196,一人と一人
「──フィノ」
紗幕をどかした隙間からおずおずと中を窺い、ラスターは小さく声をかける。
「ラスター殿」
椅子に座っていた丸い背中が振り返り、弱々しい笑みで出迎えられる。フィノの心の内に、どんな感情が渦巻いているのだろう。疲れきった顔になるのも無理はない。
邪険にされてもいいはずだ。それなのに、変わらずに優しく接してくれようとするフィノに胸が詰まる。理由の一端には、ラスターも関わっているというのに。
音を立てないように、ラスターはそろりと身体を滑り込ませた。フィノがすっくと立ち上がる。
「どうぞ。私はこちらに座りますので」
譲られた椅子と示された寝台の端。フィノは、相手を断りづらくさせる天才だ。
「ありがとう」
「どういたしまして。立ち話するのもなんですし」
それぞれの位置で腰を落ち着かせると、ユノの寝息がそこに残る。眠りとともに沈んだ罪は、ユノが起きるのと同時に浮上するだろう。浮き沈みはしても、なくなることは決してない。ユノが一生背負っていく業だ。
「先ほどはみっともない姿をお見せしてしまいましたね。ユノが関わると、私はどうにも冷静ではいられなくなるようです」
布団へと添えられた手がユノをそっと示す。置いただけの手は、ユノを何からも守っているように見えた。
決して錯覚ではない。フィノは、これまでもこうしてユノを守ってきたのだろう。ユノの兄として。たった一人の家族として。
「みっともなくなんかない。冷静でいられないなんて、そんなの当然だよ。だってフィノは、ユノを必死に守ろうとしてたじゃん。誰かを守ろうと動ける人は凄いよ。ボクがフィノの立場だったら、あんなふうには守れない。フィノは格好良いよ」
「……ありがとうございます」
人を守る行為が、恥ずべきものだとは思わない。あのときフィノは、ユノの命だけでなく、ユノの心や矜持をも守ろうとしていた。ユノがどれだけ傷つけられようとも、フィノは矢面に立っていたのだ。
ラスターは、母親であるレーシェを擁護すべきだっただろうか。彼女はこれからどうなるのだろう。セーミャとエリウスには曖昧に答えたけれど、ふとした瞬間に疑問が頭をもたげてくる。
「ボクも、同じように守れたらいいなって思った」
「──ラスター殿。レーシェ殿が身内であったとしても、あなたが責任を感じる必要はありません。それは全くの別物です」
緩く降られた首とは裏腹に、フィノの確固たる思いが言葉の端々から伝わってくる。
「確かに、レーシェ殿がしたことは許せません。ですが、それはレーシェ殿が償うべき責や罪であり、娘だからという理由だけであなたが負うものではないのです」
気まずさを見抜かれて。気遣わせてしまって。フィノはどこまでも上手だ。ラスターは情けなさから俯く。
「……許しちゃいけないよね」
「レーシェ殿を許すか許さないか、ラスター殿が決めていいのですよ。他の方と意見を合わせるのではなく、ラスター殿が決断することです」
優しい口調で、やんわりと突き放される。誰かに賛同するのではなく、ラスターが決めるべき選択だと。
「うん。ボクがどうしたいか、考えてみる」
母親としてのレーシェではなく、レーシェ=ヴェレーノという一人の女性について。
「ユノはどう?」
「眠っていますよ。私がここに来てから、一度も目覚めることなく」
近づいて良いものか躊躇した末に、ラスターはフィノの肩越しから覗き込む。治療にあたっていたエリウスから、幸い急所は外れていると聞いた。眠り続けるユノは、憑きものが落ちたような顔をしている。奪われた故郷を取り返すのだと、悲痛な声で叫んだ彼と同一人物だと思えない。
実際、これまでユノが溜めていた思いの丈、その全てが吐き出されたのだ。神経をすり減らす続けていた日々が終わったというなら、気持ちは楽になっただろう。されたことを思い返しても、ラスターはユノを憎めずにいる。ユノがレーシェにされた仕打ちを思うと、ラスターが受けた恐怖なんて軽いものだ。
「フィノも、恨んでた? エクラ=ノチェを」
ユノにとっては敵だった。シェリックとは別人であっても、募らせた恨みは消えない。事実が異なっただけで、故郷を奪った張本人がいたことに変わりはないのだ。
「……難しいですね。ユノはああ言っていましたが、私は奪われたとは思っていません。私にとっては生きることと、ユノを守ることだけで手一杯でしたから。ノチェ殿からお聞きになったでしょう? 私兵の立場だった私から言わせてもらうなら、むしろありがたかったんですよ。何にも手を汚さずに、守ることができるのは」
