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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
八章 アルティナ王国Ⅴ
190/207

190,望んでいたのはあなただけ


 シェリックに促されたフィノは、ラスターがこれまで見たことがないほど憔悴しょうすいしきっていた。ナクルとのやり取りで、数年の時が早回しされたみたいだ。まるで、局所的な時間の経過が、フィノだけに訪れたかのよう。

 誰かに心を砕き、守るというのがどういうことか。フィノが心に秘めていた思いの強さは、ユノと似た激しさだ。いや、フィノが似ていたのではなく、ユノがフィノに似ていたのかもしれない。

 公にされたフィノの内面は、これまでラスターが知らなかったものだ。ユノの主張を先に聞いていたから、似ていると思ってしまった。


 産まれてきたのはユノよりフィノの方が早い。ユノは長らく、フィノの背中を間近で見続けていただろう。

 年の差は数年。大人になればさしたる違いはないのに、幼い頃はわずかな差ですらも大きな比較とされてしまう。数ヶ月、数日。たった数刻さえも、経験の違いが蓄積されていく。前を行く人の背があまりに大きく、決して越えられない壁であると認めてしまうのは、自然の流れだろう。


 ラスターに兄弟や姉妹はいない。けれども祖母には絶対に敵わないと思っている。ユノとは違えど、似ている部分もあるだろう。

 追いかける背中に届くのはいつなのか。届く日は果たしてやってくるのか。想像もつかない。

 引き下がるフィノの背に、不可視なはずの無念さが浮き出ている。どうすれば消せるのかと考えたラスターとは裏腹に、フィノ自身は消すことを求めていないように思えた。ユノならば、フィノの考えに理解と共感を示すかもしれない。浮き出た無念さを、跡形もなく消し去ってくれるほどに。


 項垂れたフィノが拒んでいる。誰も、何も、干渉してくれるなと。

 あれだけ堂々としていたのに。ユノを守ろうと立ちはだかっていたのに。フィノの背中が、ラスターにはとても小さく見えた。


「あなたたちは甘いわね」


 その背へと、追い打ちがかけられた。


「甘ったるい考えばかり。聞いていて胸やけがするわ。私が憎いなら短剣を拾って、私に突き立てればいいじゃない。他人からの横やりでやめるなんて、意志薄弱だわ。あなたが持つユノへの絆は、そんな薄っぺらなものだったのね」


 レーシェは身体の前で腕を抱え、悄然しょうぜんとしたフィノを嘲笑う。触れることを躊躇ちゅうちょさせるような、蠱惑こわく的な笑みでもって。

 フィノは奥歯を噛みしめる。消化しきれなかった衝動が表面化しないよう、そこで耐えているように思えた。


「──本音を言うならば、今すぐにでもあなたをこの手でくびり殺して差し上げたいところです」

「なら、そうすればいいでしょう? 躊躇ためらう必要がどこにあって?」

「あなたは!」


 混ぜ返そうとするレーシェへ、フィノの叱責が飛ぶ。進み出ることはない。フィノを押さえるシェリックの右手と、レーシェの前に立つナクルがそれをさせない。進んではならないと、フィノ自身もわかっている。

 一度息を整え、フィノは苦々しく言った。


「……ラスター殿の母親です」

「ええ、そうね」


 改めて指摘されるまでもなく、事実だ。


「──仮に私が衝動のままにあなたを殺してしまったとしましょう。一番悲しむのはラスター殿です。それすら予測していなかったとは言わせません」


 怨嗟えんさの声。射すくめられそうな態度と直に接しても、レーシェはどこ吹く風だった。


「有り難すぎる配慮に涙が出るわ。とうに枯れたと思っていたけれど、私にもまだ残っていたみたいね」


 どこまでも優雅に、上品に。遊ばれた髪を耳にかけ、レーシェは艶然えんぜんと微笑む。

 フィノはこう言った。もしフィノがレーシェを殺してしまったなら、一番悲しむのはラスターだと。

 ──今、二人の会話を聞いているだけで、ラスターはこんなにも胸が痛いのに?

