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エリアスの決断

      ◇   ◇   ◇


 あの時の驚きは言葉では言い尽くせない。戦闘中にいきなり艦尾甲板に連れ去られ、私にエリーゼの指揮権があると言い渡されたのだ。つい先日の反乱によって、海尉から一般水兵に降格を受けた身としては、それこそ馬鹿げた話だった。


 私は混乱したのも当然と言える。そしてそれが与えた衝撃は、ガウルの砲撃のよって負った怪我の痛みと一昼夜眠らずに働き続けて蓄積された疲労と睡眠欲を吹き飛ばすのに十分なものだった。


 私は何とか混沌として暴れまわる脳の中を落ち着かせ、情報の整理を始めていった。しかしどう考えても、自分に指揮権があるというのは眉唾だった。


 そして早速それを提言しようとした途中で、私の目にセリアが映った。サーベルとダガーの柄を手に取り、天使のような微笑をこぼす彼女の姿が、だ。


 その瞬間、私は否応なしに理解してしまった。これはセリア・ロングフェローの姦計なのだ、と。私は即座に否定の意を唱えたかった。セリアは嘘を吐いています、私に指揮権などありません、と。


 大体どう考えてもおかしいことだ。戦闘中にいきなり任官する人間がいてたまるか。だが、それをどうやって立証しようというのか。私にはそれが分からなかった。また例えできたとしても、それで状況は好転しなかっただろう。


 その時の私には十分に理解できていたのだ。セリア・ロングフェローの行動力なら、その場にいる全員を斬り伏せても、自分の言葉どおりにしていただろうということが。


 それほどの強い意志を彼女は持っていたのだ。それならば、私が取れる選択肢は、かなり限られたものとなっただろう。


 しかし、私があの時に上げた声は、それだけを理由とはしていなかった。私の中に意志があったのだ。この逆境を跳ね除けたいと強く思う気持ちが。


 私は長年ホレイショー・ニーソン以下の人間だと断じられてきた。子どもの頃から、どれだけ頑張っても、その成果は父のようにはいかず、凡人止まり。


 そのため私の周りにいる人間の視線は、とても冷たく、憐れんだものだった。その屈辱は既に慣れ親しんだものだったが、それで快くなったことなど、ただの一度たりともない。


 だから、私は見返したかった。見返してやりたかった。 父は関係ないとか、私は私だとか、と下手な言い訳をして背を向けるのではない。


 父と向き合い、私に父の子であること以外に何の価値も見出さなかった奴らに、たった一度でいいから、自分の誇らしい姿を見せつける。私は父であるホレイショー・ニーソンをどんな形であれ、超えたかったのだ。


 そのためのチャンスが今、ここにある。そしてそのチャンスが、これから先にあるかも分からない。つまり、これはたった一度きりのチャンスなんだ。


 そう思ったら、私の中に燻り続けていた火が熱を帯びてきた。そしてそこからは、実に簡単に炎が生まれ出た。何故ならば、絶えず薪をくべ続けるセリアが、私の側にいたのだから。

                                                         「我が航海」 エリアス・ニーソン著


      ◇   ◇   ◇


「戦う! 戦闘続行だ!」


 しばしの時間を経て、エリアス様は声高に叫びました。勿論、不利な戦況の中、その決断に至るまで余程の葛藤があったようです。エリアス様の口から降伏という文字すら出かけました。


 ですが、エリアス様は近い将来において、アウェリアの獅子として謳われるお方。その心根には既に勇気が潜在していたのです。しかしそれを嘲笑うかのように、私とエリアス様の耳にダン海尉のかすれきった怒号が耳に入ってくるのでした。


「ふざけるな! ここからどうやって戦況をひっくり返すというんだ! ここにいちゃ救援だって来やしない! ここで無駄に命を捨てるなんざ、間違っている! 分かったなら、さっさと持ち場に戻れ! この出来損ない!」


 先程のローリー海尉とのやり取りの中でピストルに宛がわれた手はそのままです。そしてダン海尉は見るからに激昂状態。


 このままでは激憤のあまり、ダン海尉はピストルをエリアス様に対して抜きかねません。それを危ぶんだかは知りませんが、ローリー海尉はダン海尉を制してエリアス様の前に立ちました。


