197,眠りの底に沈む罪
指で押しても球のように転がりはしない。いやいやと離れていくだけ。上から押さえつけてみれば、拒絶する冷たさが伝わってくる。ナキは、小さな鍵から指を離した。
預かったときは本当に嬉しかったのだ。今こんなにも虚しい気持ちを抱えるなんて、思いもしなかった。
「ラスターの方が苦しいのにね」
「苦しみの程度を、人と比べるのは良くないんじゃないかな」
ナキの独り言を、ご丁寧にも拾ってくれる声があった。
ナキは目だけを動かす。
「お帰り。お疲れ様」
「ナキもお疲れ様」
扉を閉めたファイクは、ナキと机を挟み、真向かいへと腰かける。腰かけるというよりも、ほうほうの体で椅子までたどりついたと表現した方が適切かもしれない。疲弊しきっているのはお互い様だ。
「今回のことだって、知っている人は同情して聞いてくれるかもしれないし、無関係な人にとっては「ふーん、そう」で終わっちゃうかもしれない。でもさ、ナキが苦しいって思ったらそれは苦しいし、辛いって思ったら辛いんだ。他の誰かと比較するものじゃないよ」
「そうね。ありがと」
二人が口を閉ざしてしまえば、聞こえてくる音は何もない。以前はなんとも思わなかった沈黙だが、今はどうしてか心穏やかになる。そこに誰かがいるという、安心感がもたらされているからか。
「そっちの様子は?」
「ラスターは手当てしてもらってる。手当てって言っても軽傷だから心配しないで。リディオル殿とユノ殿は落ち着いてたよ。命に別状ないって」
「そ」
ナキは意識が戻ったリディオルを見ていない。ナキたちがエリウスを治療していた元まで戻ってきたときには、忽然と姿を消しており、会っていない。リディオルだけでなく、名も知らぬ男性も、エリウスもおらず、残っていた魔術師見習いの二人が教えてくれた。薬室に戻った直後、やって来たファイクから事情を聞き、グレイがファイクを伴って出て行った。薬室に留まったナキはファイクから託された薬の調合を担い、治療室まで届けに行った。
「僕はまだ頭が混乱してるよ。なんか、今日だけで五年くらい年取った気分……」
「実年齢が顔に追いついてきたんじゃない?」
「……どういう意味さ、それ」
「そのままよ」
詳しくは答えず、ナキは質問を重ねる。
「グレイは?」
ファイクはグレイと一緒に出て行った。戻ってきたのはファイクだけ。一緒ではなかったのか。
「さあ? 先に戻ってろって帰されたから」
グレイが意図して戻ってこないのならば、無理に聞くこともないだろう。事情を知ってしまったならなおのこと。たとえグレイが気にしていなかろうと、本人の許可なく勝手に言いふらすのは勧められたことではない。
グレイもグレイで、気持ちの整理ができていないのだろう。そんな最中、立て続けに心をすり減らされてしまっては、考えるべき思考回路すら持って行かれてしまう。ようやくその時間が得られたのなら、そっとしておくのがいいだろう。
蟠りが消化するまで、果たしてどれだけの時間が必要になるのか。一朝一夕にはいかない。数年もの月日が必要になるかもしれない。ナキには想像もつかないが、結論を急かすべきことでもないのはわかっている。火とはそれぞれ処理能力が異なる。
「グレイも思うところはあるでしょ。あたしたちが急き立てても、腑に落ちてなきゃグレイが納得しないわよ。放っておくのが一番」
「そうだよね……」
「人がいないところで悪口か?」
落ち着いた声がそこに割り込んでくる。
「噂をすれば」
「影が差す」
ナキはファイクのあとを継いで言う。扉を開いた体勢で止まっていたグレイには、ものすごく嫌そうな顔をされた。