 どうしたら止められるだろう。レーシェの全てを頓挫させるには、どうしたら。何をしたならば、諦めてくれるだろう。

 思いつかない。妙案は、何も。


「魔女と呼ばれてまで、おまえは何がしたかったんだ」

「不名誉みたいに言わないでほしいわ。私は気に入っているのだから。毒使いの魔女だなんて、素敵でしょう?」

「答えろ、レーシェ」

「──ねえ、シェリック。あなたには感謝しているのよ」


 質問には応じず、レーシェは靴音を鳴らす。シェリックは自らの疑問を押し込め、代わりにレーシェへ聞き返した。


「感謝?」

「ええ。あなたのおかげで、占星術師の席が空いた。賢人を剥奪されたあなたが、二度目の禁術も犯した。今度こそいなくなってくれるのでしょう?」

「……何を、言ってるんだ」

「あなたの抜けた場所に、あの人が帰ってこれる。これでやっと、あの人が戻ってきてくれるわ」

「違うよ」


 ラスターは反射的に口を挟んでいた。総毛だった腕をつかむ。震えた語尾を悟られないように。注意が逸れる。視線が集まる。シェリックも、レーシェも、ナクルも、フィノたちでさえも。誰もがラスターに注目する。

 見返すのはただ一人。あでやかに佇むレーシェだけ。


「シェリックがいなくなっても、その人は帰ってこない。シェリックがいなくなるコトと、その人が戻ってくるコトは繋がらないよ。だって、その人は……ノチェは……」


 レーシェが望んだ人物は。


「もう、死んじゃってるんだよ?」


 亡くなった人がどう帰ってくるというのか。シェリックが前治療師を呼び出したように、禁術を使わなければ言葉を交わせない。姿も見られない。声も聞けない。死者と会うなんて、夢のまた夢だ。


「死んじゃったらそこでおしまいだよ。お母さんだって、わかってるんだよね! だから、お母さんは六年前、シェリックに呼び出してもらおうとした。そうじゃないの? ケド、呼び出せなくて、失敗しちゃった。ノチェを呼び出せないコトはわかってるんでしょ? なのに、どうしてこんな、みんなを傷つけるコトばっかり……」


 痛い。胸につかえる塊も、喉に刺さったまま出てこない言葉も、大声で叫びたくなる衝動も。悲しくて、苦しくて、やるせないのだ。


「どうしてこんなコトしたの? 村に毒を撒いて、シェリックも、ユノも、フィノも傷つけて、お母さんはどうしたかったの……!」


 高ぶる思いに任せて。勢いだけで吐き出して。言い切って。直後──後悔した。


「──会いたかったのよ」


 激高していた頭が冷える。笑みもなく、無関心を装うでもなく。ぽつりと返されたそこに、魔女の顔はなかった。


「あの人に。前代のシェリックに──エクラに。会いたかった。ここに来るために故郷を犠牲にもした。あなたたちが憎んでいたのがエクラだと知っていたから、あの人に危害が及ばないように、シェリック、あなたを恨ませた。まさか、フィノとあなたが知り合いだとは思わなかったけれど」


 レーシェは静かに語る。鳴りを潜めた狂気。真摯で一途な思いに揺らぐ。どちらが本物のレーシェだろうかと。


「……それだけのために、私たちを利用したということですか?」

「それだけ? 私にとってはそれほど価値のあることよ。フィノ、あなたがユノを守りたいように、私もあの人に会いたかった。何に変えても、どんな手段を使っても、何を犠牲にしても、ね」


 どうしてレーシェが──ラスターの母が、村の水源に毒薬を落としたのか。ラスターを置いて出て行ってしまったのか。禁じられているとわかっていながら、死者を呼ぶ術を求めてしまったのか。

 それが全て、ただ一人に会いたいがために? 誰も彼も利用して、自らの目的を達成したいがために?

