夜盗蛾
素山、いや新蔵は鳥のさえずりに既に日が昇っているのに気付いた。
「なんと、寝坊などしてしまった。うむむっ……」
心なしか頭が重かった。それもそのはず、野党に伝わる秘薬をおりょうはこっそり試してみたのだ。新蔵が目覚めた時、池中屋にちょうど慧明が着いた時だった。入り口まで出迎えたのはおりょうだった。しかし慧明と目を合わすことをためらうおりょうだった。
おりょうは二人に茶を運んだ際、慧明が高乾院を「閉門」したことを主人に話しているのを耳にした。
「では、素山、いえ梅雪様には戻る寺がなくなったということでしょうか?」
思わずおりょうは慧明に尋ね、口を慌てて塞いだ。
「おやおや、ここにもあやつを知っておるものがいるとは……」
「これ、おりょう失礼だぞ。慧明様もよくよく考えられた末のこと。それに素山というのは、山のイノシシ穴に住む『山岳坊』だというではないか。とっくに破門されておるわ、慧明様そうでございましょう?」
しかし、慧明は笑いながら答えた。
「破門するもなにも、寺の門はすでに用をなしておらん。それにな、娘さん。もともとあやつを坊主にするつもりはない、あやつの父から預かっていたのだ、こんな娘さんにまで知られている梅雪。いや『素山道立和尚』か……。はははっ、梅雪があのまま僧になれば、きっと立派な僧になるだろうて」
「これはまた、随分弟子を買っていらっしゃることですな。私も一度会いたいものです」
二人の前から去ったおりょうは、すこし心が軽くなっていた。しかし、今夜、池中屋を襲うことに変わりはない。おりょうが頭の娘であることも、首尾よく仕事が終わればこの地を離れるということも今更変えることはできない。法事が終わり、心づけを受け取った慧明は、帰り際におりょうに言った。
「あいつの名は、新蔵という。おりょうさんか、末長く面倒を見てやってくれ」
おりょうはそれを聞くと、耳たぶが、かあっと熱くなるのを感じた。
今夜は法事のために用心棒たちにも酒が振る舞われた。マサの言う「腕の立つ藩士ずれ」が一人、その中にいた。名を吉川市ノ介と言う、「芸州(浅野)の藩士」という触れ込みだ。腕の方も相当なものらしく、最も長くここで雇われていた。その他は言わば数合わせの者が二人、彼らはおりょうに酌をされながら上機嫌だった。しかし、吉川だけは、早々に盃を置いた。
「あいにく、下戸なもので……」
深夜、厠におりょうが出て行く。その時の灯りが「蔵破り」の合図だ。吉川だけには匕首マサも手こずるかもしれない。ひょっとしたら? と、おりょうは思った。おりょうの合図に仲間たちが一人また一人と塀を超える。それをを見ているうちに、それは誘蛾灯に集まる蛾のようにおりょうには思えてならなかった。
「私もその一匹に過ぎない……」
戸を蹴破る音が響いた。厠から出てきたのは、野党『闇烏』の頭の娘、またの名前を「夜盗蛾のおりょう」だった。




