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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
八章 アルティナ王国Ⅴ
178/207

178,相見えるは因縁の


「っ……」


 切った唇がじわりと痛み、グレイは顔をしかめる。口の端に垂れた血を拭きたいのだが、生憎両手は自由に効かない。試しに身じろぎするも右肘の痛みが甦り、大人しく力を抜いた。

 よくもまあ、手加減も遠慮もなく相手をされたものだ。腰の剣を抜かれなかったのは有り難かったが、流石は護衛騎士。徒手空拳でも十分強い。男女の差別をするつもりはないが、まさか女性の騎士に何もできずやられるとは思ってもみなかった。

 戦い慣れている人物に対しては、下手に逆らうのをよそうと密かに決める。こんな事態でもなければ、一度ですらごめんだったが。


「よく残りましたね」


 グレイを縛り上げた騎士が話しかけてくる。


「あなたに武の心得はないでしょう。勝ち目は最初からないと、わかっていたでしょうに」

「足止めできればいいと思ってただけですよ」

「一瞬で勝敗は決したのに?」


 それについては言い返せない。時間稼ぎくらいにはなってみせると豪語していた自分を張り倒したいと思っている。同時に彼らの力量を見誤っていたことを、深く反省したい。見誤ると言うよりも、侮っていたが正しいかもしれない。

 実際、グレイを相手していたよりも、塔の入口を開ける方に時間がかかっていた。


「薬師見習いが占星術師を庇い立てるなんて言語道断です。そこまでして王国に楯突きたいですか?」

「楯突くつもりはありません」


 じっと見返される。


「言い訳はナクル殿が戻ってきてからお聞きしましょう。もっとも、情状酌量の余地があるかはわかりませんが」

「上等です」


 答えながら、彼と同じ運命をたどるかもしれないと予測する。この見習いという地位が剥奪されたところで、グレイに未練はない。王宮の施設を使えなくなる名残惜しさはあるが、それだけだ。それも大した惜しさではない。

 心残りがあるとすればたったひとつ。彼女を殺した人物を、見つけられずにいたこと。それさえわかっていれば、グレイがここにいる理由もなくなるのに──

 ふと上げた視線がそれを捉える。森の中で、ゆらゆらと揺れる灯りが見えた。少しずつ大きくなっていく。こちらへと近づく度、携える人の手が見えてくる。

 視線が交錯する。一瞬立ち止まり、こちらを認識した目が一度瞬いた。


「ジルク殿? なぜ、導師のあなたがこちらに?」


 唐突に現れた賢人に、騎士も驚きを隠せないようだ。やってきた彼女へ尋ねる声は、僅かに上擦っていた。

 怪我をして縛られているグレイに、それを警戒している騎士。第三者から見たこの様子は、決して穏やかではないだろう。

 けれどもジルクは疑問を挟むことなく、騎士の質問に答えた。


「──導きに来ただけです」


 ジルクはついと上向く。

 騎士を通り越し、その背後にある観測塔を。


「彼らが戻ってきたなら、お話ししましょう」



  **



 何もなかった。

 そこには、異変と名づけられるような出来事は、何も。それどころか、ラスターの姿さえも。

 痕跡を求めたシェリックは、長椅子へと吸い寄せられる。ラスターと二人で上り、持ってきてくれた菓子を食した。あの日は、今よりもっと夜が深かった。

 座面をなでた手がざらりと汚れる。誰かがやって来た様子もない。あの頃から誰も訪れていないと言いたそうに、長椅子に積もる埃が無言で訴えてくる。

 いない証拠を、こんなにもはっきりと突きつけられるとは思わなかったが。

 シェリック自身の息づかいだけ、余すことなく床に落ちていく。来なかったのだ、ラスターは。待ち合わせを告げたこの場所には。それはまさしく、会いたくない意思表示だ。


「──はは……」


 乾いた笑いがこぼれる。

 落胆する必要はない。シェリックにはその資格がない。なぜなら、ラスターと約束をしたわけではないからだ!

 来て欲しいと伝えただけだ。来ない確率だって、少なくはなかった。少なくないなんて言葉に逃げるのはやめよう。来ない確率の方が、圧倒的に高かった。来るか来ないかもわからずにいたのに、落胆するのは筋違いだと言えよう。

 残念がっている度合いの大きさに驚く。いつの間に、期待は大きくなっていたのか。シェリックも勘づいていなかった心の内でこんなにも膨れ上がっていたのかと、感心してしまった。

 それほどまでに、シェリックはラスターと話すことを待ちわびていたのか。


 約束を交わせば良かった。強引にでも取り決めて、一方的に伝えたなら、ラスターはここまで来ていただろう。しかし、それはシェリックが願った再会とは意を違えるものだった。だから、伝えてもらうだけに留めたのだが──結局はそれが仇となった。

