182,星の巡りに背いても
会いたかった。
悪夢に苛まれようと、レーシェに禁じられようと。
会いたくなかった。
彼がずっと願っていたなら、もう一度殺されかけてしまうのではないかと。
確かめるのが怖くて。踏み出す勇気がなくて。会わせまいとされている状況を、ラスター自身が受け入れてしまっていたのかもしれない。会いたいのに、会えない状況が作り上げられている。だから、仕方ないと。どれだけ会いたいと切望しても、許可が下りることはないのだと。
諦めていた。
きっとどこかで、このまま彼と別々の道を行くのだと。顔を合わせる間もなく、別れてしまうと。
だけど。
諦めたくなかった。
誰かのせいにして。現状を理由にして。言い訳も躊躇いも、全部地面に放り投げて。
予測していた怖さを取り払ってしまえば、会いたい気持ちが残された。
会いたくて、聞きたくて、知りたくて、話してほしい。彼の口から、彼の本心を。いつか彼が教えてくれたみたいに。
「シェリック殿……」
止まっていた針が動き出す。フィノの隣に立つ彼が、青褐色の外套をなびかせている。たったそれだけの事実が、ラスターの胸を詰まらせた。
「奪ったんじゃない。俺でもない」
返事をしなかったユノへ、もう一度シェリックが繰り返す。
音もなく燃え上がる、火の壁の向こうで。
「……騙されませんよ。あなたがどう否定しようと、オレは知っています。シェリック=エトワールが締結したと。島の人間の意見を聞きもせず、強引に推し進めたと! そうやって勝手な制約を作り上げたせいで、オレたちは……!」
「そいつは違うな」
ラスターはそのとき初めて、シェリックのうしろにもう二人いたことに気づいた。
一人はナクル。もう一人は、名も知らない男性だった。
くすんだ薄茶色の髪。赤々とした火が照らす目は、夜明け前の菫色。暗い紫を基調とした服こそ地味だが、その手に、首に、大量の装飾品を見つけて目を見張る。
地味だなんてとんでもない。存在感があるのに、どうして気づかなかったのかと思ったほどだ。
「制約を作ったのはあんたら島民のためだ。計画性もなしにばかすか取ってばかりじゃあ、輝源石は簡単になくなる。最初こそはそれで潤沢になるかもしれねぇがな。資源は無限にあるわけじゃねぇんだ。調整しなけりゃ、あっという間に枯渇するだろうよ」
それに、誰かと雰囲気がどことなく似ている気がする。
「アルティナの人間が来なければ、そもそも輝源石の独占だなんて事態は起こりませんでした」
「どうかな。未来の予測はできなくても、可能性の推測なら誰でもできる。昔を懐かしむのは勝手だが、現状維持が島のためになったかどうかは別論だ」
「オレたちは慎ましい生活ができれば、それで良かったんです。アルティナの人間がそれを壊すまでは、幸せでいられたんです」
「視野狭窄だな。てめぇのものの見方しかできねぇ奴が、大多数の意見を語った気になるんじゃねぇよ」
「ギア」
シェリックが窘め、彼らの会話に待ったをかける。
──ギア?
不機嫌そうに寄せられた眉。しかしそれ以上口を出すことはせず、ユノをにらむだけにしている。
シェリックは確かに今、彼のことをそう呼んだ。
「確かに、アルティナと比べれば数の多さでは敵いません。ですが、決してオレ一人だけの意見ではありません」
舌打ちし、不穏な空気を醸し出したギアの前へと、割って入る者がいた。
「ユノ。島の組織だけを見たなら、あなたの考えに賛同できる。しかし、先を見据えた判断をするなら、その考えは間違っているんですよ」
「っ!」
ラスターは見逃さなかった。ギアに意見を言われたとき以上に、ユノが傷ついた表情をしたのを。
「アルティナに……復讐するんじゃなかったんですか……!!」
ユノが裏切られたと感じた、その一瞬を。
「以前の私なら、あなたと同じ思いだったでしょう。──シェリック殿」
フィノが何かを取り出し、シェリックへと託す。手渡した何かは、透明な箱のように見えた。左の手の平に乗せられた小箱は、親指一本にも満たない大きさだ。左手に供物を携え、右手一本だけで祈りを捧げるみたいに、シェリックは俯いた。
「天に在す、数多の煌めきよ」
揺らめく炎がシェリックひと言にも宿し、静かに燃え始める。消えることなく、赤く、激しさを帯びて。歌のように、詩のように。何かの物語を諳んじているように。
天上を星空で覆われた舞台で、ひっそりと謡い上げる。まるで、夜闇の語り部だ。
「おい……まさか、また──」
何が始まるのかと静観していた中、ギアが狼狽の声を上げた。さっと変わった顔色。何かよくないことが起きるのかと、ラスターも身構える。
「遥か古代より継がれし、永久の巡り」
シェリックへと伸ばしかけたギアの手は、その寸前でフィノに阻まれる。払われた手に一瞬だけ呆然とするが、ギアはフィノを睥睨した。
「どけ」
「申し訳ありませんが、邪魔はさせません。ユノ、あなたにも」
ユノのすぐ傍の地面から、土塊がぼこりと盛り上がる。
ラスターも見たことがある。輝石の島でフィノが操っていた、土の人形を。即興だと、歪な形にしかならないと教えてくれた。
恐らくユノにもわかったのだろう。シェリックが紡ぐ言葉を、最後まで言わせてはならないと。
「っ、詠唱は中断すれば発動できない。邪魔させてもらいます!」
「ご随意に。──全力を以て阻止します」
ユノの宣言を聞いて困ったように笑うと、フィノはギアへと向き直った。
「あんたはあいつが何をやるか、わかって言っているのか!? おい護衛騎士、おまえもあいつを止めろ!」
「──は、しかし……」
ナクルから返ってきた歯切れの悪い答えに舌打ちし、ギアはフィノに──その先にいるシェリックにかみつく。
「シェリックやめろ! 無駄だ! 何度試みようが、あいつは呼び出せやしない! 呼び出せなかったことは、おまえが誰より知ってるだろう!?」
シェリックが何をしようとしているのか。ギアが言う「あいつ」とは誰なのか。なぜだか、ラスターにはわかってしまった。
止めなければならない。シェリックを。これ以上、あの詠唱を続けさせてはならない。六年前に起きた禁忌を、繰り返させてはいけない。
「シェリック!」
ラスターたちの焦りを意にも介さず、シェリックは朗々と謡い続けている。
どうして今更。どうして自ら。セーミャが求めた禁術は行われなかった。シェリックが禁術を使う必要など、どこにもないではないか!
