プロローグ:今度こそ、ぬくぬく長生きしてやる
白い天井。
ツンと鼻をつく消毒液の匂い。
規則正しく音を立てる心拍モニターの電子音と、点滴の滴下を見るだけの静かな時間。
それが、前世における橘悠斗の人生のほぼすべてだった。
生まれつき身体が弱かった悠斗は、幼少期から病院のベッドの上で人生の大半を過ごした。
友達がグラウンドで走り回っている時も、甘酸っぱい青春を謳歌している時も、悠斗は白い部屋の中で本を読み、テレビを眺め、ネットの海を漂うことしかできなかった。
二十歳の成人式を一ヶ月後に控えた、あの日までは。
(ああ……やっと自宅療養に切り替わって、これから少しずつ外の空気を吸えると思ったのになぁ)
不運としか言いようがなかった。
隣の住宅で起きた大規模な都市ガス漏れ。そして、何らかの引火による突如の大爆発。
激しい衝撃と熱風が悠斗の部屋を飲み込み、思考が真っ白に染まった。
痛みを感じる暇すらなく、悠斗の短い人生はあまりにも呆気なく幕を閉じたのだ。
『神様……もし、もし次の人生があるのなら』
意識が途切れる寸前、悠斗が心から祈ったのは、世界を救う英雄になりたいとか、絶大な魔法を使いたいなんて大層な望みではなかった。
『今度こそ、病気もしない健康な体で……怪我も事故もなく、温かい部屋でぬくぬく長生きさせてください……』
ただそれだけが、二十年近く病床に縛られ、最期に爆発事故で命を落とした少年の、心からの切実な願いだった。
◇
「ふはぁぁぁあ……! よく寝たぁ……っ!」
朝日が差し込む木漏れ日の中、少年——ルーカス・フォン・バルデンは、ベッドの上で大きく背伸びをした。
関節が痛まない。肺いっぱいに空気を吸い込んでも咳き込まない。
頭が重くもなければ、熱っぽさもない。
両手をグッパーと開閉し、自分の皮膚の血色の良さを確かめる。
「ううん、素晴らしい……! 今日も今日とて、僕は健康そのものだ!」
神様は確かに願いを聞き届けてくれたらしい。
前世の記憶を持ったまま生まれ変わったこの異世界で、悠斗改めルーカスは、アルカディア王国の北東辺境に位置する「バルデン男爵家」の次男(14歳)として育っていた。
生まれ変わってからの14年間、ルーカスは風邪ひとつひいたことがない。
前世では叶わなかった「五体満足で健康な身体」を手に淹れたのだ。
鏡に映るのは、やや柔らかい栗色の髪と親しみやすい丸顔を持った、ごく普通の健全な14歳の少年である。
「よしっ、今朝も命に感謝して……体操から始めよう!」
ベッドから跳び降りたルーカスは、前世のうろ覚えな知識を頼りに編み出した「ラジオ体操第一(風ストレッチ)」を開始した。
「いーち、にー、さーん、しー……うん、体幹をしっかり意識して、急に激しい運動をしないのが長生きのコツだからね。怪我はいかん、怪我は」
ルーカスの人生における絶対命題。それは「無病息災・安全第一・長生き」である。
せっかく手に入れた健康体なのだ。病気はもちろん、刃物の傷も、高いところからの転落も、ましてや火遊びや爆発物の危険なんて絶対に御免である。
ゆったりと腕を振って深呼吸をしていると、扉が優しくノックされ、ぬっと背の高い青年が入ってきた。
「おはよう、ルーカス! 今朝も例の『身体を健やかに保つ体操』かい? 弟想いの兄として、僕も混ぜてもらうよ!」
爽やかな笑顔で現れたのは、3歳上の兄・カイル(17歳)だ。
金髪碧眼の男爵家長男であり、真面目で優しく、弟のルーカスを心から可愛がってくれている自慢の兄である。
「おはよう、カイル兄さん。いいよ、無理のない範囲で身体をほぐしてね。急に力を入れちゃダメだよ? 脱力脱力」
「ふむっ、『ダツリョク』だな! よし、ルーカスの教え通りに……!」
カイルはルーカスの横に並び、真面目すぎるほどの真剣な表情でラジオ体操を真似し始めた。
脱力と言われているのに、動きのキレが凄まじい。腕を横に振るだけで「ヒュッ、ヒュッ」と鋭い風切り音が部屋に響いている。
(うーん、カイル兄さん、相変わらず力みがないというか……すっごい滑らかな動きだな。さすが騎士を目指してるだけあるなぁ)
ルーカスは「兄さんは運動神経がいいなぁ」と能天気に感心していた。
彼には見えていなかった。カイルが毎朝このラジオ体操をフルスロットルで実践し続けた結果、全身の無駄な力みが完璧に抜け、「あらゆる攻撃を脱力で受け流し、体幹の一撃で敵を粉砕する無敵の剛剣士」へと着実に覚醒しつつある現実に。
「ふう、実に良い汗をかいたよ、ルーカス! 君の発案する鍛錬(体操)は、身体の隅々まで血が巡る心地がするね!」
「でしょう? 健康が一番だからね。さあ、朝ごはんに行こう兄さん!」
◇
バルデン男爵家の朝食は、いつだって温かく賑やかだ。
ダイニングルームには、当主である父アロイス、母エレナ、兄カイル、ルーカス、そして末の妹であるリリィ(10歳)が揃っていた。
「ルーカス、今日も元気に起きてきてくれて嬉しいよ。うむ、男爵家のご飯は美味しいぞぉ」
お腹の出た優しそうな父アロイスが、ニコニコとパンを頬張る。
「ええ、アナタ。ルーカスが健康でいてくれるだけで、私は毎朝幸せですわ」
