194,たどった軌跡、この胸に
お膳立てをしてもらった。阻む者はもういない。
ファイクに背中を押され、ラスターはシェリックと向き合っていた。
──やっと、ここまで。
ユノが発していた緊張感は息がしづらくなるほど伝わってきた。固唾を呑んで見守るしかなかった。抑揚少なく語るリディオルの言葉に、込められていた思いはどれほどだったのだろう。届いてほしいと。ラスターはひたすら祈るしか。
あのとき。ラスターはまだ冷静でいられた。当事者ではなかったから、思うさま応援もできた。いざ自分の番が来るとそんな余裕はどこへやらだ。
シェリックの顔がうまく見れない。何を話しかけたらいいのかわからない。会えたら言おうとしていたことも、何ひとつ出てきやしないのだ。
ようやく会えた。それなのに今ひとつ実感が湧かないのは、今日一日があまりに濃密だったからだろう。嬉しくないわけではないのに。会えた嬉しさより、緊迫した時間から解き放たれた安堵の方が大きい。
安堵が落ち、あるべき位置に収まってしまえば、忘れていた緊張が戻ってくる。
顔を合わせるのはどのくらいぶりだろう。声を聞いたのはいつぶりだろう。──ラスターがシェリックに殺されかけ、引き離されたあのとき以来。
黙りこくったままのラスターに、シェリックは何を思っていたのか。
ふいと。視線が外される。
「──悪い、誰かここにいてくれないか?」
動き始める彼らに向けて、シェリックが呼びかけた。
呆れられたのではないかというラスターの懸念は、どうやら外れたらしい。
「監視役か。おまえの」
「ああ。万が一のとき、抑えられる自信がなくてな」
閃いたノチェへ、シェリックは弱った声を出す。
「ラスターと話したい。だが、危険が及ぶ可能性はできるだけ排除したい。──おまえだって、嫌だろう?」
「ボクは……」
ラスターに聞いてきた苦笑いへ、咄嗟には答えられなかった。
見張りとして。これ以上シェリックが何もしないように。──シェリックの提案は、シェリックがラスターをまだ殺したいと思っているからかもしれない。浮かんでしまった想像が、ラスターをうつむかせた。こんな想像、したくないのに。
「でしたら、私が残りましょう」
す、と。手を挙げた者を追って、ラスターはおずおず尋ねる。
「でも、フィノはユノについてた方が……」
心配だろう。あれだけの怪我を負っているのだから。フィノが傍にいた方が、ユノにとしても安心できるのではないか。
「エリウス殿は治療に必要です。セーミャ殿とファイク殿は補佐に回ってくださるでしょう。医療に関して私は何もできませんから、いても邪魔になってしまうだけです」
「……オレは、構いません。一人にさせてください」
顔は腕で隠されたまま。けれど、先ほどより幾分か落ち着いた様子のユノが言い添えた。
「ありがとうございます、ユノ。それに、万が一シェリック殿が凶行に走ったとしても、私ならば止められます。まかり間違っても脱走の幇助はいたしません。お二人の用事が済みましたら、あるべき場所にお連れします。──ああ、それと私のことはいないものとお考えください。路傍の石とでも思っていただけたら」
聞けば聞くほど、フィノが適任だと思えてしまう。この役目につけるのはフィノしかいないのだとも。
それに、無視できない言い分もあった。
「石じゃない。フィノはフィノだよ」
そこにいるのに意識しなければ気づかない。気配を消すのが得意な者もいれば、不得意な者もいる。フィノはどちらとも判別しづらい。ただ、フィノがいてくれる安心感を、ラスターは知っている。
いてくれると嬉しい。フィノは石ではない。安心感を与えてくれるのは、フィノにしかできない役割だ。
「ありがとう。助かる」
シェリックがそう伝えると、瞠目していたフィノが、はっと気づいてぎこちなく笑う。
「いえ、お安いご用です。ラスター殿も、ありがとうございます。──それと、エリウス殿」
「はい?」
フィノはシェリックと頷き合う。動いたのはシェリックだ。エリウスの近くへ寄ると、おもむろに右手を出した。
「──これは?」
シェリックが差し出した右手の上。乗せられていたのは、指輪が収められていそうな小箱がひとつ。
