200,翡翠色した星屑の
呼ばれた、気がした。
聞こえてきた声の判別はできず、気のせいで片づけてもおかしくないほどの声量で。誰が呼んでいたのかわからない。それでも、呼ばれた理由はわかる気がする。
彼と引き合わせてくれるため、間に合うようにと教えてくれたに違いない。荒唐無稽だと笑われてもいい。でたらめでも思い込みでも、彼と会えたのだから。
ラスターは彼を呼ぼうとして、開きかけた口を一旦閉じる。
呼んではいけない。その名はもう、彼の名ではなくなってしまった。賢人を剥奪され、星命石も身分証も失った彼は、もはや占星術師ではないからだ。
名前はその人を表す言葉。存在を認める呼称。名前をなくしてしまった彼を、呼ぶことはできない。彼を彼として呼ぶ名を、ラスターは知らなかった。
「もう、行っちゃうんだね……」
「ああ。これ以上留まる必要がない」
理由なんていくらでも作れただろうに。どんなに馬鹿らしくても、押しつけがましくても、なんだってでっち上げられた。
彼がそうしなかったのは、留まる意志が彼にないからだ。
仮の名しか持たず、就いていた地位は剥奪され、預かった星命石も元の持ち主の手に戻された。地位を失い、名前を置いて、何者でもなくなった彼はどこかへ行ってしまう。ラスターが想像していたとおりに。
わかっていた。彼は誰かとともにいることを望みはしないと。彼という存在が証明できないことを理由に、孤独でいる道を望むのだ。誰の手も、どんな力も借りず、たった一人で生きていくのだと。
生きてさえいてくれるなら。彼が諦めずにいてくれるなら。それだけでいいと思いもした。
ラスターは彼と目を合わせる。
いつも見上げていたこの高さ。開いている身長差は、座ったときには小さくなり、普段よりも近づけた。ラスターを呼ぶ低めの声。笑うと和らぐ目元。いつだって遠くを見ていた星空色の目。人に言えぬ思いを背負っている大きな背中。彼が開く口はときに厳しく注意し、叱責し、あるときはからかい、感謝を告げて。彼が向ける視線は、どんなときでもラスターの目と合わせてくれた。
シェリックと呼ばれていた男性。彼が賢人だったから、占星術師だったからそう呼んでいたわけではない。ラスターにとっては唯一、彼こそがシェリックだった。彼がシェリックではなくなったのなら、別れを告げなければならない。それは自明の理なのだから。
「お母さんたちの星命石、どんな色と形だったか知ってる?」
「ああ、覚えてる。ノチェの石はずっと借りていたからな。おまえにも見せただろう?」
頷いたラスターを認めると、彼はちらと視線を逸らす。誰を見たのかラスターにもわかった。ラスターでないなら、そこには一人しかいない。彼が借りていた石の、本来の持ち主しか。
「なんだ? 名残惜しくてもやらんぞ?」
「そうじゃない」
冗談とも本気とも取り難い。腰についている石を隠すようにひねられた身体。果たしてどちらを意を示すのだろう。
「レーシェは青い耳飾りだったな」
「うん」
そのとおりだ。
レーシェ──ラスターの母親であるリリャが身につけていたのは、海のように深い青の石。彼がノチェから預かり、決して手放さずに持っていたのは、満月のような黄の石。
ラスターは首元から紐を引っ張り出す。新しくなった革紐が待ちわびていたかのようにするりと出てきた。先端に下がっているのは、故郷の森を思わせる緑の石だ。
前にもこうして彼に見せた。気づかずなくしていた石を彼から渡されたこともあった。石をくるむ銀の細工は密度を増して、より厳重になった。あのときとは違い、欠けていない石に変わった。
「ボクの星命石。前に、あなたが教えてくれた東国の言葉で、翡翠色って言うんだって」
「緑だからな」
慣れない音を口の中で転がしながら、ラスターは説明する。
東の和国。
かの国には、不思議な響きのする言葉がある。初めて口にする語句であっても、どこか懐かしさを感じさせるような、柔らかい雰囲気で包んでくれるような、そんな空気を漂わせる。耳に馴染みが良いのは、真新しい和国の世界観を感じられるからだろうか。思わず口に出したくなる気配がする。
和国の言葉は、祖母と過ごした頃をラスターに思い起こさせる。楽しくも楽ではなく、ときに背筋が伸びるような、そんな日々を。
きっと幸せだったのだ。あのまま過ごしていても、幸せに暮らしていたと想像がつく。