 地面に突いていた手の甲に、ぽたりと水滴が落ちる。唇が震えてそれどころではない。


「私にはあの人がいればいい。あの人に会えるなら、それだけでいいわ」


 勝手だ。なんて身勝手なのだ。

 霞んでしまった道でも、向かってはいけない方向くらいはわかる。涙をぬぐい、ラスターは目に力を込めた。


「勝手だよ、お母さんは。誰よりわがままだよ!」


 誰が言っても届かないなら、ラスターが届けなければならない。赤の他人の言葉を聞けないというのなら、ラスターが伝えなければならない。ラスターこそが、彼女をとがめなければならない。それが、彼女の娘であるラスターの役目だ。


「毒を撒いたコトも、いなくなったコトも、全部! 村のみんなが怒ってないって言ったら……嘘だケド、みんなそれ以上に理由を知りたがってた。亡くなった人には会えない。お父さんに会えないのは寂しいよ。寂しいケド、星はずっと巡ってる。今ここで呼び出しちゃったら、星の巡りから外れちゃう。そしたら、二度と会えなくなるんだよね?」


 禁術を使って呼び出した者は、星の巡りに戻れなくなる。命の循環に戻れず、消滅してしまう。

 前治療師の場合とは勝手が違う。ここに、ノチェの想命石はない。無理を通して呼び出してしまったなら、ノチェの魂は今度こそ跡形もなく消え去ってしまう。見上げた夜空に、彼の星はない。


「生きてたらもう一度会える。星がもう一回巡り合うのは、作り話だけじゃないよ」


 死した魂が時を経て再会を果たすのは、おとぎ話だけではない。星の巡りが永劫続くならば、いつかどこかですれ違うこともあるだろう。

 どこかで邂逅かいこうを果たしているのではないかと思うのだ。たとえ記憶はなくとも。


「……そうかもしれないわね」


 しゃがんだレーシェに、ラスターは抱きしめられる。

 かつて泣きじゃくっていたラスターにしてくれたように。優しく包み込まれる。


「お母さん……」


 冷徹な表情を崩さずにいたレーシェが苦笑した気配があった。花開くように。淡く綻ぶのを感じた。

 ほんの少しだけ、すくえただろうか。巣くわれている狂気の中から、レーシェを掬い上げられただろうか。


「知ってるわ。やりたいことだけを押し通してきたのだもの。重々承知しているわ。でもね、ラスター。私は魂だけのあの人に会うことは望んでいないの。あの人の思いも、記憶も、残されたあの人に会いたいのよ。大丈夫、これで終わりにするから」


 意味するところがつかめず、ラスターはレーシェを見上げる。柔和に微笑むレーシェは、ラスターの傍にいてくれた母親だった。

 戻ってきてくれたのか。彼女は。元のレーシェに戻ってくれたのか。

 ついと顔を上げ、レーシェはシェリックたちを向いた。


「ねえ、シェリック。あなたはもう一度、禁術を使ってくれるかしら」

「──よせ」


 ラスターはくるりと体勢を回される。レーシェに抱きしめられたまま。狼狽ろうばいしたシェリックと目が合う。異変に気づいたナクルが振り返る。みんなが見える。背中側にいるレーシェ以外。巻きついたレーシェの腕。抱き締めるにはおかしい位置。


「お母さん……?」


 ラスターは何をさせられるのだ。


「二度やったなら三度目は容易いでしょう? 試してみる価値は十分にあるわ」


 試すとは、何を──


「──っ!」


 答えを知るより、尋ねるより早く教えられる。圧迫された喉が、驚きに跳ねる。声が出ない。何が原因かだなんて、答えはひとつしかない。絡みついたレーシェの腕が離れてくれない。気道を閉ざしにかかる。


「レーシェ!」


 焦るシェリックが咆哮ほうこうする。


「さあ、シェリック。あの人を呼び出してちょうだい」


 駄目だ。これ以上、苦しませてはいけない。思うように喋れない焦燥と、母親を垣間見られた躊躇いが、判断の邪魔をする。

 シェリックに禁術を使わせてはならない。もう二度と、そんな真似はさせたくない。

 険しい顔に変わったナクルが、収めた剣の柄へと手をかける。よろよろと立ち上がったファイクが、何かを決したように唇を引き結んでいる。


 もう、十分だろう。十分すぎるほどに背負ってきただろう。

 シェリックだけではない。これ以上、誰かが傷つくのを見たくない。誰に何をさせてもならない。


「おか、さん……、やめて──!」


 渾身の力を込めて、ラスターは声を張り上げる。


「その禁術──成功しねぇからやめときな」


 混乱のまっただ中で。場違いな声がどこからかやってきた。




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