薬草のひとつに、慣れている者でも口を揃えて苦いと評されるアオニガミソウというのがある。常備薬の類では使われず、死に瀕した際に服薬させていまわの際から引き戻すという、耳を疑うような薬だ。安息の地へ向かい、楽になろうとする命を力業で呼び戻すのである。初めて聞いたときにはなんて薬だと思ったが、起死回生の一手には違いない。
幸か不幸か、ナキは使ったことがない。味見をしたことはあるが、いっそのこと死んだ方がましではないかと思わせてくれる苦さだった。できることなら、もう二度と口にしたくない。
今のグレイは、そのアオニガミソウを口に入れたような顔をしていた。
「……微妙にやる気のなさそうなその体勢はなんなんだ」
突いた頬杖にもたれかかったまま、ナキは向かいに座るファイクを見る。同じことを考えていたらしいファイクと目が合い、示し合わせたようにグレイを仰ぐ。
「今日の反省会と慰労会?」
「ただ今参加者募集中」
机に上半身を預け、重ねた両腕の上に顎を乗せていたファイクが、とろんとした声で言った。そのうち寝落ちるのではないか。
「どう考えても強制だろ、それは」
定員は若干名だ。
「あんたもいる?」
ナキは茶器を掲げ、グレイに見せる。掲げた弾みで氷がふれあい、爽やかな音を立てた。
「中身は?」
「氷の水割り」
興味深そうに眺めていたグレイが、途端に渋面に変わる。人が美味しいと感じる味覚は五種もあるのに、グレイの表情が表すのは今のところ苦みと渋みのふたつだけだ。それも、美味しくなさそうな顔ばかり。
「……ただの水だな」
「健全でしょ」
初めは茶を淹れる気持ちでいたのだ。薬缶を火にかけ、茶器を揃えたところで、そこから茶葉を探すのが面倒になってしまい、茶に至らなかった飲み物がここにある。茶器に入っているのはその名残だ。かけていた火は消し止められ、薬缶は文句ひとつ漏らさず焜炉に佇んでいる。茶に変えてやれず、申し訳なかったとは思う。
ナキの手に振動が伝わってくる。震源地は、忍び笑いをしているファイクだった。
「なによ、急に」
「いや、さ」
ファイクがのそりと上体を起こす。
「君たちがこんなに面白い人だったとは思わなくって」
今の会話のどこにそんな感想がつけられたのか。
「それを言うなら、おまえがこんなに喋る奴だとは思わなかった」
ファイクの打ち明け話に、グレイも乗っていく。本日は反省会と慰労会改め、反省会と慰労会と暴露大会か。
「それこそ僕の台詞だよ。君、いっつも無言で鍋かき混ぜてたじゃないか。薬師より魔術師の方が似合ってるんじゃないかって思ってた」
「お望みなら即効性の妙薬を作ってやるぞ」
「なんの薬さ、それ。君が言うと本気で作りそうだから怖いよ」
自分たちを棚に上げてよくも言ってくれる。面白いのはそちらではないか。
半ば本気とも取れるグレイの冗談を聞いて、ファイクは子どもみたいに笑う。ああ、そうだ。ナキも知らなかった。いつも怯えてばかりいたファイクがこんな顔をして笑うことも。グレイが真顔で冗談を言うことも。
「どうかした?」
「別に。ここ数日で新しく知ったことが多すぎて処理するのに忙しいだけ。あと、あんたたちがこんなに話すなんて思わなかった」
「ナキ、感想がグレイとほぼ一緒だよ」
「共通認識で何よりだ」
「そんなところばっか気が合うんだから」
炊事場に向かったグレイを、ナキは横目で追う。どうやら、湯を沸かそうとしているらしい。待ちわびていた薬缶を活躍させる機会が、こうも早くやってくるとは。
ナキは茶器をずいと差し出す。ファイクからは左手が伸ばされる。グレイの背中めがけて。
「ついでにお願い」
「僕も」
「おまえらな……」
茶筒を開けかけたグレイが渋い声で振り返る。動く気力はあまりないが、飲みたい欲はある。
しかし、戻ってきたばかりのグレイだけ働かせるのは酷か。ナキは椅子から立ち上がった。
「器くらい出すわ」
「助かる」
