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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
終章 未来行路
195/207

195,溢れる雫は今日のうち


 月明かりの下で、虫たちが合唱を始める。この時間は主役の彼らに譲り、脇役である人間はひっそりと眠りに就くべきだ。おぼろげな明かりの下では、人も物も、ろくに判別できない。そこに誰がいるのか。何があるのか。確実性に欠けてしまう。

 明暗という、日常にあって当たり前の現象。国を隔てるでもなく、言語を違えるでもない、何より身近にあるもの。五感のひとつ、視覚を奪われてしまう暗がりに、畏怖を抱く者もいるだろう。人は陽に照らされて暮らす生物。闇に乗じる者は、陽の下を歩きたがらない者──転じて、何かを企む者だとされている。ひと目につかぬよう、白日の下に晒されぬよう、ひっそりと。


 好んで夜の時刻を選んだわけではない。別の懸念もある。けれど、凶報も吉報もすぐさま知らせてほしいという、主からの命を受けている。望まれているならば、ナクルは応えるまでだ。

 外側の廊下は煌々と照らされていたが、区画を一歩でも中に入ると途端に深い漆黒に覆われる。いつでも呑み込めるといわんばかりにぽっかりと口を開けて、誰かが踏み入れるのを待っていたかのように。呑み込まれるより早く、ナクルは手持ちの灯りを点けた。広大な闇に立ち向かうにはなんとも心許ない光だが、手元と足元を照らすくらいならばこと足りる。少なくとも、自身と方向を見失わずに済む。


 常ならば休む準備をしている頃だ。それでも行かぬ選択肢はない。気を揉ませながら待たせている主を気遣い、報告を明日に延ばしにするのとどちらが良いか。考えるまでもない。先延ばしにしてしまうのは、気遣いどころか気が休まらない原因となってしまう。

 狭まった視界。外から離れたために、ナクルの足音だけ聞こえてくる。考えごとをするにはうってつけの時間だ。幸い、考えたい題材も揃っている。たとえば本日の反省なんて、おあつらえ向きだろう。


 ナクルの手は、いている剣の柄へと伸びる。抜いて立ちふさがったあの一瞬。正しかったか、正しくなかったか。庇った者はいても、その人は守るべき主ではなかった。人そのものを守ったというよりも、ナクルと同じ境遇の者を生み出したくない一心だった。

 何も偽善的な考えの下で行ったのではない。アルティナの負担を少なくするため、ひいてはキーシャの憂いをも生み出さないため。同郷のよしみと良いながらその実、打算的な目的ゆえに起こした行動だった。

 ナクルが守ったのは、幼い頃の自分だ。他者の誰でもない。あのとき、もしも。決してやって来るはずのない未来を、刹那の瞬間に夢見てしまった。


 反省点ならば他にいくらでも挙げられる。脱走した彼の行く先に、協力者の気配。かけられたかんぬきを壊すのにかかった時間。初めて目の当たりにした禁術。鈍ってしまった判断。翻弄され、圧倒され、戸惑うばかりで終わるのではなく、次があったならば止めるべき対処を。しかるべき決断を。そう締めくくっていたところで、目的の扉が見えてきた。

 思考に一旦区切りをつける。不必要なことを考えていたら、また上の空だと指摘されてしまうだろう。

 ナクルがたどり着くよりもひと足早く、扉が内側から開かれた。中から出てきた彼女も、こちらの灯りに気づいたのだろう。見られた気配がし、ナクルは顔の近くまで灯りを引き上げた。


「ナクル殿? こんな時間にどうされました?」


 暗闇の中で、ふたつの光源が照らす範囲だけ取り残される。キャレルへと目礼し、ナクルは口を開いた。


「キーシャ様にお目通りをお願いします。至急、お伝えしたい用件がありますので」

「……わかりました。手短にお願いします」

「勿論です」


 キャレルの表情にありありと描かれていた不満が、ナクルを責め立ててくる。こんな遅くにやって来るのは非常識だと。元より承知の上ではあるし、キャレルもキャレルで理由と状況を察しているのだろう。それでも非難めいた無言の訴えを送らずにはいられなかったようだ。キャレルの態度ももっともである。ナクルは甘んじて受け止めた。

