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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
八章 アルティナ王国Ⅴ
181/207

181,ひとつだけ、繋いだ絆


 一進一退。

 進む距離があまりに短すぎて、本当に目標へと近づいているのか怪しい。余計に遠ざかりはしていないか。一歩すら進めていないのではないか。

 疑うな。恐れるな。手を休めるな。怖じ気づいては、人を救うなどできない。躊躇ためらう一瞬が、文字通りの命取りになる。

 命を繋ぎ止める使命を携え、瀬戸際で戦い続ける者たち──それが治療師だ。剣を持たずとも、馬で駆けずとも、彼らこそは歴戦の覇者だ。

 常にこんな戦いを繰り広げているのか。目に見える変化がなくとも、絶えず次の一手を出し続けて。目の前の命がなくならない限り、手段がある限り、断念することはないと。

 ナキはそっと隣をうかがった。外灯を頼りにしているため、下を向く顔には影が差している。けれども、治療室で見かける朗らかな彼からは想像できないほど、眉間には深くしわが刻まれているのはわかった。


「──らちが明かない」


 しわの深さを助長させるのではないかという呟きが、エリウスの口からこぼれ落ちた。

 微かな苛立ちと心苦しさ、それにやるせなさを感じ取ってしまい、ナキは咄嗟とっさに口を開いていた。


「エリウス殿、やっぱりあたしが薬と道具を取りに行きます。悩むより行動ありきです」


 それどころか、今こうして悩む時間すら惜しい。

 エリウスが常に持ち歩いている治療道具があったからこそ、多少の処置はできている。それでも、何もしないよりはましだと評していい部類に入るだろう。整った設備で治療するのが最善で最良の選択だ。

 治療室に戻ることをよしとせず、この場から移ることをしなかったのは、頑として譲らなかった男性がいたからだ。詰め寄りたくて堪らない。本当に、人を救う気はあるのかと。


「……ナキさんの言うとおりだ。うん、ナキさん、お願いします。治療室にいる人たちに、俺が遠征用のかばんを必要としていることを伝えてくれればわかるはずだ」

「鞄ですね、わかりました」


 しかと頷き、ナキはすぐさま腰を上げる。

 やはり、引き留めてでも治療室に向かうべきだったのではないか。強引になれなかった自分が悔やまれる。

 ──悩むより行動ありき。

 奇しくも、ナキが言ったばかりだ。

 名乗りもせず、正体を明かしもしない男性を、これ以上信用することはできない。そもそも、場所に関して譲らないくせに、自分は手助けもせず傍観しているだけなのか。それに、なぜエリウスは彼に諾々と従っているのか。ナキには理解できない。

 こうなったら人手を集めて一刻も早くリディオルは治療室に連れて行ってしまえばいい。多勢に無勢だ。

 向かいかけた矢先、正面からやって来た気配に気づく。影は三つ。先頭の人物が、外灯の光の届く範囲へと足を踏み入れる。その人物を判別させてくれるのに、そう時間はかからなかった。


「探しました」


 隠者のような出で立ち。ナキの前に現れたのはジルクだ。そのうしろに二人。


「ジルク殿、グレイ」


 ナキは目を見張る。

 グレイの右側にいるもう一人とは、生憎接点がない。しかし、腰にいた剣が、彼女の役職をうかがわせた。


「あんた、どこで一戦交えてきたのよ」


 失いかけた言葉を引っ張り出し、グレイへと尋ねた。


「私用だ。名誉の負傷にもならなかったが」

「……馬鹿じゃないの?」

「そうかもしれん」


 いっそすがすがしいほどに答えられ、ナキは顔をしかめた。

 グレイの顔に残る赤紫色のあざが痛々しい。拭われた血の跡がまだ新しかった。


「手当くらいしなさいよ」

「あとでな。──そちらは? リディオル殿か?」


 グレイに問われ、ナキははっとした。こうしてはいられない。


「そう、リディオル殿」


 ナキはジルクと向き合う。


「すいませんジルク殿。あたし、治療室、に──」


 ジルクから押しつけられたものを、ナキはつい両手で受け取ってしまった。


「お届け物です」


 ジルクの手が離される。途端、ナキの手に負荷がかかり、慌てて抱え込んで事なきを得た。予想していたよりもずっと重い。ジルクが顔色ひとつ変えずに持っていたことに、驚かずにはいられない。彼女の膂力りょりょくは、どれほどあるのかと。


