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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
終章 未来行路
199/207

199,彼に残った零の意志


 持ち上げた頭が酷く重い。いつもと違う景色に、覚醒しきれていない頭が混乱を来した。昨日の夜の記憶がおぼろげに甦り、ようやくここにいる理由をも思い出す。

 目を擦り、首のうしろを指で揉む。両腕を上に投げ出して背中を反らすと、思いの外気持ちが良かった。長時間同じ姿勢でいたときは、凝り固まっている部分をほぐしてあげるといいらしい。幾分か、楽になったような気がする。


 はっきりし出した視界に、ふたつの装飾品が入ってきた。

 無理を押して頼み込み、昨夜完成した新品だ。惚れ惚れするような出来映えとはよく聞くけれど、確かに心奪われる一品だ。おいそれとは近づけないような、触れることも躊躇ためらうような、それでいてずっと間近で見ていたいような。ひと目惚れとは、こういう感情をいうのかもしれない。

 ひとつを首に下げる。金属特有のひんやりとした感触だ。くすぐったそうに肌の上で身をよじるも、すぐに落ち着いた。


 冷えきった茶の器。中身が半分残っている。起きていると決めていたのに、どうやら寝てしまったようだ。

 灯りはついていない。部屋の明かりも手元に置いていた灯りも、どちらも消えている。燃え尽きて残った灰は、すっかり冷めたあとだ。そういえば何刻だろうと窓に目をやって、ぎくりとする。

 遮幕から漏れ出る光。


 もしや、寝過ごしてしまったのではないか。

 遮幕を開けに行こうとして、不意に誰かの寝息を拾う。熟睡しているらしく、起きる様子はない。だからといって騒がしくしてしまったらすぐに起きてしまうだろう。

 そろりと足を踏み出し、起こさぬようそっと外を覗いた。日は昇りきっていない。まだ顔を出してほんの数刻経っただけだ。高い位置までやってくるのはこれから先。

 座っていた椅子にとって返し、もうひとつの装飾品を手に取った。落とさぬように、しっかりと握って。足音を忍ばせ、扉の手前で振り返る。


 今のは。気のせいか。

 気まぐれな風が吹いたのか、気が急いているがゆえの空耳か。そよがせた耳が何かを拾うことはなく、正体はわからずじまいだ。

 開けた目に映ったのは昨夜の名残だ。寝入る彼らに、感謝をひと言述べた。

 扉の向こうから今度こそ何かが聞こえる。誰かの話し声がする。

 もう動き始めている時刻か。皆が起きてしまう頃なのか。急がなくては。手遅れになってしまわないように。


 一歩、二歩。歩く足が急かされる。そんな遅い歩調では間に合わないと。三歩、四歩。早歩きになる。まだまだ遅いと。五歩、六歩。そして走り出す。

 ずっと遠くから聞こえてくる。

 誰かが、呼んでいる声が。



  **



 ──おまえにやるよ。

 放られた星命石。投げ渡されたのはもうひとつ、彼の名前もだった。

 物の道理を知らなかった当時の自分ですら、それらが無造作に渡されて良いものではないと知っていた。

 いらないと、必要ないと、主張した言い分はついに聞き届けられなかった。彼は星命石と名前を強引に押しつけるなり、自分の前から姿を消してしまった。納得させられる理由を見つけたら受け取ってやるなんて課題を残して。


 一人叩いた門扉を潜り、思わず見上げてしまうほどの廊下を進んだ。こんな建物があるのかと。やってきた最奥で吐いた息が感嘆に変わるのに、そう時間はかからなかった。

 これまで見たこともないような重厚な調度品。目も眩むほど色鮮やかで透明な硝子窓。自分がそう易々と触れていいものではないということだけ、頭の隅で理解していた。

 おとぎ話に聞いた世界が現実にやってきたような、もしかしたら自分こそがおとぎ話の中へやってきた異邦人だと公言してもいいような、そんな光景が広がっていた。


 自室がある。布団が使える。食事の心配もしなくていい。それまでの暮らしを考えたら、なんて幸せな生活だろうと思った。

 これまで感じていた幸せが一辺に塗り替えられ、こんな贅沢をしていいのかとすら思ったほどだ。

 ──初めまして、シェリック=エトワール殿。今日からおまえが占星術師だ。

 叩かれた肩に込められていた激励は、これから負うであろう重責に対しての思いもあっただろう。


 そうして彼の代わりに占星術師となり、返すに値するだけの理由を探し続け、いなくなった彼が戻ってくるまで居座り続けて──最後には理由すら見つけられずに手放した。

 地位が惜しいわけではない。とげのように残る後悔が抜けずにいるだけだ。

 許されたのはたったの一日。身を拘束されもせず、閉じ込められることもなく、この日だけはと自由にしてもらえた。なんと寛大な処置だろう。少しでも温情ある計らいをと、情けをかけられた結果か。


