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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
八章 アルティナ王国Ⅴ
187/207

187,心に振り積む玉屑は


 決して忘れはしない。

 何十、何百、何千と生きてきた日々の中で、その日は忘れがたい日となった。

 扉の先には日常があり、安穏が変わらず続いていくのだと、疑いもしなかった。

 しかけた挨拶は途中で消え、聞く者も答える者もいない部屋で立ち尽くした。昨日と何ひとつ変わらないはずの日常の中で、その人だけが見当たらなかった。


「──シェリック……?」


 がらんとした空間。こぼれた名とともに、取り残された思い。

 生涯、忘れることはないだろう。



  **



 心臓が信じられない速さで動いている。今見た光景はなんだ。点々と飛び散った血は。血まみれの刃は。レーシェはユノにぶつかって、何をしたのだ。


 答えは簡単だ。捕まえられているラスターはきっと人質に見えたはずだから。

 けれど、ユノは尋ねた。どうしてかと。レーシェに、その理由を。

 ラスターを助けるためならば、ユノとて疑問を投げかけはしなかったろう。訊いたということは、ユノの期待とそぐわなかったからではないか。

 では、その期待とは? レーシェの目的は別にあった? ユノの話を遮りたかったから? ユノの言ったことがそのとおりだったから?


 確認するのも受け入れるのも、やった本人に尋ねるのが手っ取り早い。レーシェは今、ラスターの傍にいるのだから。訊けばいい。ラスターが訊いてしまえば、すぐにわかる。そんな簡単なことができない。認めてしまうのが──怖い。

 蠱惑こわく的に微笑する姿も、細めた目でユノたちを見る眼差しも。こんなレーシェ、ラスターは知らない。見たことない。


 母親だと信じて疑わずにいた認識が、根本から揺るがされる。ラスターにとっては会っていない期間の方が長かった。けれども母親だという変えようのない事実が、細くも大きな繋がりだったのだ。

 だからこそわからなくなる。

 この人は、誰だ。


「あ、わ、わわわ……レ、レーシェ殿……」


 冷静さを欠いた声に気を取られる。塔の内部に続く扉の陰で、ファイクが尻餅をついていた。


 いつの間に。

 ファイクはレーシェに同行してきたのか。気配も何も感じなかったのに。

 ──察知できなかったのは、レーシェが機会をうかがっていたから?

 なんの、と考えるまでもない。気取られずにいたからこそ、ユノへの奇襲が成功したではないか。あれだけ魔術を駆使してフィノに応戦し、シェリックに危害を加えようとしていたユノが、反応すらできていなかった。

 動揺していたのもあっただろう。前治療師に、シェリックに、フィノに、立て続けに問い詰められて──説得されて。けれど、それだけではない。レーシェたちが息を潜めていたから、誰も注意を払えなかったのだ。


 ユノの傍らで膝を立て、取り出した布を裂いたナクルは止血を施そうとしている。脇腹を押さえている手とは反対を握り、フィノはユノへ懸命に呼びかけている。手を貸そうと屈み込んだギアが、ユノの手と一緒に脇腹を押さえている。セーミャはその様子を眺め、ラスターたちを気にしつつ固まっている。彼らを背にしたシェリックが、レーシェをにらみつけている。


「はい、これでいいわ」


 刻まれていなかった時間が再び動き出しのは、恐らくレーシェのそのひと言だった。

 各々が状況を把握するのに努め、目の前の事態に対処している。ユノを助けるために。非日常の中で、レーシェだけがいつもと変わりなかった。


「ありがとう……」


 拘束されていた手首が解かれ、ラスターの両手が自由になる。くっきりと残った痕をさすった。

 強く縛ると鬱血してしまう。包帯を優しく撒くのは傷に響かないようにするための他、血流を滞らせないようにするためでもある。自分の身で思い知るつもりはなかったが。

 にじんでいた血を拭う。乾いていた血はぱらぱらと落ちていく。どこかの皮が切れでもしたのだろうか。

 じんとした痛みはあるが、耐えられないほどではない。

 他の人たちが手一杯ならば、ラスターが訊かなければならない。レーシェの意図が何かを。


「お母、さん……」


 呼びかけた声は、みっともないほどかすれていた。


「ラスター、無事で良かったわ」


 レーシェからの抱擁を素直に受けられない。無事を喜ばれるのは嬉しいのに、非日常と日常との齟齬そごが、ラスターから落ち着きを奪っていく。戸惑いも消えず、ラスターはされるがままになってしまった。

 温かい。

 人の体温が持つ安心感は、見ないようにしていた不安を和らげてくれる。ラスターが思う以上に、不安に侵されていたのだと。

 押し戻せなかった両手は、ラスターの身体の横で行儀良く並んでいる。抱き締め返すことも、突っぱねることもできずに。


「──レーシェ。どうしてユノを刺した」


 聞きあぐねていたそこへ、シェリックの鋭い声が飛んできた。

 それは、ラスターが聞かなければならなかった。フィノが前治療師へと尋ねたように。


「大切な娘が人質にされていたのよ。助けるのは当然でしょう?」


 突然冷気になでられたような気がして身震いする。口から絶対零度を吐いたなら、こんな声音になるだろうか。

 レーシェはシェリックを良く思っていない。ラスターは知っていたはずだ。忘れなさいと。ラディラに帰りなさいと。ここに来るべきではなかったと。涙を溜めた目で、レーシェは真摯しんしに訴えてきた。レーシェは、ラスターを殺しかけたシェリックを、許すつもりは毛頭ない。誰よりも、ラスターが知っていたのに。


