183,たとえ命が尽きようと
薄暗い景色に慣れてしまったから、人工灯の明るさが少々目に痛い。それでも間を置けば、ナキの目に映るのは見慣れた王宮の夜だった。ひとたびあの場から離れてしまえば、なんのことはない。お互いを労い合う二人組が通りすがる。騎士の見習いと思しき彼らの任務は、滞りなく終えたらしい。
遠くから楽器を奏でる音が聞こえてくる。軽やかに響くこの曲は、楽士見習いたちがここ最近練習している曲だ。近々隣国で披露されるらしい。練習にも熱が入っている。
いつもの王宮だ。馴染み深い日常が、そこかしこで繰り広げられている。非日常が入る隙間など、どこにも見当たらない。
甘い香りが鼻をくすぐる。今はヒザクラの開花時期だ。毎年この時期になると、ヒザクラの甘い香りが強烈に漂ってくる。ナキの好きな季節だ。
ヒザクラと言えば先日、ヒザクラの花を使って茶や焼き菓子を考案していた人物がいた。失敗とも成功とも聞いた記憶はないのだが、あれからどうなったのだろうか。
ちらりと隣を見れば、途端にばっちりと目が合わさった。
「そういえばファイクは一緒じゃなかったのか?」
尋ねようとした直後、グレイから先制されてしまった。ナキの疑問はあと回しにしよう。優先順位はそこまで高くない。それに今なにやらおかしな質問をされた。
「ファイク?」
質問の意図がまるで読めない。なぜ、ナキとファイクが一緒にいると思われているのか。
「あたしよりあんたの方が知ってるんじゃないの? あの人と一緒だったでしょ?」
人がいるところでは、誰が聞き耳を立てているかわからない。ナキは彼の名は出さずに尋ね返した。
ナキがグレイと一緒に彼の元にいたのは昼過ぎだ。そのあとナキはファイクと交代し、赴いた書庫で本の貸借をして、その帰りにリディオルを見つけた。未だに名乗りもしない男性と、ギアと呼ばれていた派手な男性と出くわし、治療師のエリウスと遭遇し──なんやかんやあって今に至る。どう思い返してもファイクと別れたのは、ナキよりグレイの方があとだ。
「ファイクはリディオル殿を探しに行きながら、おまえのところに向かっていた」
「……会ってないわよ?」
初耳だ。
交替するとき顔を合わせたきり、ナキはファイクを見ていない。ファイクは、リディオルを探してナキの元まで来ようとしていた? グレイとナキが再会したときには、あの場にリディオルもナキもいた。なのに二人を探していたファイクだけいないとは、またずいぶんと不思議な話だ。
「じゃあ、どこかで行き違いになったかも。少なくともあたしは見てない」
もっとも、すれ違っていてもナキが気づかなかった場合もある。怪しい男性二人の動向に目を光らせていたので、他のことまで気にしている余裕はなかったのだ。
「薬室にいるといいんだが」
「もしファイクが今もあたしを探してるんだったら、他の場所を回ってるのかもしれないわよ。会えたら偶然と巡り合いに感謝すればいいじゃない」
「それもそうか、──」
「どうかした?」
グレイが扉の取っ手から手を離す。開けるのではなかったのか。
「鍵がかかってるな」
ナキたちを阻むように取っ手は声を上げ、開けられるのを拒んだ。
「開ければいいだけでしょ。あんた、鍵は?」
グレイは上着の隠しへと手を入れる。あちこちに手を伸ばして、服を叩き始める。何をしているのだ。
叩いていた手を休め、グレイはナキを見た。
「……落としたようだ」
もう少し焦った反応を見せても、罰は当たらないと思うのだが。ため息がこぼれる。ナキは取り出した鍵を鍵穴へと差し込んだ。
「あたしが開けるわよ。大事なものなんだから、管理はちゃんとしておきなさ、い──」
ひねった鍵が解錠してくれる。
銀の鍵。任された棚。なくなった紙。減っていたユメミダケ。それから。
「ナキ?」
「──グレイ、ちょっといい?」
ナキはグレイの腕をつかむ。開けられたのは、扉だけではない。
思いついてしまった。ナキの胸のうちだけに収めるには、あまりにも大きすぎて。
**
──おまえは、違う。
遠ざかりかけていた輪郭がそこにある。光が見える。まだ間に合う。届けられる。消えたわけではない。ここに存在している。
雑音が邪魔をする。くぐもった音が煩わしい。水底へと落とされたように不明瞭だ。暗闇をかきわければ。この障害を振り切ったなら。この声は、きっと。
途切れがちに聞こえる声へと手を伸ばす。これは自らの手なのか。何か別の生き物でも操っているようだ。触れた何かを、確とつかむ。
「──俺、は……」
伝えきれたのか。余すことなく、ひとつ残らず。