 人には、義務だけでは納得できない部分がある。感情という、いついかなるときでもつきまとう厄介な代物だ。感情があるゆえに、画一的だけでは終わらない。絡んだ感情が、思いも寄らない事態を引き起こすことだってある。そう、ナクルがフィノの前へ立ちはだかったときのように。


「キーシャ様、ナクル殿です。お通ししてよろしいですか?」

「──ええ、通して」


 中からくぐもった声が返され、キャレルが一歩退く。


「どうぞ。私は隣で控えていますので、お声がけくださいませ」

「ありがとうございます。キーシャ様、失礼いたします」


 ナクルを出迎えた明るさに、一瞬だけ目をすがめる。開いた扉から漏れ出ていた光は、抑えられた光量だった。てっきり手元照明だけをつけているかと思ったのだが、ものの見事に外れてしまった。手前はついていない。部屋の奥側だけ、昼間に近い明るさだった。

 同時に、キーシャが寝ずにいた理由にも思い至る。待っていたのだろう。ナクルから報告が上がってくるまで。ナクルがここにやって来るまで。


 最奥の執務机の向こう側で、座っているキーシャを見つける。休む準備どころか、ナクルと別れたときの格好のままだ。

 広げられた外交資料の山。今の今まで手がけていたのか。終わったと思しき書類は、恐らく明日の分まで入っている。そこまでやらずともいいものを。

 没頭したかったのだろう。余計な思考を入れないように、手と目を動かし、頭を働かせて。

 開いていた冊子を閉じ、端に寄せたキーシャがおもむろに立ち上がる。


「お疲れ様、ナクル。大変だったでしょう?」

「キーシャ様も」


 笑うその目元に、疲労が色濃く残っているのを見逃さない。目は話す言葉以上に、その人の状態を教えてくれる。


「私は座って執務をこなしていただけよ。ああ、そう。シェリックとユノ、レーシェの処遇だけど、明日改めて賢人たちと話し合うわ。お母様も交えてね。最終決定をくだすのに、少なくとも三日はかかると言っていたかしら。そこまでかかるのは仕方ないわね。前代未聞の事態なのだから。思うところはあるけれど……厳正な判断をしないといけないわ。ナクル、私が情に流されかけたそのときは止めてちょうだい」

「心得ました」

「それと、珠玉の国に贈る飾り杖は完成したわ。お昼過ぎにアルセが届けてくれたの。空席の賢人たちも選出しないといけないし、近いうちに雪の国から使者が来るそうよ。あちらの近況を聞けたらいいのだけど……なんにせよ、やることは山積みね」


 彼の話題は出てこない。アルエリア王代理と名乗った、エクラ=ノチェの名は。あえて避けているのか、それとも──まだ、知らずにいるのか。


「キーシャ様」


 キーシャの話に一段落ついたところで、ナクルは再度口を開く。


「アルエリア王の居場所がわかりました」


 もったいぶりはしない。その必要はない。何よりも優先的に伝えなければならないことを、ナクルは最初に口にする。今日一日で起きた概要よりも、経緯よりも、もっと大事な結論を。


「街の西、王宮にほど近い一角にある民家で、現在療養中とのことです。明日の午後、お時間が取れます。シャレル様から、出かける許可もいただいております」


 どうするかとは訊かない。わかりきった質問に時間を割くのがもったいないからだ。

 どうして知ったかも、誰から聞いたかも言わない。優先順位は、今そこにない。

 肩を怒らせ俯きながら、キーシャは大股で歩いてくる。傍に来るなり、ナクルの左手をわしづかみにし、彼女の額へと当てる。ナクルは一連の行動に瞠目どうもくするも、ゆるゆると力を抜く。キーシャの好きにさせていればいい。


