでは王妃に居場所を知られてしまう。異世界の住人に害を為す事は禁であるが、そんな理などたやすく無視してしまう王妃の諸行を知るがゆえに、シャールはスティールと別れ元いた世界に帰る決心をした。
もう何もなくすもののないシャールにとって、唯一の存在であるスティールを守るために。
銀の界の王は姿を消して久しく、王妃の恐怖政治は日に日に酷くなっていた。愛する人を取り戻そうと、その世界の生き物を殺し続ける王妃。その歪んだ愛情に誰も逆らえず、実の息子である王子二人にもシャールを狩りの獲物に見立て捕らえるか殺すように命じたのだった。
金・銀・狭間、隣接し界渡りという手段で移動できるそれぞれの世界は、元々それぞれに〈君〉と呼ばれる唯一の者により統治されていた。万能の力を持つ〈君〉は己の住まう世界をより良く保つためにのみ存在しそれは永久のものとなるはずであった。しかしある時〈狭間の君〉は愛する者を得て子を生し、力はどんどん分散され、その時から人と同じ寿命を得た〈君〉の存在は時の流れと共に忘れ去られていった。
そして王と王妃という立場を選んだ〈銀の君〉は、王妃にと選んだ女性のあとに最愛の女性を見つけ子を生してしまう。嫉妬に駆られ母子を殺そうとする王妃から逃れようと姿を消した女性を探し、疲れて眠りに付いた王。その時から王の毒は世界を滅ぼそうとじわじわと広がり始める。
唯一の〈君〉である〈金の君〉は、幼い頃狭間の界から迷子になり現れたスティールとの約束もあり、彼女の願いを叶えようとする己の養い子リルフィに力を貸す。しかし、己の世界以外に直接干渉するのは禁忌であるため思うようにはいかなかった。
スティールの願いを叶え金の君の力を使って界渡りをしたリルフィは、最愛の少女を守りながらシャールを探す。銀の界に渡った途端に第一王子と劇的な出会いをしたスティールは、「君を守る」と誓うディーンに戸惑いながらも惹かれていった。王妃の命を受けシャールを殺そうとするもう一人の王子エリックに見つかったシャールは、その力により操られてスティールに剣を向けた。それでもシャールを助けようとするディーンは酷い傷を負い、最後には王妃を欺きながらもシャールの手にかかり……。
あれから半年が過ぎ、リルフィの言った通りスティールが界渡りしてシャールとは月に一度銀の界で会っていた。唯一残った銀の君の血脈であるシャールは、崩壊しそうな銀の界を支えるため、残る事を決意したのだ。全てが終わった後に、また一緒に暮らせると信じていたスティールにとっては青天の霹靂だったが、血脈が力を持ち世界を支えるという理がある以上、それは避けられないことだった。
銀の界の事件後、大半の妖精族・精霊族は金の界に渡ったままだったが、少数だが戻ってくるものたちもいた。水が引いた今、あの静かな森で暮らしているらしい。ディーンの親友である天馬のセートゥルードも、シャールに色々と指南するために残り本当に親身に世話をしてくれているのだそうだ。
友が身を呈して護った命を自分も大切にしようと思ったのかもしれないし、ただのおせっかいなのかもしれない。
こちらの狭間の界は、金や銀と違い機械と科学が発達した世界である。魔法の類は見当たらないがそれに該当する科学力をシャールはあちらの発展の手がかりにしたいと思っているらしい。
それが良いことか悪いことかはまだ判らないが、〈君〉という絶対であり至高の存在が消えてしまったことで、銀の界は大きな危機に瀕している。
恐怖政治を強いていた王妃が突然いなくなり、跡継ぎもいない。大臣等の補佐役も王妃がことごとく廃止してしまっていたため、統治者が不在なのだ。
いきなり与えられた自由に、住民たちはみな戸惑いおののき、開放感と不安とで妙な騒ぎが起き始めているらしいとも……。
元々家族だった上に、シャールの人としての意識は十一歳当時のままさほど成長していないので、二人の間には恋とか愛とかそういった感情はまだ発生していないに等しい。例え傍目には十七歳と十六歳のれっきとした青春真っ盛りの年齢であっても。