「この鞄……もしかして、エリウス殿のですか?」


 ナキがエリウスに見せると、戸惑いながら頷かれた。


「はい、俺のです。助かりますが……なぜジルク殿がこれを?」

「風の導きを授かりました」


 嘘か、真か。ジルクは一度も笑むことはない。何も言わぬ目が鞄の行方を問いかけているように見え、ナキは慌ててエリウスに託した。


「エ、エリウス殿、どうぞ!」

「……ありがとうございます」


 導師が風を操れるなんて聞いたことがない。よくわからない力を使えるのは、魔術師だけではないのだろうか。しかし、ジルクが冗談を言う人ではないことはナキも知っている。風の導きだなんて、まるで風が彼女をここに呼んだみたいだ。

 風が意思を持って? そんなことがあり得るのか?


「ご苦労」


 すい、と。

 ジルクの前に歩み寄った男性がいる。

 音もなく、気配だけが横切る。その人自身が風だったかのように。

 エリウスとナキがリディオルに治療している間、木に寄りかかってはずっとこちらを眺めていた。居心地の悪さから文句を言おうとするも、笑顔で手を振られる。毒気を抜かれるというか、言う気が失せるというか。

 男性を視界から外す。

 この人を見ると、この人といると、とても落ち着かない。


「手伝います。指示をくだされば、そのとおりに」

「ありがとう。お願いします」


 しゃがむグレイと応えるエリウス。ナキは我に返り、そこに加わった。


「──あたしもお力添えします」

「頼りにしてます」


 ちらと見ると、ジルクと男性は何やら話をしている。気にはなるが、今すべきは内容に聞き耳を立てることではない。ジルクが鞄を携えていた理由など、あとで聞けばいいことだ。さしたる問題にはならない。最優先事項は、別にある。

 すっかり下がってしまった右袖を、ナキは肘までたくし上げた。



  **



 額に貼りついた前髪を、彼の右手が横に払う。

 人違いではない。フィノだ。


「部屋には、いなかったのに……」


 ヒザクラの香りがする廊下を、セーミャと二人で歩いた。シェリックを引き留める方法を探すために。ラスターは、フィノから助言をもらおうとした。


「いらしてくださったのですね。それは大変失礼しました」

「ううん」


 フィノが眉尻を下げる。紛れもない。この人は、確かにフィノだ。困ったように笑うのがこんなにも似合う人を、ラスターは他に知らない。


「──何をしに来たんですか」


 漏れ出た動揺。ユノの声が、表情が、取り繕えていない。

 シェリックではなかったから? 邪魔されるかもしれないから?

 ユノは苦々しさを隠しもせず、嫌悪感をも出して問いかけた。

 ほんの一瞬。フィノからちらりと目配せされる。


「あなたを止めに来たんですよ」

「邪魔をしないでください」

「そうもいきません。ラスター殿とセーミャ殿を放しなさい、ユノ」

「お断りします」


 何事もなかったように会話が続けられていく。目配せの意図を全て察したわけではない。ただなんとなく、呼ばれたような気がした。

 ラスターの腕は使えないが、足ならば自由だ。


「指図には従いません。オレにはオレの目的があります」


 ユノはフィノから目を離さない。ラスターの動向を気にしていない──今なら。

 ラスターがフィノの元へと走ろうとした、その直後。


「っ!?」


 ラスターは足を止めた。

 足下から横薙よこなぎに一直線。立ち上った火がラスターの進路を塞ぐ。偽物ではない。触れたら焦がされてしまいそうな温度も、呑み込まれてしまいそうな禍々(まがまが)しさも感じられる。

