186,暗きに踊る懐刀
はらはらと。残る光が蛍のように舞っている。ひとつずつ、少しずつ消えていく。ラスターたちは夢の果てへとたどり着いたのだ。果てまで来てしまえば、幻想の世界はそこでおしまい。たどってきた夢路の終点だ。
夢物語で、おとぎ話。言い得て妙だ。これほどまでに的確な言葉があっただろうか。
残光がなくなってしまえば、彼がここにいた痕跡も曖昧の中に埋もれてしまう。濃霧の中を彷徨うように。
姿があった。声を聞いた。彼は確かにいた。受け答えして、教えてくれた。
それは一刻の幻で、刹那の邂逅。
最後の光が沈黙すると、元の世界に戻ってくる。
夜なのに白昼夢の最中にいたような、夜だからこそ夢を見ていたような、不可思議な感覚が残された。
ラスターだけが体験したのだろうか。そこにいたはずの前治療師は、もうどこにもいない。既に亡くなっている彼は、空へと戻されたのだろう。フィノが作った想命石により、星の巡りから外されることなく。再びの生を与えられるその日まで、天高く上り、月の位置にほど近い星となって。
空から見た月は、大きく見えるのだろうか。
地上で道を探して仰ぐときよりも、星となって近くにいる方が、進むべき道を明るく照らし出してくれるのだろうか。迷わぬように。
去って行った前治療師の星はどこにあるだろう。今まさに戻ったばかりというなら、空に増えたそのひとつが彼の星だ。それなのに、他の星と見分けがつかない。こんなにもたくさんの人が空にいるのかと。
星に彼らの意志は宿るのだろうか。産まれるそのときを、今か今かと待ちわびて。産まれて来るのを拒み、空にいたいと思ってはいないだろうか。星の巡りに準じるだけが、星になった者たちの意志全てであるとは限らないのに。
あのどこかにいると思われる、エクラ=ノチェもその一人だろう。
ラスターは首を回し、声をかけようとした口を噤んだ。
唇を引き結び、わなわなと震わせながら俯いて耐えるセーミャに、言おうとした言葉が頭を引っ込めてしまった。
きっと今、ラスターからどんな言葉も望まれていない。何を言ったとしても上滑りしてしまう。
──彼が六年前に犯してしまった罪と同じことを、わたしはさせようとしていました。
セーミャが彼女の師を呼び出そうとしていたと聞いたとき、実のところ半信半疑だった。あれだけ明るくて、ラスターより遥かにしっかりとしたセーミャが、そこまで思いつめてしまったのかと。正しい道理に反してまで、望んでしまったのかと。
誰かの死という事象が、周囲の人たちへ多大なる影響を及ぼす。──当然か。人間一人がいなくなるのだから。
当たり前にあったはずの姿がない。声も聞けない。ともに笑えない。触れない。会えない。
死というたった一字で片づけられないほど、あまりに膨大な感情が詰まっている。
だから、表面だけの慰めなど、かけてはならない。そんな言葉をかけるよりは何も言わない方がずっといいだろう。
ラスターが触れてはならないセーミャの姿が、そこにあった。
ならばせめて、傍に寄りたい。セーミャの隣に座っていたい。唐突に、ラスターは思った。
ラスターがセーミャに助けられたように。今度は、ラスターが寄り添うことはできやしないか。何を言えずとも、安心させられたなら。
「ユノ、逃げないから手を離して」
縛られているこの手は届かない。ユノに捕まれたままでは、セーミャの元に行けない。
言葉はなくとも傍にいるのだと、伝わってくれればいい。前治療師を見たのは、話をしたのは、セーミャだけの幻ではないと。伝わって欲しい。
セーミャが彼女の師に宣言したように、ラスターも誓おう。セーミャが困ったときには力になると。ちっぽけなラスターの両手でも、小さな荷物を抱えるくらいはできるのだから。
ラスターはちらと顧みる。
奇妙なほど静かなユノから、何も反応がない。ラスターの声は聞こえているだろう。呼吸音ですら聞こえるこの位置で、聞こえないはずがない。ユノの腕を強引に振り払う選択肢だって選んで良かった。先ほどユノに体当たりをしたように、ラスターの全力で抵抗しても良かった。
実行しなかったのはただの勘だ。セーミャの傍らに行くよりも、今ユノの近くから離れてはいけないような、そんな気がした。
「──言いたいことだけ言って退場ですか。良いご身分です」
ようやく反応したユノが零したのは、嘲りの混ざった呟きだった。