フィノは組んでいた指を入れ替える。
「それに、私を止めたナクル殿の気持ちがわからなくもないのです。彼は輝石の島が王国領となるより先に、目の前で家族を殺されてしまったと聞いております。ナクル殿が私を止めたのは、ラスター殿が自分と同じ目に遭ってほしくなかったからではないかと」
だからあのとき、ナクルはフィノを止めた。罪を犯した者だと知りながら、レーシェを庇った。
「──もっとも、あの瞬間はナクル殿が何を考えていたのか、本当のところはわかりません。今お話ししたことは、全て私の想像の範疇でしか語っておりませんから」
「でも、フィノが誰も傷つけなくて良かった」
ユノの額に手を置いたフィノが、ラスターと目を合わせて不思議そうに瞬いた。ひどく緩慢な動作で、何を言われたのかわからないと言いたそうに。
「ラスター殿はおかしなことをおっしゃいますね。直接手を下さずとも、傷つけることはできます。私は私自身の言葉をもってして、レーシェ殿の前に立ちはだかりました。感情にまかせて発した言葉が、誰も傷つけていないとは言えないでしょう」
「フィノが傷つけたって思ってても、聞いてた方が傷ついてなかったら、それは傷つけたって言わないよ。フィノは、ずっと丁寧で優しかった。輝石の島では……怖かったケド」
フィノは、ラスターとシェリックを無理に連れて行こうとしなかった。フィノがその気になれば、強引に連れ去ることもできたのに。わざわざ姿を見せ、正体を明かし、回りくどい方法を取った。それはフィノなりに、ラスターたちへ選択肢を与えたかったのではないだろうか。賢人であるシェリックに、敬意と礼儀を尽くしたかったのではないか。
「……あなたはどうも、人を信じすぎる傾向があるようですね」
「ボクは、信じたいから信じてるだけだよ」
本物なんて知らない。
「ラスター殿は私を買いかぶり過ぎです。私は初めから、家族を守っただけですよ」
何者にも入る余地はない。形ないものは、あると信じるだけで形あるものに変わる。フィノがそう言うのであれば、きっとそれが答えだ。
**
ラスターが手前の寝台へ向かうのを見送る。
眠るにはちょうどいい静けさ。息を押し殺すほどの緊張感はなく、この空気にしばし身を委ねたくなるような、そんな安心がある。
紗幕で仕切られていたあちらとこちら。同じ部屋の中なのに、越えてはいけない境界線に見えてしまう。いとも簡単に越えていったラスターを少しだけ羨ましく思いながら、セーミャは視線を奥へと転じた。
「どうぞ」
視界の端に四角い物体が見え、セーミャは反射的に受け取る。
待ち構えていたとばかりに差し出された書類とエリウスを、セーミャは見比べた。
「……準備が良すぎやしませんか?」
「経過観察中だけど、知りたいかなと思って。記録は終わってるのでどうぞ? 気になることを放置したままじゃ、寝れないでしょ?」
羽織った白衣に、動かなかったセーミャの意図。渡された書類から、とっくに察されていたらしい。エリウスも初めからセーミャに話すつもりでいたのだろう。そうでなければ、こんなに頃合いよく渡してきたりしない。見計らわれていたのだ。
「……ありがとうございます」
ならばセーミャも、察しよく応じるべきだろう。
「でも、今日はそこまで。セーミャさんが思っている以上にセーミャさんの心身は疲れてるからね。見終わったら俺に返して、今日はおしまい。いい?」
そこまで無鉄砲に動き回る人物だと思われていたのか。それとも、判断が鈍っているセーミャにあえて明確に教えてくれたのか。
「はい、わかりました」
理由がどんなものでも、終着点がはっきりわかるのはありがたい。終わりとなるその状態を目指せばいいのだから。
セーミャが通りすがった紗幕越しに、小さな話し声が聞こえてきた。ラスターもフィノも、互いに思うところはあるのだろう。今はそっとしておくのが一番だ。下手に介入してしまって、本当に話したいことが話せなくなってしまうのはよろしくない。
ひとつ飛ばした寝台。奥まった位置にあるせいでひっそりと静まり返っている。紗幕の前に立っただけなのに、幕をどかす手がなかなか動かない。中に入って様子を確認するだけだ。これほどまでに緊張しているのは、まだ無事を確かめていないからか。聞いてはいる。けれど、聞いていない部分は想像で補うしかない。