あとからやってきたエリウスは知らない。あの小箱の中身がどんな意味を持つのかを。知っていたなら、もっと違う反応を見せていただろう。口に出さずとも、態度に表さずとも、彼も前治療師とひと目会いたかっただろうから。二度と会えないとわかっていても、その機会が訪れたのなら──やはり会いたいと望んでしまうのが人の心だ。
「想命石だ。前治療師殿の灰を使って精製した。これを、遺族の方にお渡しして欲しい」
「灰? え、これがですか……?」
「ああ」
小箱を食い入るように眺めていたエリウスは、やがて曖昧に頷く。把握できていないながらも、指示に従うのが良いと判断したのだろう。
物体はなくならない。なくしてしまうことはあっても、意図して壊したり捨てたりしなければ、存在し続ける。
シェリックとフィノは予め決めていたのだ。作った想命石をどうするか。使ったあと、誰に手渡すか。恐らく、前治療師を呼び出すと決めたときから、既に考えられていたのだろう。
前治療師が焼かれた灰を用いたなら、彼の遺品であるとも言える。手厚く葬る方法もあった。けれど、シェリックとフィノは、遺族に渡す選択をした。前治療師が故郷へ帰れるように。家族の元へ帰るのが最善ではないかと、判断されたからだ。
「──わかりました。お引き受けします」
受け取ったエリウスは、大役を拝命したとばかりに大きく頷く。
エリウスたちが近くにいたおかげで、ラスターにもようやく小箱の中身が見えた。かかとを上げ、エリウスの手元を覗き込む。
透明な蓋から覗く琥珀色の石。ラスターが持っている星命石どころか、錠剤ひと粒にも満たない大きさだ。ヒザクラの花弁といい勝負をしている。温かな橙色は、昼間に戻るのを忘れてしまった太陽みたいだ。
受け取った想命石をしげしげと眺めていたエリウスが、つと顔を上げる。見回していた目がそこにいた一人を捉えた。
「セーミャさん」
「はい?」
ファイクとともに塔を下りかけていたセーミャが振り返る。おもむろに差し出された小箱を見つけて、口を真一文字に結んだ。
セーミャは知っている。想命石がどんなものかを。その耳で聞き、その目で見た者の一人なのだから。その上で探ろうとしている。エリウスが差し出した真意を。
「俺、ユノ君運ぶから、治療室まで託してもいい? 一緒に持ってたら落としちゃいそうで。空から先生の小言が降ってきそうだ」
へらっと笑うエリウスにつられたのか、セーミャの眉尻が下がる。
「それは危険極まりないですね。わかりました。託されます」
「ありがとう。よろしくお願いします」
繊細な硝子細工を扱うように。セーミャは両手で受け取り、胸の前で抱えた。セーミャの師と、最後の旅に出るみたいだ。二人きりの短い旅程。治療室までの旅路を。
「じゃあ、僕らは先に行くよ」
「準備を整えてお待ちしていますね」
ファイクにセーミャ。
「報告は俺が行こう。名ばかりとは言え、アルエリア王だからな」
「お願いしますよ、代理王」
「変な名称をつけるなよ」
ギアとノチェ。リディオル。
「ユノ君、ちょっと響くよ」
「……構いません。──っ」
エリウス、ユノ。
一人ずつ去って行く。彼らの背中が、足音が、塔の内部へと向かって。
理由もなく引き留めたくなったのは、皆が暗闇の中に消えていくように思えたからだろうか。なんだか悲しくて、寂しい。置いて行かれてしまったみたいだ。
「大丈夫か?」
シェリックが話しかけてきたのは、エリウスたちが塔に入るか入らないかの頃だった。
あれだけ気を張っていたのに。何を話したらいいか迷っていたのに。シェリックがあまりにいつもどおり話しかけてくるものだから、緊張も躊躇いも、どこかに飛んでしまった。
「うん。ちょっと痛いケドね」
手首を擦ってみせると、シェリックは視線を落とした。
「……レーシェが捕まったこともそうだが、おまえ、レーシェに首を絞められかけてただろう?」
とても言いづらそうに教えてくれる。ラスターは首元に手を当て、すっかり冷えてしまったそこを温める。
──ああ、そういうことか。
シェリックが心配していたのは、縛られていた手首ではなかった。レーシェに首を絞められたラスターが、シェリックに襲われたときを想起させたのではないかということだ。
「──うん、大丈夫」
冷えてしまったのは手か首か。温めるどころか体温を奪い合っている気すらしていた。
「……レーシェを、庇ってないか?」
「え?」
言われた意味がわからず、一瞬ぼんやりする。庇う? レーシェを?
