193,月影に響く慟哭
力なく笑うレーシェへと、ナクルが音もなく近寄る。まるで、そうすることが彼の使命であったみたいに。
「お連れします」
「ええ」
──ああ、行ってしまう。
ふたつの背が遠ざかる。止める者は誰もいない。皆がわかっている。これでおしまいなのだと。
終わりを認識した途端、ラスターの身体は勝手に動いていた。よろけながら伸ばした膝も、数歩走った足も、なぜ動けたのか覚えていない。
一心だった。
胸の内側から急き立てられるような衝動に、従わなければならないと。気づかぬふりをしていたなら、また後悔してしまう。あのときああしていれば良かったと。
やらずにいた悔恨ほどどうにもできない反省はない。
後悔したくなかった。わからないままでいるのが嫌だった。
答えを求めて追いかけるよりは、今聞いてしまいたい。
離れていく背中が、何も言えなかったあの頃を思い出したからかもしれない。今度こそ、と。
「お母さん」
あのとき届かなかった彼女へ。
何か言えるならば、今をおいて他にないと。
去りかけた二人が、示し合わせたようにぴたりと止まる。半身だけ振り返ったナクルに、ラスターは無言で訴えた。レーシェと話したいと。
一人振り返らない彼女の背は、ラスターをも拒んでいるようだ。
けれど、レーシェは止まってくれた。聞かない意志を貫くなら、ラスターなど気にせず立ち去ってしまえたはずだ。聞いてくれる。余地はある。顔を見せてくれずとも。
怖じ気づいた心はいらない。躊躇いを乗り越える勇気だけあればいい。
「あのとき、お母さんがボクに許さないでって言ったのは、ボクを置いていったコトだけじゃない。お母さんが賢人になるために毒を撒いて、その薬を作って治した。関係ない人たちを巻き込んだやり方に対してだよね?」
ずっと聞けずにいた疑問を、改めて問いかける。ラスターが知りたかった答えは、まだ聞けていなかった。
彼女は全て引っくるめて許さないでと言ったのではないか。他の誰もが許しても、ラスターだけはそのやり方を──人を傷つけてまで賢人になったレーシェを許してくれるなと。彼女はそう伝えたかったのではないか。彼女が歩いていた道は誤りであると、既に認めていたのではないか。
自らの非と罪を認めた上で。戒めのひとつとして。彼女が犯してしまった罪を彼女自身が忘れないようにと。彼女は最後まで、許されずにいたかったのではないかと。
「さあ……どうかしら?」
レーシェはひと言だけ口にする。
再度尋ねようとするも、レーシェがそこから進む方が早かった。ナクルが目礼だけしてあとに続く。
結局、最後までわからずじまいだった。ラスターの前からいなくなってしまったとき、レーシェが何を思っていたのか。なぜラスターにあんな言葉を残したのか。知るべきではないということだろうか。あるいはラスターだからこそ、言わなかったのだろうか。
ラスターだったらどうするだろう。もしレーシェの立場にいたなら。やはり、同じことを言い残しただろうか。
「──っおい、リディ!」
焦りを含んだ呼びかけに引き戻される。膝を折るリディオルに一拍遅れて、シェリックも屈むのが見えた。
応答なく喘鳴するリディオルのこめかみに、大粒の脂汗が浮かんでいる。ラスターがいるこの距離からでもはっきりと見えた。
もはや気力だけで保っているのだろう。いつ力尽きてもおかしくない。目の前にちらついているであろう一線を越えてしまわないよう、瀬戸際にしがみついて。その手が離されるのはまだかと、大口を開いた奈落が待ち構えている。
「だからおとなしくしとけっつったんだよ。おまえ、死ぬぞ?」
苛立ったギアが叱責する。喘いでばかりいたリディオルが、口の端を持ち上げた。
「……縁起でもねぇわ。俺はやることがあんの。ちょっとつきあえよ」
決して引き下がろうとはしない発言に、ギアが心底嫌そうな顔をした。
「だったら最後まで気ぃ持ちやがれ。倒れでもしたら捨て置くぞ」
「好きにしろよ」
悪態をつくギアはそれでも肩を貸したまま、リディオルが立ち上がるのを支える。邪険になりきれないのはギアの美徳か、あるいは瑕疵か。ギアならば、死の淵にいる人間でも引っ張ってこれそうだ。