「キーシャ様」


 ナクルが話し始めたとき、注視していた表情に目立った変化はなかった。


「あなたは、もう少しわかりやすい表現をしてくださっても構いませんが」

「一国の王女たる者、そう易々と感情を露わにしてはいけないわ」


 か細い声で、この強情さだ。


「今は外交の席ではありませんし、ここには私しかおりません」

「だから、借りてるじゃない」


 それでも本心からは遠い。つかんでくるキーシャの手の冷たさを思うと振り払えない。ナクルの体温で落ち着くなら安いものだ。急ぎ足でやってきたナクルも冷えてちょうどいい。そう思うことにした。

 息までも静寂に同化している。祈りが届いた安堵を邪魔するなんて野暮は、生憎持ち合わせていない。いちいち聞き耳を立てる無調法はせず、ナクルは上の空でいることに努める。

 りりり、と。聞こえるはずのない合唱まで聞こえてきた気がした。


「──ありがとう、ナクル。突き止めてくれて。お父様を、見つけてくれて」


 やがてナクルの手を解放し、染み入ったようにキーシャは言った。


「国王様を見つけよとの仰せでしたから」

「優秀な従者がいて幸せだわ」


 澄ました口調が笑みを含む。冗談を言うように。あえてそうしているのだろう。なにせ、強情が売りの、ナクルの主だ。


「今日はもうお休みください。明日、改めてお話しします」

「ええ、わかったわ。報告ありがとう、ナクル」


 潤ませた両目。小さく鳴らした鼻。本当は今すぐにでも駆けつけたいに違いない。今朝ナクルを連れて、シャレルの部屋へ向かったときと同じように。

 感情よりも理性を優先させ、己がうちで抑圧する激しい心に、いつか自らの身を焦がしてしまうのではないか。もし、抑えつけていた苛烈かれつな情が爆ぜる事態となったら、そのときは──


「キーシャ様。アルエリア王の元へおいでになる際は、私もご一緒します」


 キーシャはぱちぱちと目を瞬かせ、くしゃりと顔を歪ませて笑った。


「何言ってるの。初めからそのつもりだわ」


 ナクルから告げずとも既に決めていたと。そうでなくとも、強引に連れて行くと言いたそうに。

 知っている。ナクルは口にせずともわかっていた。それでもあえて言葉にしたのは、確たる約束を残したかったからだ。曖昧あいまいで不確定な未来ではない。必ず、果たすと。

 たとえキーシャの心が激情に焼かれようとも、その心を鎮静化させられるように。要因を排除し、許容量を超えてしまわないように。いついかなるときでも傍で守る。それは騎士の矜持きょうじではなく、ナクルの意志として。


「お休みなさいませ」と返し、隣室で待機していたキャレルにあとを託す。ようやく終わったの

かと、再び嫌な顔をされてしまったが。

 少しだけ冷たくなった左手に灯りを持ち、ナクルはその場から離れた。



  **



 くるくると。

 丁寧でありながら一切のつまずきはなく、セーミャの腕が白く覆われていく。ラスターは、包帯を巻くエリウスを盗み見た。

 言葉を交わすときはのほほんとした口調と柔らかい雰囲気に惑わされてしまいがちだが、ひとたび治療に携わるとなるとその様子はどこへやらだ。

 近寄りがたいのではない。話しかけづらいのとも異なる。人が変わったというのともまた違うが、似ている要素はある。

 彼が本来持つ雰囲気は残しながらも目は真剣で、自然とこちらも看過されてしまうような、そんな空気を持っている。不思議な集中力だ。ナキを助けてくれたときにも思ったが、治すことに関して彼は誰よりも頼りになると、ラスターは改めて目の当たりにした。