「レーシェ殿……あなたがユノに、間違った真実を教えたのですか?」

「さあ、どうかしら。ユノに聞いてみたらいいのではなくて?」


 シェリックへの返答も、フィノへの切り返しも、ラスターへ語りかける温度とは一度も二度も低い。温かさを、体温で全て使い果たしてしまったみたいだ。


「おまえなんだな?」


 レーシェに合わせるかのように。シェリックの声も一段と低くなった。

 そっと窺ったラスターを素通りして、シェリックの顔つきが一層鋭さを増す。


「だったら、どうだっていうのかしら?」


 それまでとは一転して、開き直ったかに思える発言がされる。

 レーシェに隠す気はなかったのだろう。はぐらかしはしていたが、シェリックやフィノに答えていたときも、肯定も否定もしなかった。


「私はラスターを守るため。ユノは大切な故郷を取り戻すため。目的が違ったとしても利害が一致するなら、互いに手を取り合ってもおかしくはないんじゃなくて? 協力関係とは、本来そういうものでしょう?」

「どうしてそれがユノに間違いを教える理由になる」

「あら、間違いじゃないでしょう。最終的に話を締めたのはあなたなんだから」

「元々あの話は、前治療師殿とノチェ、二人が担っていた案件だ。俺は最後に名前を添えただけに過ぎない」

「知ってるわ。理由というならそうね……輝石の島という幻に取り憑かれている、哀れなユノを助けたかっただけよ」

「──幻……?」

「ええ。儚く消えてしまう幻。ありもしない理想郷。どれだけ夢見てもたどりつけない夢の場所。現実のしがらみを忘れ去られるなら、噂話の忘却の島も、あながち間違ってはいないわね」

「輝石の島を批判して、おまえになんの得がある」

「批判なんて人聞きの悪い。私はあの島が好きよ。けれど、望みが全て叶えられる島だとは思わない。だから理想郷にはなり得ない。それに、言ったでしょう? 私はユノを助けたかっただけだと。ユノに、明確な意志を持たせてあげたかったのよ」


 この場にいる全ての意識を集め、レーシェは高らかに語る。


「目に見えないものは、やがて薄れて消えてしまう。だから私は、曖昧あいまいな意志を実体にしてあげたかった。輝石の島を、ユノの故郷を奪ったのはシェリック=エトワールであると。実体のある標的へ向かう、明確な恨みの意志を確立させるために」


 レーシェの指摘に、フィノが顔色を失う。ユノは息を大きく繰り返しながら、フィノから目を逸らした。ずれた歯車のように、噛み合わない。

 視線を合わせることを諦めたフィノが、まごついた顔をしてレーシェを見た。


「……なぜ、そんなことを」

「お兄さんには言えない、そうも言っていたかしら。忙しいお兄さんには察する余裕もなかったのでしょうけど。助けてあげたのだから、感謝してほしいわ」


 理解が及ばない。ラスターに経験が足りないからか。レーシェの話している意味がわからない。


「生きる意味を見出させたかったなら、別の方法でも良かったんじゃないのか?」


 うたうように説明するレーシェへ、シェリックは問いかける。


「あら、知らない? 人が抱く感情で最も強烈なのは怒りと憎しみ──負の感情だってことを。喜びや幸せなんかより、ずっと強い感情なのよ。激しい思いは生きる糧になる。絶望しきっていたユノを救うのに、これ以上の方法はなかったわ」


 悪いとは毛の先ほども思っていないと。もしほんの少しでも思っていたなら、先の言葉は出てきやしない。そんな感情を抱けるはずもない。


「絶望……?」


 フィノの疑問に、答える者はいない。答えを知るレーシェも当のユノも、詳しく語るつもりはないようだ。


「標的を俺に向けたのは、輝石の島での調停があったからか?」

「ええ。それが一番楽で簡単だったから。ユノも不満を持っていたから丁度良かったわ。それともうひとつ」


 浮かべていた笑みを消し、レーシェはシェリックへと言い放った。


「邪魔だったからよ。シェリック、あなたが」


 ラスターの肩が跳ねる。顔色ひとつ変わらないシェリックの代わりとばかりに。


「あなたが持つ地位も、あなたがいる場所も、名前も、星命石も。全部あの人のものよ。あなたがそこにいるから、あの人が戻ってきても居場所がないじゃない」

「レーシェ……」


 ──痛い。

 抑揚のない声で語られるレーシェの言葉も、眉根を寄せて聞くシェリックを見るのも。

 ラスターにとってはどちらも大好きで、大切な人なのに。どうしてこんなに苦しい思いをしなければならないのだ。


「ねえ、シェリック。私はあなたがずっと憎かった。あの人の代わりに戻ってきたあなたが。あの人の全てを奪ったあなたが許せなかった。いなくなればいいと思ったわ。ユノに憎ませて、あの子があなたを殺してくれれば全て収まったのに。うまくいかないものね」


 ふう、と息を吐く。

 どこか危うい雰囲気をはらんだレーシェの様子に、ラスターは身を震わせた。




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