一拍置いた間が、どうやらシェリックに猜疑心を植えつけてしまったのかもしれない。ラスターは慌てて言い添えた。
「そんなコトないよ。苦しかったわけじゃないんだ。びっくりして声は出なかったケド、あんまり力を入れられてなかったから」
傍目にはどう見えていたのだろう。やはり、レーシェがラスターに危害を加えたように見えていたのか。でなければシェリックがこんなに話しづらそうにしていない。
シェリックにあれ以上禁術を使わせたくなかった。レーシェの所行を食い止めたかった。ラスターのなしたいことは明確で、レーシェはすぐ傍に、シェリックも声の届く位置にいた。なのに制止できず、声も出せなかったのは、ラスターが驚いて焦ってしまったせいだ。
どちらもやらなければならないと思ってしまったために、行動に待ったがかけられてしまったのだ。
初めて知った。人は咄嗟に対応しようとしても、驚きの限界値を超えると動きが止まってしまうことを。頭が働いていても手足はうまく動いてくれなくて、手足どころか口も回らなくて、余計に慌ててしまったのだ。
レーシェがなぜ本気で絞めてこなかったのかなんて、シェリックに訊いてもわからないだろう。レーシェはもう、この場にいない。ナクルに連れられて、誰より早く塔をあとにしている。
疑問を抱いても答えを知る者がいなければ、問うだけ無駄になってしまう。ならば、心に留めておくだけだ。機が熟すまで、待つだけだ。
冴えないシェリックが心の中でよぎらせているのは、きっと別件だろう。
「シェリックに禁術を使って欲しくなくて、必死だったんだよ?」
「そう、か……」
わざとおどけて言ってみせても、シェリックの返答はどこか鈍い。
「その前にユノに体当たりしちゃったし、やるならやるって言って欲しかったよ。フィノも、共犯」
「……ええ。申し訳ありませんでした」
膨れ面のラスターへ、フィノは困り顔で笑った。
「──でも、さ」
こんな感想を述べてもいいのだろうか。罰が当たりはしないだろうか。
「あのときのシェリックとフィノ、格好良かったんだ」
彼らがやろうとしていたのは禁術だったのに。切羽詰まった状況だったのに。
シェリックの堂々とした立ち振る舞いに、ユノへ応戦していたフィノの頼もしさに、見惚れてしまったのもまた事実だ。六年前は失敗してしまったけれど、次こそは。今回こそはと。
「大変なときで、止めなきゃって思ってた。ケド、ボクはきっとどこかで成功してほしいとも思ってたんだ。──ごめん」
「なんでおまえが謝る」
「……だって、止めなきゃいけなかったから。使っちゃ駄目でしょ? だから禁術って言われてるんでしょ? 反対のコト考えてちゃいけないじゃん」
成功してほしいだなんて。直接携わりはしなくとも、考えを抱くことが背徳に当たってしまう。
「俺たちが独断で行ったことだ。おまえが謝る必要はない」
「ええー、仲間外れにしないでよ」
「そういう話じゃないだろう」
「そういう話だよ」
「……ああ言えばこう言う」
「飽きないでしょ?」
こみ上げてくるおかしさから頭をもたげる。目が合ったシェリックは、穏やかに笑っていた。
他愛のない会話が懐かしい。気まずさはどこへ出かけてしまったのか。二人でラディラをめぐっていた頃に戻ったような、そんな気がした。
──もう一度。あの頃みたいに。
願ってもいいだろうか。許されるだろうか。身に余る願いごとではないだろうか。
一緒にいたいと、希求することは。
「──あとでファイクたちにお礼言わなきゃ」
口から出てきたのは、そんな当たり障りのない話題だった。当たり障りがなかったとしても、ラスターが彼らに感謝の意を伝えたいのは本当だ。
ファイクは笑顔で受け取ってくれそうだ。グレイは気にするなとあっさり手を振りそうだ。ナキはきっと、借りを返しただけだとつれない態度を取るだろう。ラスターの脳裏に三者三様の対応が思い浮かぶ。
紆余曲折あったけれど、ラスターが無事にシェリックと会えたのは、彼らのおかげに違いない。こうしてシェリックと会えるまで、彼らはどれだけ奮闘し、腐心してくれたのだろう。
返ってくる反応に想像がつくほど、いつの間にか彼らとも一緒に過ごしていた。
ラスターがアルティナで過ごした時間は、確かに蓄積されている。薬室も、薬草園も、治療室や観測塔だって、もう迷わずに行ける自信がある。