 ただ周りに請われたからという理由だけではない。推されただけでもない。この人は、なるべくして治療師になったのだと。


 エリウスがはさみを取り、包帯に切れ目を入れていく。

 さくり、と。

 最後のひと切れとともに、包帯が本体から切り離される。金属製の小さな留め具で、切られたばかりの包帯が固定された。


「はい、これでよし」


 そんなひと言を合図にして、エリウスがセーミャの腕を放した。


「ありがとうございます」

「どういたしまして。ラスターさんも、セーミャさんも、遅くなってごめんね」

「いえ。大した怪我ではありませんし、リディオル殿やユノ殿の方がずっと重傷でしたから」

「そうだね。でも、あと回しにしていい理由ではないよね」


 治療師と残っていた見習い総出で二人の治療にあたり、ようやくひと息ついてラスターとセーミャの治療をしてもらったのが今だ。セーミャの言うとおりリディオルやユノの怪我が際立っていた。だから自分の腕に関して言うのであれば、ラスターもそれほど気にしてはいなかったのだ。

 痛いと言うなら痛い。けれどすぐにどうにかなるわけでもない。放っておいてもそのうち治るだろうとすら思っていた。


「……お師匠様に似てきましたね」

「え? 俺?」

「はい。前から思っていましたけど、最近は特に。無自覚に容赦ないひと言をくれる辺りがそっくりです」

「うわ、喜んだらいいのか悲しんだらいいのか……複雑だなあ」


 気の緩んだ笑みで応えながら、エリウスは使っていた包帯や湿布を片づけにいく。立てつけが悪い棚なのか、開けるのに苦労している音がいやに目立った。

 先ほどまで治療師見習いやファイクたちがあくせくと動き回っていたのに、彼らや彼女らがいなくなってしまえば今度は静けさや広さが目についてしまう。何も変わっていない治療室なのに。いつもより寂しさを感じてしまうのは、人が多くいた名残がそこかしこにあるからだ。ようやく少しずつ薄れ、空気が馴染みかけた頃か。

 夜も深い。治療室が眠りに就くのにも、良い時間だ。

 出していた腕を引き寄せ、セーミャは腕をさする。両手首に巻かれた包帯を隠すように、白衣が羽織られた。


「痛い?」

「いえ、それほど痛みはありません。少しじんとするくらいですが、動かすのに支障はありませんよ」

「強めに縛られていたからね。支障なくても、重いものを持ったりするのは避けてください。ラスターさんは?」

「ボクも、平気」


 セーミャより先に巻いてもらった包帯を見せ、ラスターも頷いた。順番を先に譲り合った末セーミャに押し切られてしまい、ラスターが先に治療させてもらったのだ。セーミャいわく、できる範囲を自分で治療するのだと。根負けしたエリウスはそのあとでセーミャに愚痴を聞き咎められ、懇々と諭されていたのだったか。

 治療はときに早さとの戦いになる。順番も効率性についても、どちらも頷ける部分があるから難しい。エリウスとセーミャ、お互いの言い分がわかるだけに、ラスターは苦笑いするしかなかった。


「──まさか、レーシェ殿とユノ君だったとはね」


 ぽつ、と呟かれた。

 観測塔の上でシェリックに会う。本当はそれだけで終わるはずだった。

 誰かに気づかれて邪魔されるかもしれないという想定はあったし、ラスターも起こりうる事態に構えてはいた。それなのに、現実はラスターの貧相な想像を悠々と超えていき、思いがけない遭遇や発覚、再会に別れ、なんとも忙しない時間が待ち受けていた。

 決着がついたと認識して良いのだろうか。終わった実感よりも、めまぐるしく刻まれていく時間に遅れないようするばかりで、やはり解放された度合いの方が大きい。我が物顔な態度で鎮座していた緊張感が、重い腰を上げてどこかへ行ってしまったみたいに。


 レーシェのことだってそうだ。ラスターはあんなに近くにいたのに。ずっと傍にいたのに。レーシェが隠し続けていた思いも、密かな企みも、今日が来るまでラスターは何も気づかなかった。