 たかが一日。されど一日。自分にとってその時間は、贅沢を極めたひとときだった。

 元々私物は指で数えられるくらいの量しかない。不要なものを処分するのに半日もかからなかった。

 動く範囲が制限されているだけ。その範囲内ならば、なんでも自由に動けた。与えられた残りの半日で誰かのところへ会いに行くことも、文をしたため宛てることも、まだ目覚めない旧友を見舞うこともできた。そうしなかったのは、自分が何も望まなかったからだ。会えば、心優しい彼らは叱咤激励してくれるだろう。最後に自分の手を取ってくれた彼女も、ついてこようとするだろう。そうしてほしくないがために、自分は何もしなかった。


 心静かに空を見上げ、日が暮れる様を、星が瞬く様を眺めていた。

 自分の未来を覗いてみるのも一興だったかもしれない。どのように生き、どのようにのたれ死んでいくのか──ああ、なんて趣味の悪い。死に様なんて、どうせろくなものではないだろうに。

 行く末を知ろうとしなかったのは、興味がなかったからだ。これからの人生を知ったところで、いずれやってくることに変わりはない。

 人はどうして未来を知りたいと思うのか。知る術がある自分は、傍から見たなら傲慢だと言われるかもしれない。方法を知りながら、なぜ使わないのかと。

 歩む人生は良いことばかりでも、悪いことばかりでもない。だというのにわざわざ未来を垣間見て、変えようのない道を知り、絶望に浸りたいのか。今を生きているのは、これからやって来る未来を越えていくのは、その人自身だというのに。


 自分がいなくなったあと、別の誰かが占星術師になるのだろう。六年前のあのときを境に見習いは一人もいなかったが、今は頼りになる者たちがいる。抜けた賢人の穴はすぐにふさがれるだろうし、心配すべきことはない。

 伝えておくべきだっただろうか。死者に会うための術を使ってはならないと。使ってしまった自分がそう残したなら、少しは抑止力になるだろうか。それとも、一度使えたならとさらに追求する者が出てきてしまうだろうか。

 何もしないのが一番かもしれない。禁術を二度に渡って使用し、国外追放された人物がいるという事実が伝わってくれたなら、それで。


 後顧の憂いは残っていない。

 やり残したことも、何も。

 そう結論づけ、部屋を閉めるとともに振りきった。思い出と呼べる記憶は、扉の向こうにしまい込んで。

 何も持たない手はこんなにも軽いのか。責任も、名声も、誰かとの関わりも置いてしまった手は。下ろした荷の重量を思い返して虚しさがよぎる。置いたばかりだというのに、惜しむのは早すぎるだろう。

 手放してしまえば残るものがないのは道理だ。散らばった残りかすをもう一度集めるなんて、滑稽こっけいもいいところである。

 身軽になったくせに、身体の中心が重い。背負う荷がないならば、その代わりとばかりに何かが居座っている。代わりになれるものなどないのに。


 自然物の中に紛れ込んだ人工色。その黒へと近づいてみれば、人の姿だと知る。こんな時間に、こんな場所に?

 朝一番の散歩でもしているのだろうかと気にも留めなかったが、知った顔だと気づいて足を止めた。


「黙っていなくなるなんて、薄情じゃないか?」


 置いていくと、決めたのに。それを早々にないがしろにしてくれるとは何事だ。誰にも何も知らせずに去ろうとしていた努力が、水泡に帰した瞬間だった。

 いつだって、始まりはこの人だ。初めて王宮へやってきたときも、ここから出て行く今も。

 関わりは決して深くないのに、強烈な印象をしっかりと残してくれる。


「名前も地位もなくした男の見送りに、国王代理が出てくるのは贅沢だろう。アルエリア王代理が護衛もつけずこんなところにいていいのか?」

「代理は返上したよ。今の俺は、名実ともに占星術師だ。ただの占星術師に護衛は必要ないし、不肖の弟子を見送ったって罰は当たらんだろう。まさか、挨拶もなしに出て行くとは言わないな?」