「ニーソン海尉には、この戦況を覆す手立てはあるのでしょうか?」


 ローリー海尉は落ち着いた声で策の有無を訊ねます。それに対してエリアス様は一瞬ほど目を瞑り、それから目を開けた後に僅かに口角を吊り上げて言い放ちました。


「……策はある。エリーゼが生き延びる手立てはある」


 一番に笑ったのはローリー海尉でした。そしてエリアス様の声を聞き、ローリー海尉の顔を見た他の水兵や海兵たちにも、それは伝わっていきました。


 なるほど、確かにエリアス様の物言いは滑稽なものでした。敵に囲まれ、救援すら絶望的。そこで起死回生の手段があると言われても、単なる冗談としか思えません。彼らが笑うのは当たり前のことだったでしょう。


 しかし、彼らの笑みは嘲りを含んだものではなく、エリアス様の言葉の中に明るい希望と展望を感じ取ったからです。


 暗闇の中に照らされる光。それは夜の中で不安に怯える者たちにとって、先行く道を示す喜ばしいものだったのでしょう。彼らはエリアス様の口調から、僅かにしろ、それを見て取ったのでした。


「ふざけるな! そんなもの、ありはしない!」


 ダン海尉は周囲を見て、がなり立てました。彼は何だかんだと言っても最先任海尉。そこには他者と比べようもないほどの経験を積んでいらっしゃいます。そしてその経験により、この戦いに勝ち目はない、降伏こそが最上の策だと導き出したのです。


 それなのにその答えを、今まで培ってきた経験を、いとも簡単に否定するエリアス様を、ダン海尉は許せないのでした。ですが、幾らダン海尉が悪魔の顔をして、それを迫ってきても、エリアス様はそのまま引き下がることなど、できませんでした。


「だが、このままでは終われない! アウェリアがここで負けてしまったら、エウーロでの立ち居地を失ってしまうのは火を見るより明らかだ。そうなっては、故国に顔向けできない」


「その向ける顔すら失うかもしれないんだ!」


「それでも、このままアウェリアの旗に泥を被せるよりかはマシだ!」


「どっちにしろ、叩き落とされる! それなら被害は少ない方がいいに決まっているだろう!」


「そんなのは分からない!」


 こういったやり取りがエリアス様の本心で行われたかは、分かりません。日頃の態度からは国を敬う気持ちなど窺いもしれませんでしたし、軍に入ることすら厭っていたエリアス様に国に対しての義務を感じるほど殊勝な気持ちなども感じ取れませんでした。


 しかし、エリアス様の言葉を耳にした兵たちは、自身の義務を思い出し、光を失った目から毅然とした態度を取り戻し、ダン海尉を睨むようになりました。 


「この俺が主席海尉だ! この俺にエリーゼの命令権があるんだ! 誰かこの反逆者を捕らえろ! こいつは犯罪者だ!」


 ダン海尉はとうとうピストルを抜き、執念とも言える想いでエリアス様を糾弾しました。ダン海尉の前ではエリアス様は最早軍の規律を乱す極悪人でした。


 場は騒然とします。ですが、誰一人として、エリアス様を捕らえようという人間は現れませんでした。ダン海尉の発言はどこか子どもの駄々を思い起こさせ、それにより主席海尉としての統制力を失わせていたのです。


 エリアス様も、ここでダン海尉の言い分を認めるわけにはいきません。戦闘中での反乱など、裏切りと同罪。それに対しては死という断罪すら許されるものです。故にエリアス様は真っ向からダン海尉を否定しなければなりませんでした。