けれど、ラスターは出てきてしまった。母親を探すために、祖母がくれた温かさから離れてきてしまった。
家から離れたことを後悔してはいない。家を出てこなければ、最果ての牢屋に行かなければ、彼と会うことはなかった。三年以上ともに旅をしながらも、占星術師という彼を知ることもなかった。母親との再会も、父親との邂逅も、果たせないままだった。
気づいてほしい。
彼がここにやって来た理由も経緯も、彼だけでそう決めたからではない。
結果として目的地がアルティナとなったのは偶然かもしれない。けれど、ラスターはここまでやって来た。人質にされたからではない。彼が脅しに屈したからでもない。いずれは戻ると彼が話したから。ラスターが一緒に行くと決めたから。
それも全て、リリャとノチェという二人がいたからだ。二人の娘であるラスターだけではない。二人と関わってきた彼もいたからだ。
「リリャとノチェが出会わなかったら、ボクは産まれてこなかった。二人の背中を見てきたあなたがいたから、今のあなたがある。だから、似てるんじゃないかなって」
リリャとノチェ。ラスターの両親。二人が持つ、青と黄の星命石。双方の色が混ざり合えば緑に変わる。ラスターが持つ、緑色の星命石へと。
二人がいたから、今の彼もここにある。偽物の薬師でしかなかったラスターと、地位も名前も失った彼と。二人でようやく一人前になれるのではないかと考えるのは、ラスターの勝手な想像だ。そうだったらいい。ラスターはまだ、半人前にさえも届いていないのだから。
けれど、半人前未満でしかなくとも、ラスターにも繋ぎ止められるというなら。
「だから、あなたに持っててほしい」
ラスターは彼の眼前で左手を開く。落とさぬよう、握りしめていた記章を見せるために。
それは手の中に容易く隠せてしまうほど小さい。ラスターが初めて目にしたときには絵画を守る枠にも見えた。しかし、中央に収められているのは絵画ではない。ヒザクラの花くらいに小さな半円の、緑石だ。
物言わず眺めていた彼の目が、大きく見開かれた。
「おまえこれ、もしかして……」
ラスターは右手でもう一度、革紐をつまみ上げる。つい先刻見せたばかりの装飾品が、持ち上げられて小さく揺れる。片割れはここにいると。
「ボクの星命石。どのみちもうすぐ割れちゃうって言われてたし、ふたつにして、加工してもらった」
ラスターが首から下げている星命石は、完全な球体ではない。割れてしまったのではなく、ラスター自ら割ってほしいと所望した。ここには半分の大きさの石しかない。残り半球の星命石は、左手に乗せている記章へと埋め込んでもらった。彼の星命石にしてもらうために。
絶句したまま動けずにいる彼の右手を取り、ラスターはそこに記章を置く。ラスターより大きい彼の手の中で、記章が安心しきったように収まった。
記章を眺めていた彼の表情は晴れないままだ。渡された位置から動かさず、彼に躊躇いを生ませている。
「──悪い、これは受け取れない。俺には受け取る資格がない」
手のひらに乗せられたまま、記章は彼から遠ざけられた。近づけてはいけない。近づいてもいけない。彼自身が距離を取って遠ざかる。
ラスターは記章に手を伸ばさず、代わりに彼をじっと見つめた。彼はラスターを見返してくる。静かな攻防戦が繰り広げられたのは、ほんの僅かな間だった。
「あなたはもう、シェリックじゃない。だから、呼んじゃいけない」
「ああ」
彼をシェリックと呼んではいけない。シェリックでも、ディアでもない。彼がどちらの名で呼ばれることも望んでいない。
ラスターは息を吸う。選択肢がふたつだけだと、誰が決めたのだ。
「他の名前だったら呼んでもいい?」
「他の名前?」
訝しむ彼へ、ラスターは急いで言葉を重ねる。
「たとえば、ヒスイ、とか」
「──ヒスイ?」
「そう」
ラスターは人差し指で記章を示した。
「『ヒスイ』」
記章ではない。指差したのは、中央に収められた石だ。石の色を表した東国の名称。翡翠色。
シェリックであった彼に別れを告げて、シェリックではなくなった彼に出会うために。彼が呼ばれていた名のどちらも彼のものではなくなったのなら、新しい名があればいいのではないか。