 レーシェも、ユノも、フィノやリディオルも。みんながみんな、誰かのために動いていた。自分のことでいっぱいで、知ろうともしていなかったラスターとは違って。

 右手をじっと見つめる。つかめたのに。捕まえられたのに。放されてしまった。自分の目的ばかり優先させたラスターへの報いだと、言わんばかりに。


「どうなるんでしょうか……」

「それは俺にもなんとも言えない。シャレル様と賢人たちの判断を仰いで正式に決まるからね」

「あなたも賢人ですよ」

「言われなくてもわかってますよ」


 ラスターは右手をぎゅっと握る。息を吸って、殊更明るく。


「でもほんとに、どうなっちゃうんだろうね」


 はっと気づいたエリウスとセーミャが気遣わしげにラスターを見てきたが、気づかないふりをする。気遣って遠ざけられるくらいなら、進んで口に出した方がずっと楽だ。


「ボクも想像つかないケド……でも」


 決して無罪放免は望めない。そんなことをしてしまったら、殺されてしまった賢人たちは、傷つけられた人たちはどうなる。彼ら、彼女らの憤りはどこへ向かえばいい。正しい方法で裁かれなくては、あらゆる人に悔恨が残される。また同じ事件が起きてしまうとも限らないだろう。繰り返してはならない。もう、二度と。

 犯した罪に匹敵する贖罪を。それは、罪を犯した者が負うとがだ。


「どんな判決が出ても、ボクは見届けなきゃいけない。それが、ボクの役目なんだと思う」


 全てレーシェが──ラスターの母親が原因なのだから。


「そっか。ラスターさん、しんどかったらいつでもおいで。裏で全ての糸を引いていたのがレーシェ殿だったとしても、その責はラスターさんが背負いきることじゃない。肉親であろうがなかろうが関係ないんだ。ラスターさんより長くレーシェ殿と過ごしていた、俺たち王宮の人間にも責任の一端はある。後悔して良いのは、ラスターさんだけの特権じゃないよ」

「特権だなんて……」


 そんなつもりはない。ラスターはただ、使命を全うするだけだ。


「ラスターさんがレーシェ殿の娘だという事実は変わらない。嫌な言い方すれば、どんなときでもつきまとう。世間の非難はラスターさんに向くこともある。これからラスターさんが考えるのは、どう対処するかだけでいいんだ。責任も後悔も、俺たちに任せなさい。分担すれば、抱える荷物は減るでしょう?」

「ありがとう、ございます……」

「うん。ラスターさん自身も、大切にしてね」

「──はい。ありがとう、ルースさん」


 ラスターははにかんだ。優しい言葉をくれる人が、気遣ってくれる人が、ラスターの周りにいる。それが何より嬉しくて、ありがたい。なんて恵まれた環境にいるのだと、実感せざるを得ないのだ。


「頼りにしてくださいね、ラスター。わたしもいます」

「うん。セーミャもありがとう」


 思い詰めた心が解ける。ほろほろと。柔らかく。淡く。

 怖いばかりで縮こまってもいられない。こちらの都合に関わらず、来るものは来るのだ。ならば、備えられるだけ備えて、受けて立つしかないではないか。もう、一人じゃない。

 感じた気配をたどると、エリウスが先ほど以上に複雑な顔をして黙り込んでいた。

 何か思うことでもあったのか。それとも、ラスターがうっかりしでかしてしまったのか。言動を思い返すラスターの眼前で、大仰に落とされる肩があった。


「……ラスターさん。君までルースって呼ぶんだから……」

「あれ? ──ごめんなさい!」

「いいよ、別に。俺が言いたかっただけ。名前がふたつあるとややこしいよね」

「……気をつけます」


 エリウスは朗らかに笑った。気にしてはいないと。

 名前とは唯一その人を表す言葉であり、その人をその人たらしめる名称でもある。

 前治療師に会ったからだ、きっと。彼が話していたから、彼が生きていた頃にエリウスと呼ばれていた印象が強いから。だから呼び違えてしまったのだ。

 治療師エリウス=ハイレン。その名はもう、別の人のものだ。少し前までルースと呼ばれていた、彼の名だ。


「セーミャ、フィノは奥にいる?」

「はい。一番手前の寝台に。ユノ殿についていますよ」

「ありがとう」


 礼を告げ、ラスターは椅子から立ち上がった。




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