今日は一日通して衝撃の連続だった。もしかしたら、セーミャが軽傷だけで済んだのは、不幸中の幸いだったかもしれないのだ。どこかで間違っていたら、セーミャもここにいる彼のような重傷を負っていたかもしれない。
ユノに殴られ、意識を飛ばすだけに留まって。それに、まさか亡くなった師に会えると思っていなかった。
はっきりと覚醒していないまま聞き取った懐かしい声。夢の続きを見ているかと思った。目が覚めたと思っていたセーミャは実のところ眠ったままで、セーミャにとって都合の良い幻を見ているのではないかと。月並みな感想しか浮かんで来なかったセーミャに、幻であるはずの師は語りかけてきた。
──じゃあね、と。
できずにいた別れ。言葉を交わすことは二度とないと思っていた。師は死者で、セーミャは生者だ。属する世界は既に違う。決して相容れぬ存在。あってはならぬ事態を強引に引き起こすのが禁術だ。セーミャはかつてそれを望んでいたのだと、今になって身震いする。
諦めたのだ。いや、納得をして断念する道を自らで選んだのだ。セーミャの望みは、願ってはいけないものだったから。理に反する行為だと諭され、師が残してくれた最後の言葉を受け取って。こんなところで叶っていい願いではなかった。叶わないままで良かった。
師とは二度と会えない。けれどそれでいい。自然の摂理に逆らってはならない。身を引くべきはセーミャの方だと。セーミャが会うことを望んでも、師は決して喜ばない。ならば、会えなくていい。納得して、呑み込んで、蓋をして。それなのに、叶ってしまった。
ないはずの涙すら流れそうなほど嬉しかった心は、いつの間にか別の感情で上塗りされてしまった。気が狂いそうなほどにしがみついていたかった思いはここにない。セーミャが持つ薄情さは、何も今に始まったことではないのに。
書類を持つ手に力を込める。
わかっている。
白状しよう。上塗りされた感情は、セーミャが現実を見たくないがための逃避だと。
嬉しかったことは決して嘘ではない。会えると思っていなかった。驚愕と喜悦とそれを凌駕するほど詠嘆が混在していた。嘘ではないのに、この紗幕の向こうへと入るのを躊躇っているのも本当だ。
治療の一環だと思えばいい。本日最後の業務をこなすだけだ。終わったらきっと、セーミャは夢も見ずに眠るのだ。深奥まで潜り、底まで沈んで。明日は起きれないかもしれない。寝坊したセーミャを、エリウスは許してくれるだろう。昨日大変だったからとか、疲れているからなんて労ってくれて。
そんな未来すら見えているのに、セーミャの手は一向に動かない。入ってしまえば、診てしまえば、彼の様子はつぶさにわかってしまう。エリウスとの会話や、セーミャが携えている治療記録で、大まかにしか知り得なかった情報がこと細かになってしまう。現実味を帯びてやって来てしまう。
──怖いのだ。知ってしまうのが。彼の治療記録はもう手元にあるというのに。
「──セーミャさん?」
肩が跳ねる。何かを言いたげな眼差しが投げかけられる。問われ、気遣われていると、エリウスの態度から思い知らされる。体裁をいくら整えていても、セーミャの心の準備はひとつもできていないと。
俺が行こうか、と。エリウスの目は語りかけてきた。
「──すいません。ちょっと今日一日を思い返してしまって。診てきますね」
「うん」
曇った顔をしたエリウスはそれ以上何も言わなかった。いくら心配されていても、代わるわけにはいかない。これが、セーミャの本日最後の仕事なのだから。振りきるようにして、セーミャは紗幕の中へと入った。直視できずに視線を落とす。床の板目が黒ずんでいる。また念入りに掃除をしなければ。清潔を謳う治療師の部屋が汚れているなんて、本末転倒だ。
師が使っていた昼寝室に一番近いその場所は、いつ来ても治療室から隔離されているような感じがする。入口からは奥まった位置であり、かつ窓の外には立派な木が寄り添っている。賑やかさも採光も臨みがたいこの寝台は、静かに過ごすにはうってつけだ。いささか静かすぎるきらいはあるけれど。
後ろ手に閉めた紗幕から手を放し、顔を上げたところで息を呑む。
「あんた、見習いの」
まさかそこに、先客がいるとは思わなかった。
椅子に座ることなく、眠る彼の枕元に立っている。この人と会うのはこれで二度目だ。
「治療師見習いのセーミャです。ギア殿、でしたよね」