あの頃と変わったことも、変わらないものも。両方持ったラスターがここにいる。
「ラスター」
横を見れば、下げられた頭が目の前にあった。
「──悪かった。幻覚を見せられていたとは言え、俺はおまえを殺そうとした。謝って許されることじゃないが、本当にすまなかった」
ぎこちない謝罪。躊躇いがちな会話。空いた距離。浸っていた追憶は、一瞬のうちに消されてしまった。
大元にあるのはシェリックが抱いている罪悪感か。
笑いかけて、ぐっと堪えた。そんなことないと、今ここではぐらかしてはいけない。ラスターがはぐらかしてしまったら、シェリックの本音に向き合えない。一緒にいれば、見えてくるのは良いところばかりではない。悪いところだって見えてしまう。
笑顔は人を安心させるためにある。もう大丈夫だと、何も心配いらないと。不安に埋もれている人を掬い上げるために。落ち込んでいる人の心を軽くするために。
笑顔でいることが大切なときもある。今に限っては、そのときでないだけだ。
本当の心を、言葉を、笑顔で隠してはいけない。
ラスターは首に触れる。目を閉じて呼び起こす。あのとき感じた思いを、言葉にするために。
「……怖かった。あのときシェリックに、本当に殺されちゃうんじゃないかって思った」
虚ろに絡みついた目が、ひどく歪んだ笑みが、無遠慮に伸びてきた手が。ラスターではない誰かを見ているようで、それでも発せられる殺意は明確にラスターを刺してきた。
逃げられなかった。動けなかった。シェリックと、初めて最果ての牢屋で会ったときと同じ──いや、それ以上に。あのときよりも輪郭と質量を伴った殺気が、ラスターをわしづかみにして放さなかった。
「もしフィノが駆けつけてくれなかったら……今こうしてシェリックと話すコトもできなかった。本当はね、出会ったときから、初めからずっと、シェリックに恨まれてるんじゃないかって思ってた」
「思うわけがない。俺がおまえを恨むなんて、あり得ない」
ラスターが言い終わる前に。シェリックは即答した。
「それは、なんで?」
ずっと、訊いてみたかった。
リディオルにも言われたのだ。シェリックがラスターを恨むことは、万にひとつもないと。──星にかけて誓ってもいいと。
よほどの確信と自信がなければ、そんな文言は出てこない。それも、リディオルだ。はぐらかせもしただろうに、あえて真っ向から断言した。
「シェリックは、どうしてボクを恨まないの?」
どれほどわがままを通したかわからない。シェリックに情けない姿を晒して、困らせて、負担ばかりかけ続けてきただろう。「あり得ない」と断言されるに値する根拠を、ラスターは持っていないのに。
「恨むどころか」
シェリックは言葉を切る。
「俺はおまえに感謝してるんだ、ラスター」
ノチェに告げていた思いと同じように。
「ボク、何もしてないよ」
感謝だなんて。大仰に告げられても、とんと心当たりがない。
「俺を最果ての牢屋から連れ出してくれた。アルティナに戻ってきたおかげで、レーシェと再会できた。六年前の懺悔を聞いてくれた。おまえが気づいていなくても、俺はおまえに助けられたんだよ」
弱り顔をするしかない。
「でも、ボクじゃなくたって誰にでもできたコトだし……」
「そうかもしれないな。だが、俺の傍で助けてくれたのはおまえだよ。他の誰かじゃない。ラスター、おまえだった」
「大げさだよ」
「大げさじゃない」
気圧される。真摯な思いに。シェリックの真っ直ぐさに。
大したことではない。難しくもない。たまたまそこにいたのがラスターだっただけだ。
「──リディオルがね、教えてくれたよ。シェリックがボクを恨むなんて、絶対ないって」
どうしてあのとき、リディオルはわかっていたのだろう。シェリックが必ず否定すると。リディオルも未来が見えているのではないか。いや、それよりもシェリックを正しく理解しているのか。
「なんか、悔しいなあ。リディオルはシェリックのコト、なんでも知ってるんだもん」
リディオルの方が、ラスターよりずっとシェリックについて詳しく知っている。ラスターとリディオルでは、シェリックと知り合った年月に差があるのだとわかっていても、やはり悔しい。羨ましくて、妬んでしまう。
「俺は、セーミャ殿が羨ましい」