緩慢すぎてもどかしい。出てこない言葉の代わりに、つかんでいる手に力を込める。逃がさぬように。逃げられてしまう前に。ありったけの力を加えて。ほんの少しの時間だけでも、残されているなら──
「……痛いです」
降ってきた返答は、語りかけたはずの彼とは違う声だった。
夢の中にも似ていた視界。微睡みから現実へ。狭間の世界を抜けて。感覚が急激に戻ってくる。甘ったるい匂いと、覆い被さった影。高い。
異様に重苦しい瞼をこじ開けると、ようやく声の主が見えてきた。
「まさか、本当に……」
そこには呆然と瞬くエリウスと、腕を捕まれて困惑気味なカルム、二人の反対から覗き込むアルセがいた。
──彼は、いない。
落胆した指から力が抜ける。重力が加われば落ちるのは一瞬。下に落ちきるより早く、誰かに受け止められる。地面へと下ろされる動作は、ひどくゆっくりだった。
「ご気分は、いかがっすか? リディオル殿」
眉を寄せ、歪んだ顔が泣き笑いに見えたのは見間違いではない。置かれた手とは逆の手を、誰かが握っている感覚があった。
今にも落としそうな涙を必死に堪え、アルセが尋ねてきた。握っているのはアルセだろう。反対側にいるカルムとエリウスには遠い。
「最悪、だな……」
「軽口を叩けるなら大丈夫ですよ」
気を取り直したエリウスがくしゃりと笑う。首を回すことも億劫で、顔を逸らせず眺めてしまった。
見せたのは三人三様の反応。しかし、揃いも揃ってなんと情けない顔を並べているのか。笑い飛ばそうとした口も顔も、冗談のように重い。自分ではない誰かの身体へ入り込んだなら、馴染むまでこんなにも時間がかかるのかもしれない。試したことはないが。
徐々に働き始めた頭が、詳細の把握を欲した。
「どこだ……ここ」
最後の記憶では、王宮内の自室にいたはずだ。空を覆う木の影。その向こうには彩度が弱まった空がある。落ちてくる灯り。
匂いでわかる。自室ではなく、外のどこかだと。詳しい位置まではわからない。辺りを見回せたなら多少は判別がついたかもしれないが、呼吸ひとつ、指一本。動かすだけで体力がごっそりと削られていく。
顔に触れている草がうっとうしい。顔を動かさないよう努めると軽減はされるが、気まぐれに吹く風は残念ながら止められない。
口を動かすのもなかなか辛いが、知るためには訊かなければ。
「塔の外っすよ。やっと見つかったと思ったら、なんでこんなぼろぼろなんすかあ……」
泣く寸前だったアルセの目から、とうとう大粒の涙がこぼれた。ああ、あの表情はリディオルのせいだったのかと、遅ればせながら理解した。同時に、己にかけられていた心配の大きさを察するに至った。
「……悪ぃ」
「今度という今度は、絶対に許さないっすよ! リ、リディオル殿……っく、と、十日間は食事当番の刑っす! うちたちに、美味しい……っく、ひっく、ご飯、作ってもらうんすからね……!」
「……アルセ、療養してもらうのが先だ」
「元気になってからっすよぉ……!」
冷静に指摘するカルムへ叫び、アルセは袖で懸命に涙を拭き始める。いくら長袖であったとしても、服では足りないだろう。
エリウスが差し出した手巾を受け取ると、アルセはよりどころであるかのようにしがみついていた。涙は抑えられても、嗚咽は隠しきれない。カルムがおろおろと慰めようとしている。
話さなかったことは悪いと思っている。同時に、リディオルの判断で正しかったのだとも。
リディオルが無防備な姿を晒さなければ、ユノは決して話をしにやってきたりはしなかっただろう。それに、隠し事はめっぽう苦手なアルセと、口数は少なくともわかりやすい反応を示すカルムの二人に、ユノを騙せと言っても無理な話だ。
仲間を敵とみなせなど、言えやしない。抗議の矢面に立つのは、リディオル一人で十分だ。
「でもまさか、こんなに早く意識が戻るとは思っていませんでした」
自らの手をじっと見つめ、エリウスは押し黙った。リディオルの物言わぬ目に気づいて、ぎこちなく笑う。今のは決して、治療師としての腕を疑った文言ではないだろう。
「……リディオル殿、雑巾より酷かったですから」
「……そのたとえ、いらねぇわ」
わあわあと泣きわめいているアルセの隣で背中をさすり、カルムがぼそりと教えてくれる。いつの間に移動したのだか。
ということは、やはり完膚なきまでにやられたのか。殺されるところまで覚悟はしていたから、生かされていたのは意外のひと言に尽きる。
「俺は……どのくらい、落ちてた……?」
「正確にはわかりませんが、傷を負ってから恐らくは二、三日ほどだと思います。リディオル殿を見つけたのは数刻前です。ナキさんが見つけていなければ、意識が戻っていたかも危ういです」