顔も知らなかったこの人の名が、何度か呼ばれたのを聞いた。セーミャとはそれだけの間柄だ。接点は他に何もない。
「リディオル殿とはお知り合いですか?」
「グテイがくたばりかけてるっつーから、様子を見に来た」
グテイ──愚弟。
聞き慣れない単語。一瞬考え込んでしまった頭で正しい変換がなされ、ギアが何者か噛み合った。
「お兄さんなんですね」
言われてみれば、ギアの顔つきや喋り方はどことなく似ている気がする。眠っている彼の、人を食ったような顔を不機嫌に、茶化してくる口調を無愛想に変えればそっくりかもしれない。
言われたから無理くり似せようとしてみたなんて、事実から最も遠い。他人の空似のようなちぐはぐさだ。
「容体は」
「──あ、はい」
唐突に問われ、セーミャは慌てて治療記録に目を落とした。
「外傷は多いですし衰弱もしていますが、命に別状はありません。安静にしておけば、数日で動けるようになるでしょう」
それらは全てエリウスの筆跡だ。リディオルとユノを治療し、加えてセーミャたちの手当ても行ってくれた。エリウスが託した文字を読み進めていくと同時に、セーミャは感心すらしていた。いったい、どこにそんな記録する時間があったのか。
「ふん。悪運の強い奴」
憎まれ口を吐いたギアは本気か建前か。少なくとも、心配していることは確かだろう。でなければ、憎まれ口を叩くためだけにここまで足を運ばない。
「悪いな。こんな短期間で二度も世話をかけた」
「先日の一件、ご存じなんですか?」
「ああ」
王宮にはいなかっただろうに。当の本人が自ら語るとは思えないので、情報の出所はそれ以外の誰かだろう。
「安静にしていてほしいのに、ちっとも聞いてくれません」
あの手この手で治療室から出奔しようとしたため、セーミャとエリウスがどれほど引き留めたことか。
ひとところに留まらない、風のような人物。だからリディオルは、風を扱うのかもしれない。自らの性質と似かよっているから波長が合い、扱いやすく、馴染んだのだろう。我が身を顧みず、好きなところへと飛んでいき、到着したらまた次へ。自由気まま、思うまま。
「困った人です」
実体がないのにそこにいる。繋ぎ止めておくことは難しく、すぐにどこかへ行ってしまう。つかみどころがない彼にそっくりではないか。
「適正だったんだろうよ。扱う魔術は、そいつが持つ性質や素質、備わっている魔力、精霊に好かれるかどうか──そういった要素で成り立つらしい。聞きかじった知識で、詳しくは知らねぇが」
「合致しすぎるのも考えものですね」
「言えてる」
ギアの目元が和らいだ。雰囲気が優しくなると確かによく似ている。血縁というのも納得ができた。
「あんたは、様子見に?」
「そうです。それと、リディオル殿からお借りしていたものを返しに」
セーミャは、白衣の外側についている物入れから小さな木の栓を取り出す。小指の先ほどしかない大きさ。円柱型をしているから、置き方を間違えたらどこかへ転がっていってしまう。
「瓶を栓するのに使われていたんですけど、瓶は割ってしまって。残った栓だけでもお返ししようと思っていたんです」
この栓だけ返しても、困った顔をされることは想像に難くない。捨てるよう推奨されるかもしれない。本体の瓶が割れてしまっては、使い途はないからだ。
「──あんたが?」
「はい。でも、リディオル殿が目を覚ましてからでも良かったですね」
置いておけばリディオルは気づくだろう。栓の上部が色粉で染められている。わざわざ緑色をつけたということは、彼なりに区別をしていたからかもしれない。単に見目鮮やかにしたかったとも考えられるが、リディオルならば見た目よりも実益を取るだろう。
「そのまま持っていたらいい。俺の地方で、そいつはお守りとして扱われていた」
「お守り、ですか?」
「色が塗られているだろ? その色によって、どんな願いを込めたかがわかる。緑は、心安らかであるように」
思いがけないことを聞いてしまった気がした。
「まあ、こいつがそこまで考えていたかは謎だが」
「そうですね……リディオル殿は、わざわざ教えたりしないような人ですから」
会話に加わることなく、眠る彼だけが答えを知っている。
「──邪魔したな。そろそろ誰かさんに呼ばれそうなんで行くわ。ここは、あんたに任せて良いんだろ?」
「はい、勿論です」
ギアは振り返りもせず、手を挙げただけでさっさと出て行ってしまう。開かれた幕が元のように閉じられ、セーミャはぽつんと残された。
