16.
夜になり、ようやくミルスの意識が覚醒した。
そうして気が付く――何か、柔らかいものに頭を乗せている気がする。
ゆっくりと目を開けて行く――見慣れた自分の私室、そのベッドの上だ。
最近は使っていなかったせいか、ベッドの感触に違和感を感じていた。
頭が枕以外の柔らかいものに乗せられている、そんな感触だ。
そして頭上から、誰かの視線を感じていた。
さらに目を開けて、頭上を見上げた。
「気が付いた?」
覗き込んでいたのはリオだった。
そこでようやく、ミルスは自分がリオに膝枕されているのだと気が付いた。
慌てて起き上がろうと腹部に力を入れた瞬間、ヤンクに殴られた傷が痛み、顔が歪んだ。
リオが優しく告げる。
「ミルスの傷は、今日は癒せないわ。大人しく寝ていて」
リオに頭を押さえつけられ、諦めてミルスは身体から力を抜いた。
状況が理解できず混乱する頭を、必死で巡らしていく。
記憶を手繰り寄せ、ようやく現状を理解した。
「俺はヤンク兄上に倒されたのか……。
お前の傷は大丈夫なのか?」
「私の傷は、成竜の儀の外の傷よ。
王宮魔導士に治癒して貰ったから、もうなんともないわ。
でも加護の力は使い過ぎて、今日はもう使えそうにないかな」
「……そこまでは理解できるんだが。
なんで俺は、リオに膝枕されているんだ?
それがさっぱり理解できない」
「なぜかしら。なんとなくそんな気分だったのよ。
それに、私たちは形だけでも夫婦なんだから、膝枕をしてもおかしくはないでしょう?
……それとも、嫌だった? それならすぐにどくけど」
ミルスが慌てて否定する。
「嫌じゃない! 決して嫌な訳があるか!
だがその……重たくはないか」
リオがミルスを覗き込みながら微笑む。
「今日の戦いのキツさを思えば、この程度はなんてことないわ。
――でも、ごめんね。色気のない膝枕で」
ミルスが照れ臭そうに頬を染める。
「色気がない訳があるか。
充分柔らかい。
ヤンク兄上にやられた傷がなければ、思わず手を出しそうな状況だ」
リオが驚いたように口を開けた。
「……『手を出す相手くらいは選びたい』んじゃなかったの?」
「……『選んだ結果がお前』、というのじゃ不満か?」
「……不満とは、思わないかな。
でも、『前も後ろも分からない』んじゃなかった?」
「お前の前と後ろくらい、いくら俺でも見分けは付く。
――その、あの時は言い過ぎた。すまなかった」
「別にいいわ。気にしてないから。
――嘘。本当はずっと気にしてた。
ずっと怒ってた。
でも間違いだったと認めたのだから、許してあげる」
時計が静かに時を刻む音が、二人の耳に聞こえてきていた。
ゆっくり十秒――。
ミルスが小さな声で沈黙を破る。
「……今日も腑抜けた姿をお前に見せちまった。
すまん。これじゃ、いつまでたってもお前に夫として認めてもらう事はできそうにないな」
「あら、今日も腑抜けていたの?
気が付かなかったけど」
「お前がエルミナ兄上たちに叩きのめされているのを、黙って見ている事しかできなかった」
「ヤンク王子とアレミアさんに睨まれていたんだもの。
うかつに動けないのは仕方ないわ。
私の方こそ、あなたからの注文を受けておきながら、それを果たしきれなかった。
恥ずかしい限りよ」
ミルスの目に、悔恨の色がにじむ。
「……俺がもっと早く、アレミアを抑えるように動いていれば良かったんだ。
そうすれば、お前はファラにも勝てていたはずだ。
俺が動くのが遅すぎたんだ」
リオは静かな微笑みを浮かべて応える。
「そうね、確かに遅かった。
でも、あなたはヤンク王子とアレミアさん、二人を相手に負ける事を覚悟してまで、アレミアさんを食い止めると宣言した。
まともに考えたら、蛮勇もいいところよ?