シェリックはリディオルの背後に控えている。手を伸ばせばいつでも届く位置に。
ここまで叱咤激励を体現する人たちも珍しい。言葉だけでは示せないからか。面と向かって言えないからか。
リディオルはギアを促して歩き始める。歩く、というより引きずられていく、と表現するのが正しい。向かう先にいた面々が顔を上げる。苦しそうに肩で息をしているユノと、ユノの腕についた血を拭いているエリウス、傍らでユノの手を握るフィノだ。
リディオルの動きに釣られて、ラスターも彼らの元へ寄る。怪我は大丈夫だろうか。リディオルもユノも、遠目からでは怪我の程度も把握できない。
立ち上がったエリウスがリディオルの進路を塞ぐ。
「リディオル殿」
「──少しでいい」
「せめて座ってください」
「そのつもりだ」
苦言を呈したエリウスを制し、リディオルは倒れ込むように座った。ユノの枕元へと。
リディオルの強情さに諦めたのか、エリウスは元いた位置──リディオルの右隣へと収まる。
何をする気だろう。ただ話をするにしては、おかしな緊張感が漂っていた。
「──よう、ユノ。殺し損ねたな。俺はまだ、生きてるぜ?」
物騒な挨拶が聞こえ、ラスターはぎょっとしてリディオルとユノを見比べた。
──殺し損ねた? 誰が、誰を?
ユノの傷はレーシェによるもの。では、リディオルが負った傷は? 答えは自ずと導き出せる。
それに、レーシェが話していたではないか。ユノがリディオルを殺したと。ユノの役目は終わったと。リディオルが満身創痍なのは、ユノのせいであるのか。
薄く開いたユノの目が、億劫そうにリディオルを捉える。瞬きひとつの間に、ユノの眉間にしわが刻まれた。
「みたい、ですね……」
変な空気が流れている。息がしづらい。口を挟もうにも挟みがたい。燃やされた敵愾心がユノに疑いを持たせている。話すだけで終わりはしないと。
あれだけ軽口を言い合っていた二人だったのに──ユノが、リディオルを値踏みするように眺めている。恐らくは、話しに来たリディオルの真意を探ろうと。気を許してはならないという決意さえも立ち上らせて。
「悪運は強いようで……羨ましい限り、です……」
「おまえが甘いんだよ」
仲違いするのではないかと思ったのだ。リディオルが、ユノと。問い詰めて、理由を聞いて、二人は離れてしまうのではないかと。
思っていたのと何か違う。リディオルは、本当に話をするためだけの理由でやって来たのか。気息奄々になりながらも、それでもなお。
息も絶え絶えに会話する二人を、ラスターは見守ることしかできずにいた。
「最後の、言葉……あれは……どういう、意味ですか?」
突き放した物言いがリディオルへ返される。合わせようとしない目は薄くなった情の表れか。
ぎくしゃくしたユノに気づいているだろうに、リディオルは動じた様子がない。動じる間もないほど取り繕うことに精一杯なのか。表面からでは推し測るしかない。
「おまえは、俺と違うって……当然じゃ、ないですか……嫌み以外の、なんでもありませんよ……」
口の端でユノが嘲る。あと一度でも触れたら、壊れてしまいそうな脆さで。
「俺は、風を操ることしかできない」
シェリックに背中を、ギアに肩を支えてもらいながら、リディオルはそう言った。
雨を呼び、嵐を起こし。世界の端から端まで旅をさせる。
リディオルは、船上で風を自在に操ってみせた。自らの手足を動かすように、こともなげに。いついかなるときでも呼び寄せられる。地上だろうと、海上だろうと、そこに風があるならば。
「雨を降らせて……天候を意のままに、できるじゃないですか……十分です」
ユノの声がか細くなる。先ほどより、ほんの少しだけ。
怪我を負っているからだけではない。ユノがリディオルを殺しかけたというのなら、まだその気まずさを引きずっているだろう。
漂う空気は海よりも深く沈んでいる。一片の風すら届かない、地底よりも深いところで。
「俺は、魔術を作り出せない。おまえみたいに」
「──」