シェリックの禁術で呼ばれた前治療師は、何に執着するでもなく語ったと思えば、あっという間に去ってしまった。言葉は交わせずとも、今なお彼はここにいるだろう。星となり、ラスターたちの頭上で、物言わず瞬いている。
「過ぎたことはやり直せない。取り戻せなかったいつかがやってくることも、二度とない。どれだけ希っていてもだ」
「あなたに、何がわかるんです」
ひりつくほど悲哀を滲ませて。ユノはシェリックをぎ、と睨む。気にした様子もなく、シェリックは口を開いた。
「そうだな……君と同じ気持ちがわかるとは言えないが、戻れるなら六年前のあの頃に戻りたいと思ったことは、一度や二度じゃ済まなかったな」
六年前。シェリックが犯してしまった罪。
シェリックがした後悔と、得られなかった平穏に対するユノの憤怒は、どちらが大きいか比べる必要はない。比べて良いのは、自分の中で持つ同じ感情との程度だ。感情の度合いは、誰かと比べるものではない。
「だから、振り返らずに前だけ向いて生きて行けと言いたいんですか? それが正論でしょうね。人が生きる道は、一方向にしか伸びていませんから」
振り返ったところで戻れない。先へ行くしかない。戻れないあの頃を手放して進むのは、なんて残酷な仕打ちなのだろう。
やり直しの効かない、一度きり進める一本道。それが人の歩く人生という旅路だ。
人だけに限った話ではない。生きとし生けるもの、決して戻れない時の流れを生きている。
もし、やり直せたなら。それはなんて魅力的な誘惑だろう。
「訊くが、今もし、ユノが求めるいつかがやってきたなら、君はどうする?」
「やり直すに決まっています。答えるまでもありません」
ユノは即答した。
「君がいつかという過去をやり直すことで、今日までに出会ってきた人々や、培ってきた経験を失ってもか?」
「っ、当たり前です! やり直すとは、そういうことですから。惜しくはありません」
「今のフィノやリディオルを失ってもか?」
「──っ!」
ユノが大きく息を呑んだ。
甘い夢のような願いごとが、突然実体を持って現れたようだ。見るだけなら万人ができるだろう。現実味を帯びた途端、果たしてそれは本当に必要なのか、叶えられるのか、葛藤が始まることも少なからずある。
「……どうしてそこで、リディオル殿が出てくるんですか」
揺らいだ心を鎮めるように。ユノはきつめの口調でシェリックへと尋ねた。
「築いてきた信頼は全て失われる。同じように構築されてきた関係も、積み上げてきた人脈も、何もなかった状態へ戻るんだ。そうしてまで、やり直したいと思うのか?」
シェリックはひとつひとつ、丁寧に語りかけている。実感を伴わせるように。正しい言葉だけでは、ユノを追い詰めるとわかっているのだろう。
「やり直しできないなら、意味なんてないですよ。そんなの、とっくにわかっています。あなたに言われなくても」
「後戻りできなくても、変え続けていくコトはできるよ」
過去には戻れない。進む敷かない。人の生きる道が不変の摂理としてあるならば、視点を変えれば良い。
「全部なかったコトにするんじゃなくて、少しずつ足していくんだ。失敗したら、できるまでやればいいでしょ? ボクたちは、ずっとそうしてきたじゃん。ユノだって、諦めなかったから魔法が使えてる。ユノが諦めてたら、灯りだって完成してなかった」
「照らすだけの灯りに、それ以上もそれ以下もありません」
「そんなコトない」
王宮にある外灯は、ユノが作ったと聞いた。完成するまでに様々な試作をしては、適切なものとなるように改良を重ねていったのだろう。それだって、後戻りせずに積み重ねてきた末の成果だ。
どうしてユノは否定したがるのだ。なかったことにしたがるのだ。
「誰に何を言われようと……オレはもう、進み続けるしかないんですよ」
小刻みに震える手が、声が、身体が、ユノの気持ちそのものを表しているみたいだ。
まるで、ユノ自身が心を無理往生させているような。
「──ユノ。あなた、塔に陽炎の術を使いましたね?」
思案していたフィノがふと尋ねてくる。
「陽炎の術?」
「ええ。対象者に幻を見せる術です。ラスター殿、あなたがこの魔術塔へと間違えて上ってきたように」
「え?」
突然名指しされ、ラスターは聞き返す。ラスターの他に驚いているのはセーミャだけ。慌てて周りを見回しても、何が違うのか全くわからない。
「ここは魔術塔です。観測塔ではありません。あなたが観測塔だと思い込まされたように、本来陽炎の術は、蜃気楼のような現象を引き起こす術です。シェリック殿やギア殿がこちらまで来れたのは、ユノの術が解けたからでしょう」