よく決断できたわね」
「お前があれ以上痛めつけられる姿を、見たくなかった。
あの時、あの場で出来る事を必死に考えて出した結論だ。
蛮勇と言われようと、あの決断自体に後悔はない」
「形だけの妻を守るために、勝ち目のない戦いを挑んだというの?」
「夫と認めない男のために、お前だって必死に戦ったじゃないか」
わずかな沈黙が、部屋を支配した。
リオがクスリと笑みをこぼす。
「……その発言、まだ気にしていたのね。
もう私の目の前に、かつての腑抜けた男は居ないわ。
今のあなたなら、私の夫の資格があると認めてあげてもいいわよ?」
「……だがお前はまだ、『リオ・マーベリック』なんだろ?」
「……そうね。私にはまだ、『リオ・ウェラウルム』と名乗るだけの勇気も、資格も、覚悟もないわね」
「資格など、俺がお前を妻として認めた時点で満たしている。
それで充分だろ?」
リオが目を見張った。
円らな赤い瞳が、こぼれんばかりに見開かれている。
「……いつの間に認めていたの?
私はずっと、妻として認められていないと思っていたのだけど。
認めていないから、別の部屋で寝てるんじゃないの?」
「……同じ部屋で寝ていたら、自分を抑えきれないと思ったからだ。
お前に夫と認めてもらう前に、手を出すわけにはいかないだろう?」
リオの赤い瞳が瞬き、頬が赤く染まる。
「……んー、そうね。
さすがにまだ、あなたに体を許す勇気は、私にはないかな。
でも同じ部屋で寝てくれないのは、寂しいと思ってるの」
ミルスの胸中で、愛おしさが膨らんでいた。
目の前の愛らしい少女が妻なのだと、声を上げて自慢したい気分だった。
抱き締めたい衝動があったが、傷ついた体がそれを許してくれなかった。
だがこれほど痛めつけられていなければ、こうしてリオが近くに来ることもなかっただろう。
それも痛いほど理解していた。
複雑な表情になったミルスの顔を見て、リオが小首をかしげた。
「どうしたの? 難しい顔をしてるわよ?」
「ヤンク兄上にやられた傷がなければ、今すぐ手を出していたのに、と悔しがっているところだ。
だがやられていなければ、こんな状況にもならなかったと思うと、感謝する思いもある」
「そんなに、体を動かせないくらい傷が痛いの?」
「兄上は加減をしてくれなかったからな。
腹も頭も痛くてしょうがない。
癒してもらわなければ、数日は後を引きずるだろう。
これじゃあ今日は満足に手を出す事なんて、できやしないさ」
リオはしばらく頬を染めたまま思案をしているようだった。
不意にリオが、膝枕からミルスの頭を下ろした。
ミルスが慌てて声を上げる。
「待て! 手を出すってのは冗談だ! だからまだ膝枕は――」
次の瞬間、リオはミルスと同じ布団に潜り込み、その胸の中にミルスの頭を抱き締めていた。
「膝枕と今の状態、どちらがいいのかしら。
聞いてみてもいい?」
「……今のままがいい」
「そう? じゃあ今夜はこのまま寝てあげる」
「くそ……兄上、やっぱり恨みます。
これじゃあ生殺しだ。
せめてリオの顔を間近で見てもいいか」
「それは駄目ね。
今の私の顔なんて、それこそ見せる勇気がないもの。
大人しく抱きしめられていて?」
「……明日もこうして寝てくれないか」
「それも駄目ね。
明日はあなたの傷を癒してあげる。
そうなったら手を出されてしまうもの。
言ったでしょう? 私はあなたに体を許す勇気なんて、まだないの。
これは私を信じてくれたあなたへの、今日だけのご褒美よ」
「……信じるのが遅くなって済まなかった」
「最後は私を信じてくれた。
それだけで充分よ――ねぇ、明日は同じ部屋で寝てくれる?」
「……手を出さないで居られる自信がない。
それでも構わないか?」
「そう――それじゃあ、寂しいけれどまた別の部屋で寝てもらうしかないわね。
今日だけ、今夜だけは普通の夫婦らしく、一つのベッドで眠りに落ちましょう」
「こんな生殺しの状態で眠れる訳、ないだろうが。
――ああ! やはり恨みます、兄上」
「ふふ……同じベッドで眠りたくなったら、ヤンク王子にお願いしようかしら。
その時はまた、ミルスを痛めつけてもらう事にするわ」
「リオ、お前嗜虐趣味でもあるのか?」
「そんなものは持ち合わせてないわよ。
でも同じ部屋で眠りながら身の安全を保つには、それしか手がないじゃない?
恨むなら、自分の自制心の弱さを恨むことね」
こうして妻は夫の体温を胸に、夫は妻の匂いに包まれながら時間が過ぎた。
部屋にはいつのまにか二つの寝息が聞こえてくるようになった。
柱時計はただ静かに、夜の時を刻んでいた。




