180,背に負う罪は重くとも
手摺りに手をかけ、浅く繰り返される呼吸を一旦整える。
手摺りから向こうは、一階から天井まで突き抜けた空間だ。下を見ればあまりの深さに吸い込まれそうになる。通ってきた灯りたちが今いる高さをおぼろげに教えてくれる。高さがわかりやすくはあるが、高いところが苦手な人にはたまったものではないだろう。
上を向いても同じような暗さなのは変わりない。ぽつぽつ見える光がまるで星のようで、休んでいたシェリックの足を奮い立ててくれる。本物はこんなものではないと、知っている。
数えきれないほどの膨大な数が空を覆い、肉眼では捉えきれない小さな光もある。ときに空をかけ、赤く明滅し、誰にも知られず空から消える。人の世へと戻り、生涯を終えたなら、空へと上り、人と星の巡りを繰り返す。
死者の光は生きた証。人が持つ思いの強さは、人工光では及ばない。
手摺りから手を離し、上る足を再開させる。
前にいるギアの背中は見当たらない。耳を澄まして聞こえてくる足音が、彼がまだ先にいる証に他ならない。追いつくためにも、上らなくては。
ジルクから聞いた話を、頭の中で幾度もなぞる。塔の認識が歪められていたこと。観測塔が観測塔として見えたこと。別の塔が観測塔として見えていたこと。歪められていた認識が元に戻ったこと。
位置関係も違えば、内部にある階段の造りだって違う。にわかには信じがたい話だったが、その差異を疑う思考さえ奪われてしまったと、ジルクは言っていた。王宮のこの位置にあるのが当たり前。違和感を覚えることなく、疑問を抱くこともなく、既にそこに存在していたものとして認識してしまうのだと。
では、なぜジルクがその違いに気づけたのかを聞くと、首を振られてしまった。唐突にあれは観測塔ではないのだと、理解したのだという。夢から覚めるような感覚で。そうして彼女は本物の観測塔までやってきた。確かめるために。
シェリックが上ったのは本来の観測塔だ。何もおかしなところはなく、当然疑うこともなく、屋上までを上りきった。
ジルクにそのことを伝えると、シェリックが上ったのは塔が元に戻ったあとではないかと教えてくれた。
なぜそのような現象が起きたのか。誰かが手を加えなければ、まず起きやしない。そこになんらかの目的がなければ、実行するなど考えない。たとえば、観測塔から遠ざけるためだったり、別の場所へ誘導するための──
ジルクは憶測に過ぎないと言っていたが、大筋は合っているのではないか。そんな面倒な細工をしてまで、得をしたい人間がいるということだ。
考えられるのは、シェリックとラスターが会うことを知っている人物。会わせまいとしている可能性。けれど、それならば塔をなくしてしまえばいい。そこにはないという認識をさせてしまえば、消滅してしまうのだから。
もっとも、そんなことができる術や方法があればという話になってくるが。
かつん、と。
シェリックが止まれば止まり、再び動き始めればそれに合わせてついてくる。シェリックと一定の距離を保ち、つかず離れずやってくる彼をちらりと振り返った。
「どうかされましたか?」
「いや……拘束はしないんだな」
観測塔の下で、縛られていたグレイを思い出す。追われている自覚はあるのだが、縛られるとしたらグレイよりもシェリックではないだろうか。
「ラスター殿とお会いするのに縛られていたいとおっしゃるのでしたら、お望みどおりにして差し上げますが」
ナクルはしれっと口にする。
「いや、それは遠慮したいが……」
論点はそこではない。前を向き、気まずい足取りで段を上がる。
「ご心配なく。少しでも不審な動きを見せましたら、責任を持って対処しますので」
シェリックは口の端で笑みを刻む。
「──それは有り難い」
グレイに頼んでいた役割を担ってくれるのなら、シェリックとしても助かる。ラスターに危険が及ばない手立てが、ひとつ増えたのだから。
「……あなたは、グレイ殿たちを隠れ蓑にして、ラスター殿とお会いしようとしていたのではないですか?」