おっとりとした母エレナが、温かいハーブティーを注いでくれた。
バルデン領は、王国の中でも歴史だけは古い極小の辺境領地だ。
古代の遺構である立派な水路や石畳の街道はあるものの、これといった特産品もなく、細々と平和に暮らしている。だが、家族の仲はすこぶる良い。前世で孤独な入院生活を送っていたルーカスにとって、この家族との団らんは何物にも代えがたい宝物だった。
「お兄様! お兄様! 今日のお召し物もとっても素敵ですわ!」
ルーカスの隣にちょこんと座ったのは、10歳の妹リリィだ。
天使のような金髪のツインテールを揺らし、キラキラとした瞳でルーカスを見つめてくる。ルーカスを心から崇拝している、重度のブラコン妹であった。
「ありがとうリリィ。でも、朝晩はちょっと冷え込むからね。リリィも羽織るものを一枚多く着て、風邪をひかないようにするんだよ?」
「はいっ! お兄様の仰る通りにしますわ!」
リリィは感激したように何度も頷くと、スカートのポケットから小さなメモ帳とペンを取り出し、さらさらと何かを書き込み始めた。
(ん? なんだろう、最近リリィはよくメモを取ってるなぁ。勉強熱心で感心感心)
ルーカスは微笑ましく妹を見守りつつ、出された朝食のスープに口を付けた。
美味しい。素朴で優しい味だ。だが……前世の「当たり前」を知っているルーカスとしては、どうしてもふとした瞬間にポロッと本音が漏れてしまう。
「はぁ……美味しいなぁ。でも、朝起きてすぐ冷たい水で顔を洗うのだけは、冬場は特に体に毒なんだよねぇ……」
「ルーカス? 何か言ったかい?」
父アロイスが首をかしげる。
「あ、ううん! なんでもないよ父さん。ただ『ひねったら温かいお湯が自動で出てくる蛇口』とかあればいいのになぁって、ちょっとボヤいただけ。わざわざ薪を割ってお湯沸かすの、使用人さんたちも大変でしょう?」
ルーカスにとっては、前世の家庭にあった「温水水道」を思い出しただけの、単なる独り言だった。
だが、その言葉を聞いた瞬間——ダイニングの空気がわずかに変わった。
「「「……ひねったら、お湯が出てくる……!?」」」
家族全員が固まる。
この世界には、立派な石造りの水路網は存在する。しかし、それを屋敷の中に引き込み、魔法や熱で温めて配管を通すという応用技術が存在しなかった。水は外の水汲み場から汲んできて、薪で沸かすのが「世界の常識」だったのだ。
「蛇口を……ひねるだけ……? 薪を使わずに……?」
カイル兄さんがフォークを止めてブツブツと呟く。
「ルーカス……それは、魔法の術式か何かなのかい……?」
父アロイスが目を丸くする。
「え? やだなあ、ただの思いつきだよ。水冷の魔石と火の魔石をうまく組み合わせてさ、パイプの中で瞬時に温められたら楽だなぁって思っただけ! そんなの作るの無理無理!」
あはは、とルーカスは笑い飛ばした。
前世のガス給湯器の仕組みを大雑把にイメージしただけの妄想だ。この世界にそんな便利な魔導具があるわけがない。
……しかし。
カリカリカリカリカリッ……!
ルーカスの隣で、猛烈な勢いでペンを走らせる音が響いていた。
妹のリリィである。彼女の瞳は、まるで夜空の星のように眩しく輝いていた。
(す、すごいですわ……! お兄様はまたしても、この世界にない『神の天啓』を口にされたのね……! 『水と火の魔石の二重循環による瞬間温水供給システム』……! なんて素晴らしいご発想なのかしら!!)
リリィのメモ帳には、ルーカスの適当なボヤキが、解釈を何倍にも膨らませた凄まじい「技術仕様書」として記録されていく。
「お兄様! 私、今日はお友達と街にお出かけしてきますわね!」
「ん? うん、気をつけてねリリィ。車に……じゃなくて、暴走した馬車には気をつけるんだよ?」
「はいっ! お兄様のありがたいお言葉、街のみんなにも教えてあげなくっちゃ!」
リリィはメモ帳を大事に胸に抱え、天使のような笑顔で食堂を跳び出していった。
(ふふ、可愛いなぁ。街の友達とお絵かきでも見せ合うのかな?)
ルーカスは温かいハーブティーをすすりながら、平和な日常に深くほっこりとした息をついた。
「ああ……平和だなぁ。今日も怪我なく、病気なく、ぬくぬく温かいお部屋で長生きしよう」
ルーカスは知らなかった。
この時、妹のリリィが持ち出した『ルーカス語録』が、街でスランプに陥っていた一人の「追放された錬金術師」の目に留まることを。
そしてその男が「な、なんだその神の如き理論はぁぁぁ!?」と雷に打たれたように狂喜乱舞し、このバルデン男爵家へ猛ダッシュで押し寄せてくることを。
ただ健康にぬくぬく生きたいだけの少年の思いとは裏腹に、世界を揺るがす「爆速領地発展」の歯車は、すでに誰も止められない勢いで回り始めていたのである。
「ここまでお読みいただきありがとうございます!『続きが気になる!』『ボヤキ生活を応援したい』と思ってくださったら、画面下の【ブックマーク登録】や、【評価の★★★★★】をポチッと押していただけると、執筆の凄まじい励みになります!どうぞよろしくお願いします!」