「ああ。それはジルク殿から聞いた。俺たちを導きに来たと。恐らく、その陽炎の術が及ばない範囲へ、という意味だったんだろう」
「わざと解けるように仕掛けたのは、シェリック殿たちがやって来れるようにですね? ジルク殿の立場も利用して」
フィノとシェリックの話を聞いていると、ラスターはシェリックに会えなかった未来もあったかもしれないのだと思い至る。フィノの言うように、ユノならばラスターたちを会わないよう仕向けることもできただろう。
しかし、ユノはどこで知ったのか。ユノがセーミャとやって来たとき、ラスターに見せた反応が演技だったというのなら。ユノは、観測塔にシェリックがやって来ると、どのように知ったのか。
「シェリック殿は、ラスター殿が違う人物に見えていたとおっしゃいました。恐らく、シェリック殿も陽炎の術をかけられたのでしょう。しかし、あの術にはここにはない幻を見せる、ただそれだけのはず。幻聴を聞くなど聞いたことがありません」
孕んだ疑惑は、ユノへと真っ直ぐに伸びる。
「思えば、初めから不思議でした。ユノ、輝石の島の事件については、私に訊いてくれればわかったはず。なのに、あなたはシェリック殿に原因があると勘違いし、かつそれを事実だと信じきっていた。それは、誰かに教えられたからではありませんか?」
ユノは何も答えない。フィノは、その沈黙こそが肯定だと気づいている。
「賢人たちを殺したのも、あなた一人の計画ではないでしょう。ユノ、答えなさい。あなたに不必要な知恵を入れ込んだのは、どなたです?」
戦慄くユノが答えようとしていたのを、きっとその場にいた誰もが固唾を呑んで見ていただろう。──ただ、一人を除いて。
一枚の絵のように静謐だったそこへ、一迅の風が駆け抜けた。ひとつの影が、ユノとラスターの元へと真っ直ぐに走って。
「──っ、ぐぅ……っ!」
止める間もなく、驚く隙もなく。
ユノに突進した人影は、その勢いのままラスターへと抱きつく。警戒していなかったユノがもろに受け、地面へと倒れ込む。
「ユノ!」
誰かが呼ぶ声。何か固いものが落ちた音。ユノから遠ざけられる。傍にいたセーミャも、話していたシェリックも、呆然としていた。ラスターもそうだ。
声を上げるのを忘れ、静止していた時を慌てて取り戻すかのように。動き始めた世界で、たった一人。彼女は。
「ラスター、無事!?」
「う、うん……平、気……」
「ああ、良かった……!」
突然過ぎて頭がついてこない。
「怖かったでしょう? もう大丈夫よ」
再度優しく抱きしめられ、ラスターは目を瞬かせる。何をされたわけでもないのに、激しく脈打っている。今にも口から飛び出してきそうな心臓を呑み込む。うまくいっただろうか。
レーシェに助けられたということを、遅れて理解した。
ユノは。
探した姿はすぐに見つかった。ユノはフィノに抱き起こされ、何か呼びかけられている。いやに切羽詰まった様子で。ほっとしかけた目が凍りつく。手で押さえられたユノの脇腹。ユノの手が押さえているすぐ下から、じんわりと広がっていく液体がある。
色が見えづらい。けれど、ラスターは知っている。あの液体は赤いと。間違っていて欲しい予想こそ当たるのも、ラスターは知っている。
ぶつかっただけなのに、どうして赤いのだ。それに、先ほど聞いた落下音は──
ラスターの目がその正体を突き止める。刃を染める赤と、周囲に飛び散った飛沫──血。
ユノが虚ろな目を寄越す。信じられないものを見たと言いたそうに。ラスターも信じられない。まさかここに、レーシェがやって来るなんて思っていなかったから。ラスターを助けるために、まさかこんな凶行に出るなんて──
「レーシェ殿……どう、して……」
どうして、と。
ラスターは耳を疑う。
ユノは確かに言った。ラスターに聞こえたのだ。ラスターよりユノに近い位置にいる、シェリックやフィノたちに聞こえていないはずがない。
誰よりも先に理解が及んだのは、きっとフィノだ。愕然と色を失い、重たい動作で頭をもたげる。
「レーシェ殿……まさか、あなたが……?」
フィノが蒼白になった顔でラスターたちを見ている。ラスターの隣に立つ、レーシェを。
冷えた頭が考えるのを拒絶する。聞こえてきたひと言が、否認するのは許さないと追い打ちをかけてくる。 腕の中から彼女を見上げる。
レーシェは、無言で微笑んだ。