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地球の大きさ

フェルディナンド・マゼラン

ヨーロッパ側の視点から書かれた『歴史』では、<最初の世界1周>の栄誉に輝いている。

兎も角も、マゼラン艦隊の生き残りが出発地に戻ってきた時、

記録されている限りでは、最初の<世界1周>が成立した。

そして、世界は『地球』である事が認識された。


*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*


それでは「日本史」では、どうだろう?


例えば「大航海時代」に日本人も参加していた時代も有った。

そして、日本とヨーロッパを往復した日本人も居た。

戦国大名の、例えば大友宗麟とか伊達政宗とかが、ヨーロッパに使節を送った、

と記録されている。

だが「往復」である。

行きと帰りは、おおざっぱには同じコースを通り、地球の反対側を回って来たりはしなかった。


そして「鎖国」の時代が来る。


*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*


「津太夫1行」なる漂流者たちが<世界1周>を体験した、最初の日本人だという説が在る。


(鎖国時代だから当然に)日本近海で遭難した彼らは、当時のロシア帝国の領土で救助され、

(日本との貿易と言う思惑が在った)ロシア側によって送還された。


1世代だけ早く、同様の体験をした大黒屋光太夫に比較すれば、有名では無い。

「日本人として最初の<世界1周>」と言う評価が、1般的とも言い切れ無い。


それは「津太夫1行」が「自主的」では無かったからだろうか。

切欠は「漂流」だった。救助された後は、ロシア側に「運ばれて」行った。

光太夫はロシアの帝都と日本との間を「往復」する様に、ロシア側に運ばれたが、

偶々(たまたま)津太夫1行が送還される時、ロシア海軍が

「ロシア人による最初の<世界1周>」に挑戦しようとしていた。

「その」結果に過ぎ無い、と過小評価されているのでは。


*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*


ならば「自主的」に<世界1周>を実行した、最初の日本人は誰だろう?

ここで言う「自主的」とは、マゼラン艦隊の様に「自力」とまでは言わない。

「手段」に限れば、すでに存在する公共交通でも好い。

正し「その」手段を選択したのは、<世界1周>と言う「目的」のために、

自分の意志で選択したのであり、

「世界を1周しよう」と言う、自分の意志で旅行した日本人である。


当然ながら「開国」の後で無ければ困難だ。

この場合、有力なのが『万延元年の遣米使節団』だろう。


咸臨丸で福沢諭吉や勝海舟が太平洋を横断、往復した事で有名な、この使節団だが、

咸臨丸は言わば「スペア」だった。

使節の『本隊』は、米国側が提供した軍艦で太平洋を横断、

パナマ運河開通前の地峡鉄道で大西洋へ、そしてワシントンD.C.へと到着する。

そして、あらためて米国側の提供する軍艦で、喜望峰を回って帰国した。


繰り返すが、冒険ヨットとかの様な意味での「自力」では無い。

この場合、交通手段は、繰り返すが「手段」であって、そうした「手段」を選択してまで、

「自主的」に1周する目的があったかが、問題なのだ。


そして「この」使節には目的が在った。

また、往復と言う選択肢も在った筈だ。しかし「世界」を回って返る事を選んだ。

そして、日本人は地球と出会った………。


……。


…やがて、明治時代。

再び、ワシントンD.C.を目指して使節団が太平洋を渡った。

この『岩倉使節団』は、最初の「条約改正」と言う目的そのものは挫折した。

ならば、と目的は切り替えられた。「挫折」の原因を求めるために。

どんな「国家」を造り上げれば、幕末の「不平等条約」を「平等」に出来るのか、

その「答え」を捜し求める旅に。そして「答え」を求めて、ヨーロッパを旅した。


見るだけのものを見て、スエズ運河を通り帰国する。

それは、もう完全に「自主的」な<世界1周>の旅だった。

その時、地球は小さく成って居た。

マゼランや津太夫1行の時代は無論、“万延元年”に比較してすら、小さく成って居た。

ただ1周するだけなら、80日間で可能な時代に成って居た。

それを「彼ら」は自分で体験したのだ。


*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*


『岩倉使節団』の<世界1周>は、

明治4年11月12日(1871年12月23日)~明治6年(1873年)9月13日。

1方、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』は、

1872年10月2日~12月21日に設定されている。


*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*・・*


帰国した「使節団」を迎えたのは、隣国、韓国との外交問題を巡る主戦論だった。

この時、強硬論や急進論を唱えたのが「留守政府」であり、

慎重論を唱えたのが「使節団」の参加者や「他の用件」で海外を視察して来た者

あるいは「海外組」と派閥を同じくする者、だった、という2分は乱暴だが、

ある程度は近似している。

それだけに「この」論戦の中で、こう言いたかった者も居たのでは無いだろうか。


「ならば、その目で『世界』を見て来れば好かろう。私の言う事も理解出来よう!」

そう、彼らは見て来た。

「ただ1周するのみならば、80日しか要しない」

そして体験した。

「地球」は、もう「それだけ」の大きさでしか無い事を。

御意見、御感想をお待ちしております。

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