他の石ではいけなかった。この石でなければならなかった。ラスターの星命石という意味合いではなく、リリャとノチェ、二人の思いが込められたこの石でなければ。
星命石は贈る人へ幸せを願う石だ。地上で生まれた命が再び空に還るまで、授けられた命が健やかであるようにと。星の命が宿り、新しく生まれる命へと贈られる石。シェリックではなくなり、新しい命を生きていく彼へ託す、祈りの石だ。
「あなたの星命石がないなら、この石をあなたがあなたである証にしてほしい」
受継と比べたらお粗末もいいところだ。賢人が持つ立派な身分証とは雲泥の差がある。ユノのような技術を持ち合わせてはいない。用意できたのは石と、鉱石学者見習いの手だけ。けれどこれが、今のラスターが彼にできる精一杯だ。ラスターが彼を繋ぎ止めようとして思いついた、唯一の方法だった。
「俺に渡すことで、おまえに利点はあるのか?」
「あるよ。もうひびが入っちゃってたんだもん。割れる心配、しなくていいでしょ?」
ひびが入ったラスターの星命石は、いつ割れてもおかしくなかった。
今か今かと不安で目も離せなくなってしまうよりはと、真っ二つに割って加工してもらった。いつ割れるか懸念を抱き続けるくらいなら、いっそのこと割ってしまえばいい。待つだけなのは、もう飽きてしまった。
「悪いが受け取れない。情けない話だが、今の俺にはこの石ひとつが重い」
「当たり前だよ。人の命が、軽いわけないじゃん」
強く言い返すと、面食らったような顔をされた。
名に託された願いを、どうして軽いなどと思えよう。石に秘められた祈りを、どうしてないがしろにできよう。
たかが石、されど石。誰もが持っているからと言って、軽々しく扱ってはいけない。ここにあるのは小さな石ひとつ。伝えきれぬ思いは石に込めた。星命石は、その人がその人であるようにと願われた証なのだから。
「今のあなたじゃなくたって、あなたはずっと知ってたはずだよ。星は、亡くなった人の命だもの。亡くなった人が空で瞬いてるなら、それに負けないくらい生きて、輝くんだって。占星術師だからじゃなくて、星を見てきたあなただったら、命の重さも知ってるでしょう?」
病気も怪我もしないように。立派に育つように。幸せであるように。
産まれたばかりの命に与えられる星命石は、贈る人の思いが込められている。似通ってはいても、どれひとつとして同じ願いはない。
彼が彼であるように。彼としていられるように。借りものの石ではなく、偽りの名ではなく。不確かな存在でもなく。ラスターがこの石を贈られたときのように、今度はラスターが彼に願おう。シェリックではなくなった新しい彼に、ラスターなりの願いを込めて。
多くは望まない。ただひとつ、これから先も彼が生きていてくれるようにと。
「あなたは諦めないって言ってくれた。なんでもかんでも諦めたりしないって。前よりはそう思えたって。ケド、ボクは──」
でも、それだけじゃ足りない。傲慢なラスターの願いはもっと、もっと先にある。
震えそうになる声を堪えて、拳とみぞおちに力を込める。
「ボクは、傍で知りたい。あなたの隣にいるのはおこがましいかもしれないケド、あなたの近くで見てたいよ。だから、あなたと一緒に行きたい」
連れて行ってなんて言わない。言いたくない。そんな許可はいらない。これはラスターの意志だから。彼の傍らにいたい、彼と生きていきたい、ラスターの願いだ。
ため息よりも深い吐息がこぼされる。肺のみならず、身体中の息を吐いたみたいに。彼は、空いていた手で顔を覆い、ラスターから顔を背けた。
「……どうして、おまえはそう……」
「ボクだって、諦めたくないコトはあるよ」
この手で触れられるなら。この手が届くなら。まだ、できることがひとつでもあるのなら。
「おまえに勝てる見込みはないな」
「……身内贔屓だろ」
彼が呻く間ですら、ラスターは目を離さずにいた。ひとときでも視界から外してしまったら、今度こそ本当のおしまいだと思っていた。
──高望みしないなんて嘘だ。生きているなら会いたくなってしまう。声を聞きたくなってしまう。会いたいと願ってしまう。あの親にしてこの子あり。やはりラスターはリリャの子だ。狂おしいほど激する思いはなくとも、傍にいたいと願ってしまうのだから。かつてリリャが、ノチェにそう望んだように。
「俺には過ぎた名前だな……」
「そんなコトない」