眠りこけているリディオルを見下ろす。今しがた交わされていた会話を意にも介さず、彼は深い眠りに落ちている。
綿紗、創傷被覆材、包帯で覆われているのは、顔だけではない。衣服や布団に隠された腕、足。全身で肌を晒している箇所を探した方が早いだろう。無茶の代名詞を、彼は一体どこで見つけてきたのだ。
セーミャは椅子を引き寄せ、枕元へと近づいて腰を下ろす。近づいたことで、浅い呼吸が何度も繰り返されているのがはっきりと聞こえてきた。その眠りが穏やかなのかそうでないのか判断はつかない。苦しみのたうち回るよりはずっといい。
以前彼が倒れたときには師がいた。あのときも彼は青白い顔をして、セーミャ自身も血の気が引いたのを覚えている。怪我の大半は打撲だが、火傷、創傷、脱水症状など。こと細かに挙げていけばきりがなかった。
よくもまあこんな状態で歩き、塔の頂上まで上ったと。心配を通り越して呆れながらぼやいていたのはエリウスか。そう言いたくなるのもよくわかる。前回も安静にしていろと口を酸っぱくしていたのに、セーミャの忠告もどこ吹く風でいてくれた。挙げ句の果てには死にかける事態になっているなど笑えない。自業自得だ。
──俺、囮になるんで。
薬草園で彼と交わした会話が思い出される。話とは何かと訊いたセーミャへ、リディオルはいつもの軽口で語ってくれた。勝算は五分五分だと。限りなく勝ちに近づけるよう根回しをしたいと。
誰に対しての囮で、何をするためか。あのときははっきりしたところまで教えてくれなかったが、今なら想像がつく。リディオルは、ユノをおびき出そうとしていたのだと。
負った怪我の中に火傷があったのはそのせいだろう。魔術を扱う者は、得意な術を持っているのだと聞いたことがある。リディオルは風、ユノは火だとも。
「──ありがとうございました」
塔の屋上で回収してきた栓を握ったまま、セーミャは彼に語りかけた。
セーミャは託された小瓶を割り、居場所を知らせた。割った小瓶に詰められていた精霊が外灯を壊し、他の者たちへと伝達するのだと、そう聞いた。
精霊が見えないセーミャには、半信半疑の話だった。それでも結果としては成功だったと言えよう。解き放たれた精霊はラスターの元まで彼を連れてきただけでなく、リディオルたちをも導き、一連の事件を解決させるまでに至ったのだから。
彼の策は、五分五分でしかなかった勝率を、確実に白星となるための準備だったと称賛していいだろう。正しかったどうかはともかくとして。
アルセからリディオルの姿が見えないと聞いたあのとき。無事ではないかもしれないと、浮かんでしまった予感を何度追い払っただろう。咄嗟に煙に巻くような発言をしてしまったのは、アルセのためだけではない。フィノがいないと知ったラスターの不安を、これ以上大きくしてはならないとも考えていた。
不安がひとつあるだけで、なにげない話も悪い方向に捉えてしまう。不安が新たな不安を呼び、伝染してしまう。
結果としては、そう答えておいて良かったかもしれない。五分五分でしかない勝算を引き寄せられたのだから。
「先陣切って死にかける人がどこにいるんです。あなたは立案者でしょう? でしたら軍師らしく、高見の見物していてください。あなたが必要以上に動き回るから、ついて行くのが大変なんですよ」
返る応えはない。わかっている。彼がしばらく目覚めないことくらい。起きたときに改めて懇切丁寧に諭しておかなければ、セーミャの気が済まない。今度は目くじらを立てていよう。彼が音を上げるまで。
おまけになんだ。お守りの話なんて、ギアから聞かなければ知ることもなかった。セーミャに託された小瓶にそんな意味合いが込められていたかもしれないと、初めて知った。尋ねたら答えてくれるだろうか。はぐらかされるだろうか。話題に上げたら、意表は突けるかもしれない。
一人で完結させて。こちらの意向など無視して。勝手が過ぎる。
セーミャは怒っているのだ。ろくに説明もせず、リディオルが好き勝手に周囲を振り回してくれたことに。
「次こそは大人しくしていただきますから。起きたら、覚悟してください」
声が震える。目頭が熱くなる。ひと言ひと言発する度に、言葉が崩されていく。師が亡くなったときには保てていた平静が、どういうわけかうまくいかない。
ここまで巻き込んでくれたのだ。人に心配をかけさせた報いを取ってもらわなければ、割に合わないではないか。