「っわ!」
ラスターはユノめがけて体当たりをする。さすがに予想外だったらしい。意表を突かれたユノと一緒に倒れ込み、膝をしたたかに打った。
ラスターは涙目になりながらも確認する。思ったとおり、火の壁は消えていた。
一度で駄目ならもう一度。できるまで何度でも。シェリックを止めるために。ラスターの声が届く位置まで、向かうために。
縛られた手は使えない。身体と足で立ちあがり、走り出そうとした途端、うしろに引っ張られる。
「やって、くれましたね」
「離してユノ! シェリックを止めなきゃ!」
振り返りながら負けじと声を張り上げると、ユノから複雑な表情を返された。
「その意見には賛成します。──内なる火よ、弾けろ!」
ラスターの腕は捕らえたまま、ユノは片手で火を飛ばす。その先にいた土塊が粉砕された。
「シェリックとフィノに当てないで!」
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃありません!」
ひとつを壊しても、壊した傍から新しい土塊が増えていく。シェリックを止めるどころか、阻まれて近づけもしない。
「伏して願わくば──」
「連なる火柱よ、燃やし尽くせ!」
立て続けに生まれた火の柱が、うごめく土塊を壊していく。それでもフィノが作り出す速さに追いつけていない。上がる息遣いが、ユノの焦燥を伝えてくれる。
「何度も言っただろう! 他人の星の巡りを、てめぇの都合で壊すんじゃねぇ!」
土塊が壊れる音の合間に、ギアとフィノの会話が聞こえてくる。
「壊れません。私たちは、呼び出した死者を必ず星の巡りに戻します。その可能性に至ったからこそ、実行すると決めました」
「そんな夢のような話があるわけがねぇ。死者を呼び出す行為は、星の巡りの理をねじ曲げる。人がたどる輪廻を流れから無理矢理外す。だから禁術って呼ばれてんだ。占星術師でないおまえに、何がわかる!」
「そのために、私は想命石をお渡ししたんです」
「石だけでどうにかなるわけねぇだろ! それこそおとぎ話の類だ!」
ラスターにも、その単語は聞こえてきた。
「そうめいせき……? 星命石とか、天命石じゃなくて?」
では、先ほどフィノが渡していたのはその石だというのか。聞いたことがない。
「死者を呼び起こす術が禁忌とされているのは、魂を呼び寄せても地上に留まれる身体がないからです。身体に代わる媒体があれば、問題はありません」
「定着が失敗すれば、身体があろうがなかろうが関係ねぇ。馴染みのない無機物を代わりにしたところで、結果なんざ知れてる!」
「では、馴染みがあるならどうでしょう」
「──何?」
「我が声が聞こし召したならば、この御印に降り立たれることを祈ぎかかん──クラーレ=ピグロ!」
それは禁術の名称か、それとも呼びかけか。
シェリックの張り上げた声が、戸惑ったギアの姿が、動けずにいたナクルが、ラスターの隣にいたユノが、光に呑まれる。眩しくて、眩しくて、見続けていられなかった光景に顔を背けて、それでも足りずに目をきつく瞑って。
きっと一瞬にしか満たなかっただろう。恐ろしく長かった空白の刻。音が消えた、白い闇の中。
もう、いいだろうか。
ラスターはそっと目を開ける。あの強烈な閃光は消えてしまったようだ。
目の前がほわ、と光る。
首を回してみれば、辺りに淡い光がほわほわと浮いている。星とは違った光だ。止めどなく空から降り注いで、地面に落ちては消えていく。その光景が、何かを連想させた。
「雪……?」
頬や腕に触れても冷たさは感じない。それなのに、足元に落ちてきたひとつはゆっくりと光を失い消えてしまう。確かにあったはずなのに、何も残らない。
「星を、落とす術……」
夢うつつのような声を拾う。振り向けば、いつの間にか目を覚ましていたセーミャが、上半身を起こして空を仰いでいた。赤く腫れた左頬が痛々しいが、それすらも忘れてしまったように。
はらはらと降ってくる光に目を奪われる。これが星だというのか。あとからあとから落ちてくるから、本来の星が見えない。シェリックは、本当に星を落としたのか。綺麗なのに悲しくなる。この光が、亡くなった人たちの魂だというのか。
「──酷いな、全く」
新しいその声に引きつけられる。
「せっかく気持ちよく寝てたのに、君ときたら人遣い荒いんだから。というかよく知ってたね、僕の名前」
「俺も知られていたので。お互い様ですよ」
「言うようになった」
間延びした口調。ぼんやりと発光して、シェリックの眼前に佇んでいる。夜空から呼び寄せられたその人は。
「お師匠様……」
ラスターが名前を浮かべるより早く、セーミャが彼を呼ぶ。
「うん。久しぶり、セーミャ。死んでおいて久しぶりも何もないんだけどね」
彼はとても悠長に、そう応じた。