 そのまさかを軽々と指摘され、ぐうの音も出てこない。それすらも予期していたとばかりに、裏の読めない表情をしたノチェがいた。王宮と街を隔てる門扉の前で何をするわけでもなく、ただそこに座って。


「世話になったと言えるほど、ここであんたの世話になった覚えはない」

「ずいぶん素っ気ないな」


 素っ気ないなどと言われる筋合いはない。


「俺がやった名前は、そんなに重かったか?」

「……それなりに」


 軽くは、なかった。名と肩書きにつきまとう噂は、いつだって消えやしなかった。


「後悔しているか? 俺からこんなものを受け取らなければ良かったと」


 ノチェの指が、彼の腰に下がっていた石をつまみ上げる。見慣れない銀の飾りに収められているが、その中心に輝く石は、数日前まで自分が持っていた石だ。名とともに、ノチェから託された星命石。大きくはないのに、何よりも重みがあった。


「していない。後悔しているのはそれ以外だ」

「ほう?」


 組み直された腕と足。ノチェは黙って視線を送ってくる。

 言外に話せと促され、相応しい言葉を探した。


「……俺は、あんたに返すつもりだったんだ」


 出てきた逃げ口上に、ノチェから目を逸らす。

 彼に納得させたかった。堂々と受け取らせたかった。こんなものはもう必要ないと、押しつけた彼に今度は反対のことをしてやりたかった。


 それが、どうだ。ノチェを納得させられる理由も持たず、この手ずから返すはずだった星命石は別の者を介して。挙げ句の果てには、占星術師の地位までもうやむやな状態で失ってしまった。

 そんな自分が、ノチェにどんな顔を向ければいいのだろう。幻覚のせいとはいえ、ノチェの娘を殺しかけてしまったのも自分だ。挨拶よりも、必要な謝罪がありすぎる。挨拶したくないのではない。自分には、挨拶をする資格がないのだ。


「自分が情けないんだよ。占星術師としての地位も、あんたから預かった星命石も、いつかあんたに返すつもりだった。あんたに返すより先になくしてしまった。俺の都合で、全て。あんたを納得させるだけの理由もなく、剥奪された俺の尻ぬぐいを押しつけた。だから──」

「自惚れるなよ、小僧」


 低い声音に口を噤む。逸らした視線が否応なしに戻される。ノチェから立ち上った剣呑さが、彼が発する怒気を表した。


「自らの手で返したかったというならそれこそおまえの都合だ。今、どんな状態にある? 俺は占星術師に戻り、星命石もこの手に返されている。おまえは、それの何が不満だ? 結果を見るならば、おまえの望みどおりじゃないのか?」


 結果だけを見るならば。

 ノチェの言ったとおりだ。状態と結果だけに注視したならば、確かに自分の望んだ未来だった。

 けれど、望みどおりではない。過程に納得がいかないのだ。なんと不甲斐ないのだと。それは、自分に理由を求めてきたノチェへの、裏切りではないかと。


「俺は……あんたの期待に応えたかったんだ」


 当たり前の中から連れ出され、新しい世界を見せてくれたノチェに。だから、占星術師で居続けた。不相応だと知りながらも、別世界だと感じていながらも、留まり続けた。ノチェに返すそのために。

 これではレーシェのことを笑えない。ノチェに会いたいと望んだレーシェと、本質は同じではないか。


「俺は何も、おまえに完璧を目指して欲しかったわけじゃない」


 かけられた期待と、目指した目標。どうやら、その時点で既に食い違いが生じていたらしい。


「完璧でなくて良い。そんなものは理想の中にしかないと思え。思いどおりにいったなら、運が良かったと思えばいい。できなかったことはどうすればできたかを考え、できた部分は大事にしろ。くよくよして留まるくらいなら、どうすればより良い状態を作り上げられたかひとつでも探せ。過ぎたことは変わらない。なら、変えることのできるこれからに生かせ。いかに未来が定まっていようと、知らなければいくらでも変えられる。おまえは、もう諦めないんだろう?」


 とん、と。

 ノチェの拳が左胸を叩いてくる。

 今になって知ってしまう。ここまで重い言葉になるとは思わなかったと。


「──ああ」


 ここにある重さを。絶えず拍動しているこの命を。自分は二度と、諦めないと誓った。彼の娘から指摘され、それより前から何度も教わった。


「なら、いいんじゃないか? おまえが自ら絶ったそのときは、俺が責任持っておまえを呼び出してやる。で、一発殴らせろ」

「遠慮する。あんたに殴られるくらいなら、意地汚くても生きてやるよ」


 笑いながら話しているが、ノチェは決して冗談で言っているのではない。禁術を詳しく知らないだろうに。恐らくは自分がそうしたように探し出してしまうのだろう。ノチェならばやりかねない。