「セーミャ? どうして?」
なぜ、セーミャの名が挙げられるのだろう。
自分が持っていないものを他人に見つけて、羨ましがるのだったらわかる。けれど、賢人の地位も、彼女の師と会うための術も、シェリックは持っている。羨ましがる理由なんてないではないか。
「さあな」
シェリックは笑うだけで語ろうとしない。教えてくれたっていいのに。
「フィノは? 何か知ってる?」
ラスターは標的を変え、勢いよく振り向いて訊いてみるも、フィノから首を振られてしまった。
「私からはなんとも申し上げられません」
知っているのかいないのか。判別に困る笑い方だ。
「ラスター、フィノを巻き込むな」
「だってシェリック、教えてくれないじゃん」
「推測してみたらどうだ」
シェリックがセーミャの何を羨ましいと思っているのか。ラスターは、思いつく限りのセーミャを脳内に描いていく。浮かべたセーミャと、眼前のシェリックを照らし合わせて。さて、異なるところを挙げるなら。
「……笑顔?」
「なんでだよ」
どうやら違ったようだ。
セーミャには師がいた。師を慕い、傍らで教えを受けていた。シェリックにはノチェがいた。信頼していた様子は、二人のやり取りから窺えた。
導く者がいたか、いなかったか。シェリックは、本当にそれを羨ましがっていたのだろうか。
「──おまえは、王宮から出ていくのか?」
他に何かないかと唸っていたラスターに、シェリックはそう尋ねてきた。
「それはお母さんが勝手に決めてたコトだよ。ボクは承諾してない。──お祖母ちゃんが待ってるから、いつかは帰るケドね」
いずれはここから出ていくだろう。故郷に戻るために。いつかはきっと。けれど、まだそのときではない。
美味しい土産と、ひと晩だけでは語りきれないほどの土産話をたくさん持って、祖母の元へ帰るのだ。想像した未来の中で、ラスターは祖母と再会したのが見えた。満面の笑みで迎えてくれた祖母に抱きついて、長く出かけていたことを詫びて、ラスターは。
「シェリック」
「ん?」
話してもいいだろうか。夢見たことを。
「ボクの旅は終わったよ。お母さんに会えたから、それでおしまい」
最果ての牢屋で出会って。シェリックと一緒に歩いてきた。母親を探し出すために、ここまでやってきた。シェリックはついてきてくれた。海を渡り、アルティナへたどり着いて、ラスターは目的を果たすことができた。
息を吸い込む。伝えてもいいだろうか。描いた未来で笑っていたことを。隣にシェリックがいたことを。
「だから、ここから先はボクが自由に決めていいんだ」
どこへ行くか。何をするか。どうやって向かうか。──誰と歩んでいくか。
握った手が汗ばむ。左足で一歩跳ぶ。開いた右手を前に伸ばす。
「えい」
「……ラスター?」
退きかけたシェリックの腕を、ラスターは難なくつかみ取った。
「何するんだ」
「良かった。触れた」
息を呑む気配が、した。
二度と触れられないのではないか。拒絶されてしまうのではないか。手に触れるたったそれだけが、ラスターには一生分の勇気を使い果たすくらいの気持ちと同義だった。でもこうして触ることができる。ラスターの近くにシェリックがいる。それが、堪らなく嬉しかった。
触れられた。やっと、届いた。
「ねえ、シェリック──」
だから気づかなかった。
呼びかけて、顔を上げるまで。
ラスターは気づけなかった。
シェリックがなんとも言えない顔をしていたことに。
一緒にと。言いかけた言葉が引っ込んでしまう。悲しい顔をさせたかったわけじゃない。暗い気持ちにさせたかったわけでもない。
ラスターを恨むことはないと言った。恨みはせずとも、殺意がなくとも、別の思いを抱かせてしまったのではないか。
終わってほしくない。こんなところで。おしまいにしたくない。夢などではない。シェリックはラスターの眼前にいる。やっと再会できたのだ。なのに。
「シェリック」
もう一度呼びかけたラスターへ、シェリックは首を横に振る。ゆっくりとした動作で。そこに、覆せない決意を秘めているみたいに。
目の前にいるシェリックが、こんなにも遠い。
「──もうその名前は、俺のものじゃない」
そうして彼は。
「今度こそさよならだ。ラスター」
謝罪と別れを告げて。
届いたその手はそっと放された。
八章 了