ユノの口が縫い止められる。声なく繰り返される呼吸だけが、ユノに与えられた言葉であるかのように。
皆目見当もつかないラスターとは違って、ユノには思い当たる節がある。でなければ、即座にリディオルを否定していただろう。
「だから俺は、おまえを天才少年と呼んでいた。俺は……既に存在している事象を、動かすことはできる。けど、それだけだ。おまえみたいに、何もないところから魔術を生み出すことはできない。存在していない事象を、作り出せはしねぇんだ」
リディオルは風を操れる。ラスターもその身を以て体験したから覚えている。けれど、リディオルは風を作り出すことはできないのだという。初めからあったものを、動かすだけだと。
ないものはない。あるものならば動かせる。
言われてみれば、なんて単純な理屈だろう。
そこにあったとしても、手も触れずに動かすなんて芸当は普通ならばできない。人知や技術をも超えた力。それが魔術だ。ラスターには、リディオルもユノも凄いと思うのだ。そこに優劣なんてないのに。
ぎり、と。噛みしめられる音が聞こえた気がした。
「……どうして今……そんなことを、言うんですか」
振り絞られる。まだ足掻くのだと、言わんばかりに。
「今しかねぇからだよ」
あとにも先にも。伝えられる機会は、この瞬間にしか。
「──聞きません」
「いいから聞いとけ」
「嫌です」
「耳だけ貸せっつってんだよ」
「聞きたく、ありません……!」
「なら、どっちでもいい。ただの独り言だから」
聞きたくなければ聞かずともいい。リディオルは言う。ただの独り言だと。勝手に喋るだけだと。
ユノはリディオルから顔を背け、フィノを振り払った手で耳を塞ぐ。
リディオルはそっと、口を開いた。
「虚仮にした覚えも、見下したこともねぇよ。ただの一度も。おまえは紛れもなく、天才だ。魔術師に──賢人になれるほどの逸材だよ」
聞こえないはずがない。ユノには一字一句、余すことなく聞こえていただろう。本当に聞きたくなかったなら、脇腹を押さえている手も使うべきだった。
ユノは、本当は──
「──うして……放っておいて、くれないんですか」
「放っておきたくなかったからだよ」
「なんでオレに……ずっと……っ、あなたを恨ませてくれないんですか……!!」
「俺が恨んでないからじゃねぇ?」
殺しきれなかった息が漏れる。引きつれる音がする。声にならない悲鳴がユノの口から溢れた。
絶叫より、号泣より、もっと、ずっと、痛々しい。滂沱の涙がなくとも、人にはここまで悲痛な思いが表せるのかと。持ち上げたユノの手が顔を覆うまで、さほど時間はかからなかった。腕で隠される直前に、ユノの顔がくしゃりと歪んだ。
シェリックに説かれても、フィノに諭されても。崩れずに保っていた壁は、呆気なく決壊した。
本当は、と。嗚咽混じりに吐き出された言葉がある。
「──ずっと、ずっと……憧れていました。魔術を、自由に使えるようになりたいと……あなたみたいに、なりたいと……っ」
「不細工な声してんじゃねぇよ……とっくに知ってるっつーの」
常と変わらない。特別優しいわけではない。
「すいませ……した……!」
「構いやしねぇ。俺は、おまえの成長ぶりを見せてもらっただけだ。上出来じゃねぇの?」
震えるユノの肩を叩き、徐々に前のめりになる体勢とかすれる声で、リディオルは言った。
「早く治せよ。待ってる。戻ってきたら、遠慮なくしごいてやっから」
「はい……っ」
腕で隠されたユノの表情は見えない。隠れていても、見えずとも、簡単にわかる。
湿った声も、引き結ぼうと努めた唇も、御しきれなかった感情も。痛いくらい伝わってくる。咽び泣くユノを、リディオルは嘆息して眺めていた。
なにげなく目をやって──気づいてしまった。リディオルの顔色は、蒼白を通り越して土気色になっていたことに。
「……ったく……手のかかる、奴──」
「──っ、おい!?」
そのひと言を合図に、リディオルから力が抜ける。慌てたシェリックが両腕で支え、隣にいたフィノも手を貸す。そのおかげで事なきを得たが、リディオルの目蓋は固く閉ざされたあとだ。