固い声音を滲ませ、エリウスはこと細かに教えてくれる。軽口を交わすような気配はなく、普段の様子も息を潜め、腕の立つ治療師としての顔で。
前治療師の見立ては間違いなかった。怪我をして聞く側としては耳に痛いが、これほど頼もしい治療師はいない。頭の下がる思いだ。
前治療師が彼を推したのに納得できる。安心して任せられると、判断されていたからだ。
「気がつかれて良かったです。もしあと数刻遅ければ……」
その先は口を噤まれる。言わずとも、エリウスが何を言いかけたのかは容易に想像がついた。神妙な表情を疑う気はない。専門家が言うなら間違いないだろう。
そこへ。
「そうそう。無茶し過ぎでしょう。命を落とす覚悟までするんじゃないよ、まったく。どれだけ肝を冷やしたと思ってるんだ」
聞くはずのない、声が。
リディオルは半身を跳ね起こし──直後、全身に走った痛みに息を詰めた。
「リディオル殿!? 傷に障りますよ!?」
「だ、だ、駄目っすよ! 全身の傷、酷いんすから! 雑巾なんすから! 絞られきって余力ないんすから!」
好きで起きたわけがない。人を雑巾呼ばわりするなとも言いたいが、それどころではない。少し黙っていてくれと、二人に向けて念じる。
三人しか目視できていなかった。仰向けで、首を動かすのも煩わしくて、固定された視界しか見えていなかった。
言い訳だ、そんなものは。アルセより、カルムより、エリウスより早く、リディオルはこの人を見つけなければならなかった。
出てこない声と、もはやどこから来ているのか判別できない痛みを、呼吸と気力でねじ伏せる。妙に寒気のする汗が吹き出てくるが知ったことか。混乱している場合ではない。一刻も早く問い質さなければ。
リディオルは、真正面に立っていた男性をにらみつけた。決してここにはいないはずの、いてはいけないはずの男性を。
「──あん、た……なんで、ここに……いるんですか?」
傾きかけた身体がうしろから支えられる。構うなと突っぱねたいが、多少は楽になったのも事実だ。彼に無様な姿を晒してしまったのが、腹立たしいことこの上ないが。
「連絡がなかったから心配してやってきたんだよ。予想に違わず窮地だったじゃないか。俺だけならまだしも、見習いたちにまで心配をかけるなよ」
正論だ。この人が来ると、予測できていたはずだった。来させたくないがために、ここまで企ててきたというのに──
「……呼びたく、なかったんですよ……あなただけは……」
「俺だけ蚊帳の外か? つれないね。兄弟揃って似たような反応されると、悲しくなるな」
「……あいつもいるのかよ……」
脱力すると、多少は治まっていた痛みが戻ってくる。この際、全て忘れて寝てしまっても良いだろうか。今なら簡単に意識を手放せそうだ。自分は何も知らない。何も見ていない。何も訊いていない。あとは任せたと、押しつけたい。気を失っている間に、全て決着をつけておいてほしい。眠るだけで解決されるというならば、それで──
「それで?」
思考する中に、彼の問いかけがするりと入ってきた。まるで、リディオルがそう考えるのを待ち望んでいたみたいに。
「おまえはどうするんだ?」
リディオルの考えを見透かすように。答えなどとうに知っているだろう。彼は意地悪く質問をしてくる。わざわざ。確かめるように。
アルセは鼻をすすりながら。カルムは息を殺して。エリウスは口を挟まずに。二人の会話を邪魔しないよう、眺めている。
「……決まってる、でしょうが」
気配を察したエリウスが横に回り、リディオルに肩を貸す。多少よろけはしたものの、おかげで立ち上がることができた。
「踊って、やりますよ……あんたの……手のひらだろうが、なんだろうが」
「そうこなくちゃな?」
彼は愉悦した顔をする。底知れない笑みで。リディオルを煽ってくる。このままで終われない。終わって堪るか。彼にけしかけられたからではない。売られた言葉を買ったつもりもない。リディオルの意志なのだと、彼に突きつける。余計な気遣いなど、一切必要ない。
しかし、そこまでだった。崩れ落ちた膝が地面に沈む。突きかけた手よりも、エリウスが支える方が早かった。
立ち上がって、話す。たかがこれだけの動作に、めまいがする。気力だけでは目的が果たせない。動けなければ、意味がない。
「リディオル殿」
これ以上の無茶はするなと。言外で責めてくるエリウスが正しい。リディオルだからではない。誰が同じ事態に置かれたとしても、最適解はひとつだけだ。
「──エリウス」
「はい」
だから、助力を請う。
「俺を……つれていけ」
役者が揃う舞台へ上がるために。