「ああ、そのとおりだ。──だが、ひとつ勘違いをしないでほしい。グレイ殿たちは、俺を助けようとして手を貸してくれたわけじゃない。彼らが真に助けたかったのは、俺じゃなくラスターだ」
返答如何では、グレイもシェリックと敵対していただろう。そうなれば、シェリックはラスターと会うなんてできなかった。夢のまた夢として終わっていた。
返事のないナクルは、恐らくただ聞いているだけではないだろう。事情聴取の一環の様な問答でもある。シェリックの言動でグレイたちに責任の一端が降りかかるかもしれない。関係のない彼らに、これ以上負担をかけてはならない。
「シェリック殿は、ラスター殿をどうされたいのですか?」
互いの足音に消されてしまいそうな声量。前方を進むギアまでは聞こえないだろう。
シェリックがラスターと話がしたいと思っていることは、ギアもナクルも知っている。ナクルが聞いてきたのは、その内容だ。
「謝罪と──」
靴音の拍子が乱れる。
「曖昧で濁すわけにはいかないだろう?」
返答はない。
顔を上げると、ギアがそこで足を止めていた。
「ばてたか?」
こちらを見下ろしてくるギアに、シェリックは負けじと不敵に笑ってみせる。
「まさか」
ギアはわざわざ待ってくれていたのではない。終着地点がそこだからだ。
最後の一段を上がり、扉に近づく。
その向こうから、話し声が聞こえてきた。
**
暮れていく地平線。完全に太陽は沈んでしまい、赤く焼けた空がほんの少し残る。
もうすぐ夜だ。約束の時間だ。
いつその姿が現れるのかと、ラスターは高鳴る胸と不安がない交ぜになった思いを抱き、扉を見つめる。いつやってきてもおかしくない時刻だ。空の暗さだけで判断するならば。
誰も何も喋らないから、というのが理由のひとつかもしれない。ユノは口を開かない。セーミャは意識が戻っていない。ラスターはあれから何も聞けずにいた。
痺れた足を入れ替える。衣擦れと、細かい石が位置を変える音。セーミャの呼吸は一定で、乱れる気配はない。さわさわと歌う木の声が遠い。
不安がごうごうと吹き荒れて、つかまる意志がなければ、すぐにでも飛ばされそうなくらいだったのに。どうしてこんなにも、取り残されたような気分になるのだろう。移り変わる世界の中で、ラスターだけ変われずにいる。世界に置いていかれてしまったみたいに。
「来ないとは考えないんですか?」
尋ねてきた声の主が誰なのか、一瞬わからなかった。いつから見られていたのだろう。射した影がユノの顔を覆い、月明かりだけでは判別するのも難しい。
抑揚のない声音が、どこか哀れんでいるように聞こえた。
「来るよ。だって、シェリックがそう言った」
本当は違う。シェリックが言ったのを、ラスターは聞いてなんかいない。シェリックの言づてをファイクやナキから聞いただけだ。人づてであっても、これはシェリックの意志だ。ならば、必ずここに来る。この場までやって来る。そうに違いない。
ユノがラスターの不安を煽ろうとするなら、ラスターは信じ続けるだけだ。
見えないのだから、あると信じていればそこに存在するのだ。
「ユノは? シェリックが来るからボクを人質にしたんでしょう? 来るってわかってるから、ここにいるんじゃないの?」
尋ね返したら、ふいと顔を逸らされる。聞いてきたのはユノなのに。
答えたくないだけだと思ったが、そうではない。ラスターの耳にも、その足音が聞こえた。上がってきたのが誰かなんて自明の理だ。ラスターたちは待ち続けていたのだから。
彼の姿が見えた途端、ラスターは浮かんでいた名を呑み込んだ。
一度呑み込んでしまえばなかなか出てこない。それは、ユノも同じだろう。
会いたくて待ち望んでいたのに、言葉にならない。貼りついていた喉が、その名を呼ぶのを拒んでいるみたいだ。
「間に合って良かった……」
ほっとした口調で、やって来た彼はそう告げる。
「どうして、ここに……」
震える唇でユノが紡ぐ。出てこなかった名前の代わりに。
どうしてだなんて、ラスターも聞きたい。
「フィノ……?」
姿の見えずにいた彼が、どうして今、ここにいるのだ。