リディオルの首筋に手を当てていたエリウスが、確と頷く。
「大丈夫、意識を失っただけです」
途端、張りつめていた空気が弛緩した。治療師の見立ては、百の論理にも勝る。
「……おまえも人のこと言えないだろう」
既に聞こえてさえもいないリディオルを、呆れ果てたシェリックがそう評する。
「師弟揃ってこれじゃあ、世話ねぇな」
「──お二人の手当をしないといけませんね」
いつの間に。ラスターの隣に屈んだセーミャが、ユノとリディオルの顔をじっと覗き込んでいた。膝に置かれた手首に、セーミャを縛っていた縄はない。
「ラスター、怪我はないかい?」
背後からやって来たファイクへ、ラスターは首だけ振り向いて答える。
「うん、ボクは大丈夫」
膝に手を突いていたファイクが、ほっとした様子を見せた。
「そっか。なら良かった」
「ファイクは? どこか怪我したの?」
「えっ、いやいや、誤解! 僕は問題ないよ! 何もしてないし!」
両手を必死に振ってファイクは否定する。
「うん……何も……」
口にしたあと、ファイクは自らの言葉でへこんでいた。言葉というものは、使いどころが大切である。
「何もしていないなんて嘘ですよ。わたしの縄を解いてくださったじゃないですか」
ファイクだったのか。いつの間にかなくなっていたセーミャの縄を解いたのは。独りでに解ける結び目ではなかったから、きっと誰かが解いたのだろうと思っていた。
「僕、それしかしてないですよ……」
「とても助かりました。ありがとうございます」
セーミャが深々と頭を下げ、お礼を述べた。
「──わかってるだろうな?」
「ああ。覚悟はできてる」
離れたところにいたノチェとシェリックの会話が聞こえてくる。レーシェにとってそうだったように、シェリックにとってもノチェは大切な人だったのだろう。彼らの再会を邪魔してはいけない。
邪魔するつもりはないけれど──気にもなる。
視線の先にいたシェリックが返事をした。
「ならいい。通達を待て」
「ノチェ」
離れようとしたノチェを、シェリックは引き留める。
「あんたに出会えて良かった。俺に名前と占星術師の地位をくれたこと、星命石を貸してくれたこと、感謝してる」
「それは重畳。おまえが成長してくれて、俺は嬉しいよ」
「ああ。ありがとう」
意外な顔をして、ノチェは立ち尽くした。
「──おまえから感謝の言葉が聞けるとは思わなかった。嬉しい誤算、ふたつ目だ」
「いくら言っても言い足りないくらいだ。あんたがいなかったら、今、俺はここにいない。ありがとう、ノチェ」
「こちらこそ。幸甚の至りだ」
シェリックは子どものように笑う。屈託なく、全身で嬉しいと表現しているように。
ノチェの前ではずっとあんなふうに笑っていたのかもしれない。シェリックも、そんな表情で笑うのだ。
「一度、ここから下りましょうか。治療するにも、道具も設備も足りないですし」
エリウスの提案に、誰からともなく頷いた。
両手を握って、開いて。動けるかどうかを確認していたセーミャが、エリウスに手を挙げる。
「わたし、先に下りて皆さんにお伝えしてきます」
「うん、お願いします。俺はリディオル殿とユノ君連れて、あとから行くよ」
「わかりました」
「薬は足りる? 僕は薬室に寄って持っていくよ。グレイやナキがいたら御の字だ」
エリウスとセーミャの会話に交じり、ファイクも名乗りを上げる。
「ありがとう、助かります」
「ギア」
「そう来ると思った……連れて行きゃいいんだろ」
「ありがとうございます」
次々と役割が決められていく。一歩出遅れたラスターを置いて。
「あの!」
「ラスター」
申し出ようとするより早く、セーミャに緩く首を振られてしまう。歩み寄ってきたファイクに、肩をがしっとつかまれた。
「わっ、なに……?」
「いいから、君は別。なんのためにここまで来たのさ」
「そうですよ」
変えられた方向の先。そこにいた彼と目が合わさった。
彼はゆっくりと、ラスターの元までやってくる。
「少し、話せるか?」
「──うん」
目の前に立つシェリックを見上げ、ラスターは首を縦に振った。