再び机へ寝そべったファイクは余力がないようだ。持ってきた空の器をさっと水で洗い、戸棚から硝子の器をふたつ出す。ナキはグレイの隣に並ぶ。焜炉に灯された火を眺める横顔は、火と同じように静かだ。肩越しに見たファイクが動く気配はない。
「あんた、変なこと考えてないでしょうね」
「自分で飲む茶を妙薬にする考えは今のところないな」
他人の茶ならあるのか。
「違うわよ──あと追いしないかってこと」
グレイだけに聞こえるよう、声を絞って。
あからさまに見ないよう、横目で窺った表情は変わらない。ただ、ほんの一瞬、グレイが動きを止めたように見えた。
「それはない」
「そ」
沸き始めた湯が、二人の会話を覆い隠してくれる。熱され、蒸発し、空気中に紛れ、霧散してしまうまで。誰にも気取られず、初めから何もなかったように。空気に馴染んでしまえば、そこにあったかどうかもわからなくなる。
「せっかくあんたたちが面白いってわかったのに、いなくなるのはつまらないじゃない」
「悲嘆に暮れてる暇もなさそうだな」
「当然。そんな暇がないくらいこき使ってやるわ」
「ファイクがいる」
「あんたも頭数に入ってるわよ」
「勝手に入れるな」
夜はゆっくりと更けていく。眠れないナキたちを追い越して。眠らない理由はひとつ。戻ってこないもう一人を待っているからだ。
「──帰ってきたら、もう一人分淹れないとね」
誰よりも大変だったに違いない彼女を、ナキたちなりに労うために。
**
ラスターはそろりと腰を上げる。兄弟二人の時間を、これ以上邪魔してはいけない。
「ありがとう、フィノ。話してくれて。ボク、そろそろ行くね」
治療室に来ていたファイクから、あとで薬室まで来るように念押しされていたのだ。あまり遅くなりすぎてもよろしくない。動き回っていた彼らを待たせすぎてしまうと、くたびれてしまう。会えていないナキに報告もしたい。動くなら、今をおいて他になかった。
「──ラスター殿。ひとつ、お教えしましょう」
「うん、何?」
何気なく合わせた目が、思いがけず真剣な目で返される。
これは有用な助言などではない。軽い思いで聞こうとしていたラスターの気を引き締めさせた。
「あなたがシェリック殿に襲われたのは、全くの偶然です」
「どういうコト?」
聞き逃せない内容が、ラスターを全身で振り向かせた。
シェリックに、ラスターを殺す意志はなく、幻覚を見せられていたとも聞いた。たまたまそこにいたのがラスターだったからとでもいうのか。
漂う不穏さに耳を塞ぎたくなる。フィノならば、口を閉ざして喋らない選択も取れたはずだ。あえて口にしたということは──
ラスターは聞かなければならない。
「レーシェ殿が用いた毒は、ユメミダケとマホロバソウの二種類でした。これらふたつの毒素を体内で頃合い良く撒くには、レーシェ殿お一人ではできません。即効性でもない限り、硬貨が表れるには数時間、それも人や体調によって微々たる差異が出ます」
ラスターは頷く。何も毒に限った話ではない。薬というものは、得てしてそういう性質だ。効く薬があれば、効かない薬がある。即効性の万能薬なんて、ほとんど存在しないに等しい。
「必要ないときに発動しないよう、レーシェ殿は方法を考えました。毒そのものを摂取させるだけで終わるのではなく、その毒を体内に留め、都合良い時機に効果を発揮させられないかと。そうして用いられたのがユノの術でした」
ユノの術。
「ユノは火を使ってたよね?」
「はい。ただ火を生み出すだけでなく、瞬間的な威力を調節して爆発を起こすこともできます。いわゆる、時限爆弾です」
淡々と語られる内容は非現実めいているのに、フィノの声音が非現実だと認めさせてくれない。
「条件さえ定めてしまえば、誰にでも発動させることが可能です」
だから時限爆弾だとは、言い得て妙だ。