 会話に集中していたのではなかったのか。気が逸れた瞬間を狙ったのに。これでは、フィノのところに行けない。


「動かないでください。それ以上進んだら燃やします」


 水平に上げていた手を下ろし、ユノは忠告する。ラスターを見もせずに。

 ユノが生み出した火はまるで生きているかのようにうごめき、近づかれるのを拒んでいるようだ。

 ラスターは後退る。焼かれないよう、熱気が届かないところまで引かざるを得なかった。


「もうやめましょう、ユノ」


 密かな計画が失敗に終わり、悲しげな目をしてフィノは言った。


「これ以上はあなたのためにもならない」

「オレのためになるかどうか、決めるのはオレです。周りから諭される謂われはありません!」

「そのとおりですね……」


 かっとなったユノが声を張り上げる。眉根を寄せたフィノが同意する。正反対の反応をした二人を、ラスターははらはらと見ているしかできなかった。


「──ですが、あなたが知らず、気づいてもいない事実があるなら、教えるのが私の役目」

「知らない事実?」


 胡乱うろんな声を上げ、ユノが訊き返す。


「輝石の島を、私たちの故郷を奪ったのはシェリック殿じゃない。いえ、そもそも奪われたのではなく、守られたと呼んだ方が正しい。あなたは、思い違いをしている」


 輝石の島──私たちの故郷。フィノは、そう呼んだ。輝石の島はフィノの故郷でもあると同時に、ユノの故郷でもあるのか。つまり二人は、以前からの知り合いだったということか。


「ユノも、輝石の島にいたの?」


 故郷が奪われたと、抑えきれぬ感情を込めて、ほとばしる怒りのままに叫んでいた。フィノは輝石の島出身で、ユノも輝石の島から来ていて。それが二人の故郷だと──

 わからないままにフィノを見ると、微笑まれる。フィノは、ラスターに教えてくれた。


「ラスター殿。ユノは、私の弟です」


 痛そうに。辛いのを我慢するときみたいに。

 ユノを見る。黙して語らない。ユノから語る気はないと。

 フィノを見る。何も言わない。代わりにひとつ、頷かれた。


「フィノは、お兄さんがいるんじゃなかった?」

「兄は私ですよ」


 ──お兄さん、なの?

 ──ええ、そうです。


「だから……」


 ラスターの内側で、ずっとくすぶっていた違和感が消し止められた。誰に対しても丁寧に接していたフィノが、ユノに対しては違うように思えたこと。外れた敬語は、ユノに向けていた親愛の情だと。

 兄弟がいると聞いたとき、ラスターはフィノに兄がいるのかと尋ねた。それがフィノには、自分が兄であるかを訊かれたと思われていたのだろう。

 フィノのたった一人の家族。たった一人の兄弟。それが、ユノだったのだ。


「──守られてなんか、いません」


 押し殺せなかった激情を吐き出すように。


「王国の属領にされることを守られたと呼ぶなら、それは決して守られていたわけじゃありません。乗っ取られただけです。支配する人間が変わっただけ。なんの解決にもなっていない。それを知りながら、どうしてあなたはアルティナを擁護するんだ!」


 ユノは叫ぶ。フィノに強い眼差しを向けて。にらみつけて。裏切り者を糾弾するように。


「オレたちの故郷を奪ったのはアルティナの人間です。輝石の島の資源が豊かだったところに目をつけて、私利私欲のために島を属領に変えたんです。輝源石を取り尽くして、私腹を肥やすために。他国にあるより自国にしてしまえば、ラディラと取引をするよりずっと利益を取れるから。島をアルティナのものにすると決めたのはシェリック=エトワールだ! オレは確かに、そう聞いて──」

「違う」


 たったひと言だった。


 フィノではない声が、ユノを遮る。聞き慣れたはずなのに、長らく聞いていなかったその声がひどく懐かしい。やけに響く靴音を鳴らし、歩いて来た彼はフィノの隣に並ぶ。

 髪が少し伸びた。頬がせた。頬だけでなく、全体的に肉が落ちた。顔色が悪く見えるのは、この暗さのせいだろうか。

 鼻の奥がつんとする。目頭が熱くなる。喉が苦しくて、心臓がぎゅっと縮こまる。ぼやけそうになる視界の中、目元に力を入れて、ラスターは目を凝らす。


「シェリック……」


 彼の名前が、やっと彼に届いた。




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