 長椅子を前にして膝を折り、その場にしゃがむ。手の甲を額に押し当て、シェリックは自問した。

 どこで間違ってしまったのか。どうすれば良かったのか。

 後悔してばかりだ。禁術を使ってしまったときも。レーシェに庇われたことも。ラスターを船内で一人にしてしまったことも。なぜ殺しかけてしまったとき、もっと早くにラスターだと気づかなかったのかということも。

 片手、両手の指だけでは足りない。あと何回、どれだけ間違いを重ねたなら、正解の道をたどることができるのだろう。

 悔やんでも模索しても、シェリックにはいつまで経っても正しい答えが見つからない。本当は正解の道など存在しないのではないか。後悔しない選択なんて、どこにもないのではないか。

 理想と現実が近づくどころか、これでは乖離かいりしていく一方だ。理想は理想のまま、掲げた目標だけに留めておくべきだったか。目指すことすらおこがましかったのか。

 わきまえなければならない。自分の立場を。境遇を。彼女ラスターとの距離を。知らぬふりはもうよそう。機会を設けてくれたグレイたちに謝罪をしなければ。

 シェリックは懺悔ざんげしていた目を開く。この現実を認めるために。難しいことは何もない。塔を上ってくるより簡単だ。空っぽな世界を受け入れてしまえばいいのだから。


 ──今は?


 そのとき、どうして思い出してしまったのか。

 くぐもった声。聞こえるか聞こえないかの瀨戸際で。

 シェリックが六年前の出来事を話したあの夜、シェリックの代わりに泣いていたラスターは訊いてきた。諦めていないかと。

 シェリックは答えた。前よりは諦めていないと。

 そう答えたではないか。


 立てていた膝に右手を添える。左手で地面を突き、重くなった腰を持ち上げる。整った息を詰め、一気に膝を伸ばす。

 立たなければ。立ち上がらなければ。座り込んでいては、諦めたも同然だ。

 来なかったことを嘆くより、約束を交わさなかったことを後悔するより、まだ、やれることは何かあるはずだ。

 来なかったなら、シェリックから会いに行けばいい。そんな単純な話だ。悔やむのならば、ラスターに会って話せたあとでいい。会えなかったことでなく、会話した内容を反省すればいい。まだひとつ、それどころか何も、終わっていない。


 徐々に大きくなってきた足音はふたつ。それがグレイのものかどうかまでは判断がつかない。騎士の二人とグレイ、足音の持ち主である確率は三分の二。

 ファイクが言ってくれたではないか。ラスターはきっと来ると。シェリックよりあとに来ないとは誰も言っていない。

 もしかすると諦めてしまうかもしれない。けれど、手を貸してくれた者たちを差し置いて、シェリックがいの一番に諦めてはいけないではないか。

 逃げはしない。けれどまだ、地下牢に戻るわけにもいかない。騎士の一人にも、この意志を伝えなければならない。

 シェリックは階段へと続く扉の近くに寄り、上がってくる彼らを待つ。薄暗い塔からは、誰かの息づかいと足音が聞こえてくる。

 下で時間稼ぎをしてくれたグレイが手荒な扱いをされていないことを祈るばかりだ。抵抗の度合いにもよるが、大なり小なり無事とは言えないことだけは想像がつく。それと、脅されて上ってきたわけでもないと願いたい。


 逃げも隠れもせず待っていたシェリックの元へ、やがて二人の人物が姿を現した。一人はナクル。弾んだ息ではあるが、まだどこか余裕がありそうな様子だ。

 ナクルのうしろからもう一人。やってきた人物を見て、シェリックは反射的に自らの胸元をつかんだ。

 グレイではない。もう一人の騎士とも違う。見知った者だ。──あり得ない。

 彼は、ゆったりとした歩幅でナクルを追い越す。シェリックの目前にやって来る。どんな顔をしたらいいのかわからなくなる。開いた五歩ばかりの距離。皮肉にも、あのときと同じ。


「よお、久しいな。おまえが妙な小細工をしたせいで、無駄な時間を食っただろうが」


 笑うでもなく告げられた挨拶と文句。

 灯りを壊した塔を上がってくるのに、少しは時間稼ぎができたらしい。

 どこか遠くの方で、もう一人のシェリックが呑気な感想を述べている。

 あれから何年経った。

 すぐ出てくるその計算が果たして合っているのか。間違っていないかを疑うのは混乱しているせいだ。


 切り揃えられた髪が風に揺れる。目線はここまで近かっただろうか。晒された耳についている装飾品は、記憶の中より数が多い。黒以外の服を着ているのを、初めて見た。

 流れた月日が年月を確かに教えてくれるのに、それでもシェリックが彼を見間違えることはなかった。

 何も言わないシェリックに焦れたのか、彼が片眉を跳ね上げる。


「俺の顔、忘れたか?」


 忘れるわけがないだろう。

 貼りついた唇をこじ開ける。乾ききった喉から絞り出す。


「ギア……」


 どうしておまえがここにいる。




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