「誰にでもって」
「発動条件が満たされていなければ、ラスター殿は襲われることもありませんでした」
なぜそんなことを──なんて、訊かずともわかる。シェリックを苦しませたかったからだ。シェリックではない誰かをシェリック自身に傷つけさせることが、より苦しめる方法だとわかっていたからだ。
「どうしてフィノがそんなコト知ってるの?」
「元々、私があてがわれていたからです。発動するための引き金は、シェリック殿の昔の名前を呼ぶこと。元々はリディオル殿を襲わせる目的でした。目論見が外れたおかげで、ユノはリディオル殿を確実に排除しようと動きました。結局、私は発動させる前に終わり、ユノもリディオル殿を仕留められずに終わりましたが」
返す言葉が浮かばない。唯々諾々と従ったフィノたちを怒ればいいのか、担わされていた状況を悲しめばいいのか、判断がつかない。
レーシェの計画が明るみに出るたび、なんて人なのだと思う。たった一人、ノチェに会いたがったために、それ以外を全て排除するとは。そうでもしないと会えないと、思い込んでいた節もある。
もしもフィノの言うように、計画どおりにことが進んでいたなら。
ラスターだって、生まれなかった感情がある。シェリックに恨まれ、憎まれ、嫌われていたのではないかと、頭を悩ませる必要もなかった。
けれど、その代わりに誰が傷ついただろう。
リディオルが無抵抗なままで終わるはずがない。リディオルならばもしかしたら、うまく収めていたかもしれない。あるいはシェリックもリディオルも無事では済まなくて、今以上に死者や負傷者が出ていたかもしれない。
もしも。
来なかった未来を想像しては、今との差異を比べてしまう。訪れなかった未来の方が良い結果だったのではないか。そんな、詮ないことを考えてしまう。
考えてもやって来はしない。泡沫に消えてしまう夢だ。
「──フィノができなかったのは、躊躇ったからじゃないの? シェリックが苦しむってわかってたから、だからできなかったんでしょ?」
「ラスター殿が思うほど、私は綺麗な人間ではありませんよ」
「いいじゃん、別に」
綺麗だとか、そうでないとか。どうして答えをふたつに絞らなければならない。両方を兼ね備えていたっていいではないか。
「フィノが考えてる自分像と、ボクから見たフィノは違うよ。あるかないかで考えなくたっていいんだ。自分で自分を見るコトはできない。フィノが気づいていないフィノの優しさを、ボクは知ってる。フィノ自身がそう思っていなくたって、ボクから見たフィノは、どんなときでも誰かのコトを考えてる人だよ」
塔の上まで上ってきたとき、ユノを説得しながらラスターへも説明してくれた。魔術でユノに応戦したのは、詠唱するシェリックを庇うため。そしてフィノが感情を露わに激昂したのは、傷つけられたユノを守るためだった。
フィノの行動原理には、必ず誰かの存在がある。その人のために。フィノ自身よりも、その誰かを優先させる。それが、フィノの行動の元に当たるのだろう。
「買いかぶりだなんて、ボクは思わないよ。フィノに合った、れっきとした評価だ」
「……それでも、今の私にはできすぎた評価です」
差し出した気持ちが受け取られないなら、引っ込めるしかない。受け取るだけの容量がそこにないのだから。
「──すいません、ラスター殿。少し、一人にさせていただけますか?」
悲しげに笑うフィノから拒絶を感じ取り、ラスターは頷く。
「うん」
ラスターがここにいることを、歓迎されてはいない。ラスターが邪魔というより、フィノは一人になりたいのだ。
「ありがとう、フィノ。話を聞いてくれて」
「それは、私の台詞です」
座っていた椅子を端に寄せ、ラスターは踵を返す。振り向かないよう、急ぎ足でそこから出るのだった。