「二人の背中を見てきたからヒスイだなんて、立派過ぎるんだよ。そんな大層な名前を考えてこなくたって良いだろう」
彼の顔を覆っていた手が外される。苦笑する彼に、ラスターは何も言えなくなった。
王宮に来てから、何度この笑顔を見てきただろう。どこか諦観しているような、傍観者でいるだけのような、彼自身は決して当事者ではないような。ラスターは、彼にどうしてこんな顔しかさせられないのだろう。こんな表情で笑ってほしくないのに。
「まだそんな世迷いごとを口にするのか」
「少なくとも不平じゃない」
──ああ、どうしたって彼は、ラスターとともにいることを望みはしない。存在を証明できないことを理由に、孤独でいようとするのだ。そのために、名も、地位も、星命石も、全て失ったのだから。自ら手放して、取り戻そうとせず、置いていこうとしているのはそのためだ。彼一人で生きて、一人きりで朽ちていくために。
ラスターに、彼を引き留めることはできない。この手も、声も、心も、届かないどこかへ行ってしまう。
一歩退いて、見送るだけでいい。口を出さず、達者を願えばそれでいい。ラスターが彼にできるのは、もはやそれだけだ。
「ラスター」
下がる足を逡巡させていると、彼が呼びかけてきた。
「名と星命石をくれたこと、感謝する。ありがとう。俺にはもったいないくらいの餞別だ。だけどな、名前は一人じゃ呼べない。名乗り、呼ばれてこそ、その存在を認知される」
真顔の彼は何を言おうとしているのだろう。ラスターは曖昧に頷いた。
彼の右手が握り込まれる。彼の傍へと引き寄せられる。
「俺にこの名前が馴染むまで、おまえが呼んでくれるか?」
確かに受け取ったと、いわんばかりに。
「それって……」
ラスターは今、都合の良い白昼夢でも見せられているのか。気休めに言われているだけか。それとも──
答えを求めて彼を見上げる。懇願したのを感じ取られたのか、彼が眉尻を下げる。白旗を振って、降参したとばかりに。
「俺が諦めないでいられるか、生きていけるか、傍で見張っててほしい」
「──そんなの、簡単だよ」
碌すっぽ考える間もなく、口をついていた。答えは初めから、ここにあると。
「だって、あなたが諦めたって、ボクが絶対諦めない」
この手を伸ばしてもいいのか。伸ばしてつかんでもいいのか。つかんだ手は振り払われずにいられるのか。今度こそ。
「一緒にいても、いいの?」
抑えていた声が震える。自信のなさが表れてしまう。弱いままではいけないのに。彼に追いつけるくらい強くありたいのに。
「ああ」
彼の姿がぼやけていく。滲んでしまっても、消えはしない。彼は去らず、ラスターの眼前にいる。ここに、いる。
潤んだ視界の中で、彼が記章を掲げるのがわかった。ラスターが渡したばかりの星命石を。
「俺たちは、二人でひとつの星命石なんだろう?」
彼が微笑む。
「──っ、そうだよっ!」
ラスターは叫ぶように言い返す。
こみ上げる衝動が思いがなんなのかわからない。ぐちゃぐちゃで、吐き出してしまいたい衝動に駆られるほど熱い。ちゃんと伝わったかわからない。言葉になっていなくとも、聞こえてくれたならそれでいい。あふれ出てくる涙が熱いのは、言葉で表しきれなかった思いが混じっているからか、抑えきれない激情が集約されているからか。
湧き上がる思いのまま、彼の腕の中へと飛び込む。苦笑していた彼が、優しく抱き留めてくれた。
ここにいる。すぐ傍に。この手も、この声も、余さず彼に届く。
なんてことない事実が、こんなにも特別に感じられたことはなかった。
「回りくどいんだよ、おまえは。嬉しいなら嬉しいと言え。人の娘を簡単に泣かせるんじゃない」
「涙は涙でも、嬉し涙なら泣いたうちに入らないだろう」
「詭弁だな」
「あんたに教えられたことだ」
二人の話す声が、遠くから聞こえてくる。
離すものか。離れるものか。許されるのなら、もう二度と。
言いたいことはたくさんあるのに、言葉にならない。縋った腕が、しゃくり上げていたラスターの背中を柔らかく叩く。言葉にする必要もないと、ラスターを宥めてくれる。安心させるように、謝罪するように、一定の拍を刻んで。
「一緒に行こう、ラスター」
彼はそう言った。
初めて会ったときとは反対に。今度は彼が──ヒスイがラスターに言ってくれた。
翡翠の星屑 了