「なら、俺に禁術を使わせるな」

「善処する」

「断言はしないのか?」

「あんたがあんたの事情で使う可能性もある。人は、良くも悪くも変わるんだ。俺に、未来の保証まではしてやれない」


 仮にここで誓わせたところで、自分に関して使わないと約束させることはできるだろう。けれどもし、他の理由やきっかけができたなら? ノチェが絶対に使わないとは言いきれない。保証できないとは、そういう意味だ。


「すっかり生意気言うようになってまあ……」

「レーシェにも同じことを言われた」

「そうか」


 含み笑いで答えるノチェは、どこか楽しそうだ。

 幸せだった。幸せでいられた日々だった。これ以上望んでは罰が当たってしまう。だから堪能しすぎた制裁も受けたのだ。


「そういえば、ギアから伝言を預かっていたな」


 何か思案していたノチェが、ふとそんなことを言った。


「伝言?」


 十分話したと思っていたが、ギアは伝え足りなかったのか。


「ざまあみろ。二度と戻ってくるな、だと」


 憎まれ口を叩く姿が浮かぶ。顔も見たくないというなら、当然の台詞か。恨みごとでも構わない。六年前の和解はそう易々とできはしない。下ろせるはずもなかった荷を抱えていくのだ。この命が尽きるまで。


「誰かのためにじゃない、おまえのために生きろ。罪悪感とかそんなもの抱えながら生きるんじゃねぇ。おまえの人生、もっと思うままに生きろ、とも言っていたな。──ああ、こっちは言うなと言われていたか」


 思うままに。

 黙っていた自分をノチェはどう見ていたのか。


「自分の都合と言っていたが、おまえはもっと思うがままに振る舞っていい。肩の力抜いて、思い込みを外して、周りを見てみろ。新しい発見ができるかもしれないぞ。いつまでもうしろばかり見ているな。過ぎ去ったことに思いを馳せたとしても心を捕らわれるんじゃない。人が変えられるのは未来だけだ。おまえは、おまえの人生を生きていいんだ。その権利は、誰に侵されていいものじゃない。俺や、もちろんおまえ自身であっても」


 ──あなたはもう、許されていいのよ。

 やんわりと突き放されたことを思い出す。

 どこから騙されていたのかわからないが、レーシェにかけられたその言葉まで嘘だったとは、どうしても思えなかった。

 レーシェはどんな思いで口にしたのだろう。誰に。何に。許されていいから、同時に殺されてくれという意味だったかもしれない。なにせ、レーシェは自分を殺したいほどに憎んでいたのだから。


「それで? 一人でどこへ行くつもりだったんだ? 俺の娘を置き去りにして」


 ノチェはとても軽い調子で尋ねてくる。言わなければここから先へ通しはしないと、そう言われているようだ。占星術師を返す理由の代わりに、今度こそは納得させてみせろと。


「──思い、知ったんだ」


 ノチェの前で下手な誤魔化しなどできない。


「これ以上、一緒にいるべきじゃないと判断した。傍にいても、俺はあいつを悲しませることしかできない。だから離れると決めた」


 答えを保留にしてしまったせいだ。

 居心地が良くて、甘受してしまった。その結果、どれだけ泣かせ、苦しめ、辛い思いをさせてしまっただろう。もっと早く決断していれば、ラスターの傍から離れていれば、ここまで傷つけずに済んだ。


「ほーお? おまえ、相変わらず自分のことしか考えてないな。救いようのない阿呆とはまさにおまえだな。少しはましになったかと思ったが、全然まだまだ。ひよっこで青臭くてどうしようもない糞餓鬼だよ」

「──違いない」


 どうしようもない人間だ。大人の皮を被り、図体だけ大きくなった子どもに過ぎない。


「ラスターのためを思って、か? 本当に? ラスターが一度でもおまえにそう望んだのか? おまえが自己完結した考えじゃないと言えるのか? 人の気持ちを勝手に決めつけるな。ラスターはおまえに何を望んだ? おまえは、あの子をどうしたい?」