〈界の存続〉という大きなくくりで見ればではあるが、銀の界もかなり平穏を取り戻し、しばらくならシャールが界を離れても大丈夫そうだという話になり、では次の逢瀬はスティールの誕生日に狭間の界でと言う事に決め、
「とびっきりのプレゼントを用意するからね」
シャールは、少し伸びた銀色のくせ毛を風になびかせながら、意味有り気に微笑んだ。
「あんまり無理しないでね」
いつも銀の界の存続と復興のためだけに走り回っている姿を見て、スティールは心を痛めていた。
シャールにはもう自分の身一つしかないのだ。血縁者は全員死に絶え、不安定な界を存続させるために彼はこの界を離れることは叶わず、昔のようにスティールと共に暮らすことは出来ない。
いつかはもしかしたらスティールの方が銀の界で暮らすこともあるかもしれないが、それはまだまだ先の話だ。
シャールが犬の姿だった頃、リルフィも一緒に三人でよく夜明けと日没を黙って眺めていた。
家から歩いて十分ほどの土手。芝生の上を二十メートルほど滑って遊んだり、下の整地されていない草原で追いかけっこして遊んだりもしたっけ。
十七歳の誕生日を迎える朝、まだ肌寒い初夏の空気の中、闇が薄れ朱と青の混じる微妙な色合いの空を見上げながら、ゆっくりと土手沿いの道路を歩いていく。
たまに早朝出勤者の乗る小型のリニアカーが道路を滑ってゆくが、居住区のはずれであるこの道を通るものは少なく静かなものである。
今日はリルフィもジルファも抜きだよと念を押されたので、不満そうなリルフィを半ば無理矢理ジルファに押し付けて家を出てきた。ジルファとは銀の界で出会ったのだが、何とリルフィの婚約者であるらしい。「自称」とリルフィは主張して譲らないけれど。海のような深い青色の羽と碧の瞳を持つ鳥の姿をしていて、同じように頭の中に話し掛けてくる。姿も銀と狭間では違っているし、彼らの真実の姿はまた別なのかもしれない。
この狭間の界では、生き物全てが生体認識のチップを埋め込まれている。それにより現在地点などは家庭でもすぐにチェックできるし体調に変化があればそれも判るので、いざとなれば文字通り飛んでくるだろうけれど。
「本当にあっちを抜けてきて大丈夫なのかな……」
若干心配なところもあるが、懐かしい景色を噛み締めるように合流予定地点まで殊更のんびりと歩を進めている。
今日は何をして遊ぼうかな?
誕生日がたまたま休日で良かった。学校で皆からプレゼントはもらえないけれど、それよりもシャールと二人で遊んだほうが楽しいに決まっているし、考えてみたら人の姿のシャールとこちらで遊ぶのは初めてなんだから、遊園地に行ったり買い物をしたり、犬だと今まで出来なかった事をいっぱいいっぱいしよう。
期待にはちきれそうな胸を弾ませて、予定していた地点に辿り着いた。
あ、先客がいたのか~……。
明けの明星を見つめているらしき男性の後姿があった。
道路からわずかに下りた辺りに腰を下ろし、川の向こうの地平線を眺めている。
ここ、シャールと私のとっときの場所なんだけどなぁ。
いくら後姿でも、薄暗くて世界が茜色でも、シャールを見間違うはずもなく、スティールはこっそりと溜息をついた。
男性がゆっくりと立ち上がった。身長はシャールと同じくらいらしい。
もしかして今の溜息が聞こえちゃったかしらとスティールは動揺して薄手のカーディガンの前をかき合せた。
そして、振り向いたその男性と視線が合う。
朝焼けで紅を帯びた黒髪がふわりと風になびき、未だ幼さの残るシャールとは違い少し骨ばった顎のラインは細くて、でも表情はこれ以上ないくらいにふわりと優しくて。
「スティール」
記憶に残るそのままの声で呼ばれて、時が止まったかと思った。
会いたくて、逢いたくて。
あなたにどうやって謝ればいいのかわからなくて。
どうやっても感謝しきれなくて。
「ディーン……!!」
気が付いたら走り出していた。