還俗(げんぞく)
素山は、今日「記名帳」に書きくわえられた、新しい仏のための経を読んだ。慧明の「阿弥陀経」に似ていたが、書と同じように「下手」なものだ。しかし、素山の心のままの経だった。
「名を書き、それを伝えただけで人はあれほど喜ぶ。おのれの存在をこの世に残し、消えていけるということで。きっと辛かった事も多くあっただろうに、一様に安らかに……」
そう思いつつも、素山は彼らが生きている間に、何か喜びを与えたいということを考える。素山はいつしか「現世利益」ということに腐心し始める様になっていった。
「今人が求めているのは、日々の暮らしからほんのひとときでも、心を軽くしこの海山を離れるほどの大きな楽しみを得る事ではないだろうか。金やものではない全ての人が手にできるものはないのか?」
それは、今で言えば「自由」とか「心の解放」とか言うものだろう。しかし素山の生きていた時代にそんな言葉もまだない。
「俺はもはや僧ではなくなったのかも知れない……」
素山は「記名帳」を閉じた。
「カタリ……」
背中におりょうの気配を感じた素山はようやく経を終いにした。
「梅雪様、いいお湯をいただきました」
「そうか、さっきは手を上げてすまなかったな。おりょう……」
振り返った素山の目には、紅をひいたおりょうが初めて映った。その体は上気する湯気の他に、何ひとつまとってはいなかった。
おりょうの肌はいい匂いがした。それが素山のその夜の感想だった。
翌朝まだ暗いうちに、その庵をひとりの女が出て行った。
托鉢椀に「ビタ銭」を投げ込む代わりに、女は小さな箱を側に置いた。そっと置いたつもりのはずが、「コトリ」と思いのほかに大きな音をたてた。女は息をひそめたままそっと素山の寝息を確かめると足音を忍ばせて月明かりの中、仲間のもとにむかった。「池中屋」を襲い、金を奪うと野党の仲間と東国へ旅立つ。通い慣れた「庵」をもう一度だけ振り返ると、女は思い切って駆け出していった。
おりょうの役目は終わっていた。今日の法事の僧は「高乾院」から招く予定だと「池中屋」の主人から耳にしていた。おりょうは素山の口から聞いたことのある、素山の師に会おうと思っていた。
おりょうの役目は終わっていた。今日の法事の僧は「高乾院」から招く予定だと「池中屋」の主人から耳にしていた。おりょうは素山の口から聞いたことのある、素山の師に会おうと思っていた。
「梅雪様を破門させるわけにはいかない……」
庵には「在家僧」がひとりまだ眠っている。托鉢椀の側にはおりょうが指ですくい取った跡の残る、素山のくれた紅が残されていた
おしゃべりのかまどうまもこの夜ばかりは気を回して早寝をしていたのに違いない。
中津の藩士「石坂新八郎」の嫡男でありながら、幼くして出家をし、以来名乗ることのなかった名は「新蔵」。「素山道立和尚」こと「高乾院」の僧、梅雪は行き倒れの人々に名を送り続けていた。そして最後に自分の名前をこの夜、再び手にしたのだ。