 自分がしたかったことは、謝罪と、別れを。

 ラスターに告げなければ。そう思って告げたのは、自分の意志だ。何かを言いかけていたラスターを遮り、聞くよりも自分の都合を優先させた。

 聞いてはいけない。傍にいてはならない。


「一緒にいたいと望まれた。だけど、俺は離れなきゃならない。俺があいつの近くにいたら、いつか必ず取り返しのつかない事態になる」


 決して誇張ではない。来るかもわからない未来に怯えている。来てほしくない未来が来るのかどうか、見ればすぐにでも判別するだろう。

 知るよりも離れた方が確実だ。傍からいなくなれば、恐れていた未来だってやって来はしない。だから彼女から離れ、遠ざかるのだ。

 自分がいつか、ラスターを殺してしまうその前に。


「負けかけたんだ。幻に。同じことがもう一度起きないとは限らない。怖いんだ。だから、俺は──」

「逃げるなよ」


 言おうとしていたその先を制される。


「逃げるな。おまえに向き合おうとしてくれている奴から。自分の殻に閉じこもるばかりでなく、殻をこじ開けろ。世界はおまえ一人で構成されていない。人と関わり続けるその空間が世界だ。一人だと感じているのは、おまえが閉じこもっているからだ。おまえがまとった殻はおまえにしか見えない。それこそ想像の中で作り上げた錯覚に過ぎん」


 本当にそうなら、形のないものをどうこじ開けろというのか。


「──なら、壊せないだろう。実体のない存在を、どう壊せと言うんだ」

「消せばいい」


 答えは実に端的だった。


「殻がない状態を想像すればいい。形あるものより、ずっと簡単だろう? 何を難しく考える必要がある?」


 それが容易くできたなら苦労はしない。

 自分の凝り固まった考えは、ノチェの言ったとおり錯覚で想像の産物なのだろう。だからこそ、だ。


「人は、そう簡単に変わらない」


 ましてや長年巣くった感情だ。労せずひと手間だけで取り払えたならどんなに楽か。


「ま、そうだろうな。人を変えることほど、難題はそうない」


 あっさりと認められ、肩すかしを食らう。


「人を変えるのは難しいが、自分を変えるのはいつだってできる。思い立って踏み出せばいいだけだからな。他人や環境のせいにしたところで何が変わる? 声を上げる自分がいて、声を聞いた誰かがいて、やがて変化は伝染していく。自分が動いた結果で周りも変化するなら、それは儲けものじゃないか?」


 もしも変化を望むなら。周囲を巻き込むほどの変化を起こせたなら。


「……あんたが言うのは理想論だ。自分が変わるから周りも変わるなんて、他力本願だろう。期待した分、裏切られるのは常だ」

「かもしれないな。だが、失敗も成功もその先にある。現状維持を望むのは人の本質だけどな、維持するだけでは廃れていく。経験という糧を得られたなら、そこからいくらでも変えられる術が浮かんでくると思わないか?」


 自分の反論など軽々といなして。


「どう転ぶかなんて、やってみなけりゃ誰にもわからない。だから人は考えて、軌道修正して、目指した理想に近づけていくんじゃないか? 不変こそが怠惰だよ」

 変わらないことこそが。思考を止めてしまうことが。与えられただけを受け入れるのが。


 ノチェが息だけで笑う。仕方ない奴だと。

 笑われるのも悪くない。これが最後になるのだから。笑っていたノチェが首を伸ばす。自分の姿を通り越えて。


「──ああ、やっと来たか」


 やはり、誰かを待っていたのか。ここにいては邪魔してしまう。その前に去ってしまった方がいい。


「じゃあ、俺は──」

「用がある物好きは、俺だけじゃなかったみたいでね」


 意味ありげに上げられた口の端。

 ──まさか。

 聞き返すより早く、背後から声が上がった。


「──待って!」


 やって来たその声は。息せき切って駆けてくるその姿は。振り返らずともわかる。彼女には、あの日確かに別れを告げたはずだ。

 どうしてこんなに頃合いよく現れる。抗議の意を込めて、ノチェをぎ、と睨みつけた。


「時間稼ぎか」


 満面の笑みに変わったノチェが、ひと役買っていることは間違いない。


「悟られずにいるのも骨が折れるな」


 悪びれもせず答えられる。

 会いたくなかった。顔を合わせることなく去りたかった。だからこうして、ひと気のない時間帯に出て行こうとしていたのに。

 どうやら、ノチェと出くわしてしまったことが運の尽きだったらしい。無視しきれない気配が、自分にうしろを向かせる。

 両膝に手を突いていた彼女が顔を上げる。息を整えながら見上げてきた。


「間に合った」

「……ラスター」


 曇りを知らない真っ直ぐな目が、自分をしっかりと捉えてきた。



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