「エリーゼは勝てる! 俺のためでなくていい! どうかアウェリアのために皆の力を貸してくれ!」


 エリアス様の力強い言葉はどれだけ兵たちの心に響いたでしょうか。甲板にはいた者たちは、お互いに顔を見合わせ、心の内を確認しました。


 そしてエリアス様の意志に呼応しようとしたところで、ダン海尉はとうとうピストルの引き金に指をかけ、それをエリアス様に向けました。


 もうこれ以上の行動は許せないと思ったのでしょう。ダン海尉は何の迷いもなくエリアス様を殺すべく動作に移りました。


「死ねッ!! この出来損ないがッッ!!」


 殺気を多分に含んだ怒声。それが示すものは、まぎれもなくエリアス様の死でした。事実、私がいなかったら、エリアス様の歴史はここで潰えていたことでしょう。しかし、エリーゼにはエリアス様のメイドたるこの私が乗艦していたのです。


 私はホレイショー様のため、そしてエリアス様のために、と身体を鍛え続けてきました。その過程で培った妙技は、ここでこそ冴え渡ります。ダン海尉が引き金を引くよりも早く、私はピストルを持つ彼の右手を、愛用のサーベルで切り落としました。


「ぐぅああッ!!」


 ダン海尉は堪らず悲鳴を上げます。それと同時に空中に鮮血が舞い、甲板を真新しい赤で染めました。


「エリアス様にピストルを向けるなど、言語道断。恥を知りなさい」


 私は甲板に落ちたダン海尉の右手を踵で踏みにじると、厳かに言い放ちました。ダン海尉は身体中に脂汗を浮かせ、痛々しげに顔を歪めます。また吐く息も荒々しく、時間の経過ごとに生命力を失っていくようでした。


 しかし、それでも彼の憎悪のこもった目は依然変わらぬままでした。いえ、もしかしたら前以上の感情が、そこには込められていたかもしれません。彼は出血の止まない手を押さえながら、何とか立ち上がり、その不愉快な顔を私とエリアス様に晒してきたのです。


「殺す……殺してやる。ヒヒッ……絶対に殺してやるッ」


 ダン海尉は薄笑いと共に同じ言葉を何度も繰り返します。そのおぞましい姿には、彼に近寄ることを逡巡させる重く、濃密な、おどろおどろしい空気がまとわりついていました。


 実際、衛生担当の兵を含め、冷静沈着と言われるローリー海尉ですら、ダン海尉の空気に当てられて動くことができませんでした。しかし、私はエリアス様に仕えるメイド。それしきのことで怯むわけにいきません。


 私はエリアス様に相応しい活躍の場所と死に場所を与えなければならないのです。私はダン海尉を始末するべく、血に濡れたサーベルを頭上高く掲げ、一気に振り下ろしました。


 これで邪魔者はいなくなり、エリアス様の指揮はスムーズになる。そんな目算でしたが、結果的に失敗に終わってしまいました。


 ダン海尉は私がサーベルを振り下ろした瞬間、驚くべき速さで身体を動かし、舷縁に駆けていったのです。とはいえ、彼は右手を失った身。走る姿は滑稽なくらい覚束ないものでした。私はその無様な姿を一笑に付し、すぐさまとどめとなる二の太刀を浴びせようとしました。


 しかし、それもあえなく頓挫。私の前にエリアス様が現れ、「やめろ」と叫んできたのです。ダン海尉の抹殺は、エリアス様を主席海尉として周囲に印象付けるための大切な作業。それは決して躊躇ってはいけないことなのです。


 私はそれを一瞬ほどの間に結論づけ、エリアス様の脇をすり抜け、ダン海尉の後を追おうとしました。ですが、エリアス様に邪魔されたその一瞬で、ダン海尉の逃走は完了したようでした。


 彼は敵の砲撃によって崩れた舷縁に身体を預け、「殺しやる。絶対に殺してやる」と呻くように呟き、その身を海に投じたのです。何人かの海尉が慌ててダン海尉の姿を確認しようとしますが、さすがに戦闘中においての海の落ちた人間の捜索に時間は捧げられません。


 「見当たりません」との報告により、ダン海尉の捜索はすぐさま打ち切られました。右手を失っての遊泳など簡単なことではありません。まして、ろくに止血してない状態でのそれです。ダン海尉の死亡は火を見るより明らかなものでした。そしてようやく私は肩の荷を降ろしたような安堵を覚えたのです。


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