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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
八章 アルティナ王国Ⅴ
177/207

177,螺旋の階、遠い空


 息を潜める。

 深い深い水の底まで潜るように。風の声ひとつ聞き漏らさないよう、耳をそばだてて。

 呼吸は止めない。共有するのだと信じ込む。馴染ませるように、同化するように。

 仲間だとわかってしまえば、あとは簡単だ。そこに寄り添えばいいだけなのだから。

 月から隠れるように。灯りから逃げるように。人よりもまず、光に見つからないように。


「良かったんですか? 俺で」


 足元で踏みしめられる木の葉が途切れ、図ったかのようにグレイが尋ねてきた。


「ファイクが決めてしまいましたが、あなたに同行するのは俺で良かったんですか」

「拒む理由はない」


 灯りから隠れているせいで、顔色が見えづらい。けれど、その方が話しやすかったかもしれない。


「むしろ俺が君に訊きたいくらいだ。良かったのか? 俺につき合わせて」

「ええ、まあ……」

「そうか」


 表情は隠れてしまっても、言葉に滲む気まずさは隠せていない。思っていたとおりだ。


「もしあのときファイクが言わなくても、俺は君に頼むつもりでいた」

「……それは、なぜ」


 怪訝と困惑が半分ずつ調合されている。


「君なら、俺を躊躇なく止めてくれると思ったからだ。もし俺がもう一度、ラスターを殺しかけたなら」


 グレイはシェリックのうしろにいる。振り返らなければ、その顔をうかがい知ることはできない。前を向いたままでも、彼が息を呑んだ気配がした。


「また、その事態に陥るということですか」

「わからない。俺が思っていなくても、同じ幻覚を見せられたら……正直自信がないな。口でならいくらでも誓えるが、絶対と言うにはお粗末な状態だ。そのときが来ないのを願っているが、万が一のときはラスターを守ってやってほしい。どんな手を使ってくれても構わない」


 幻だとわかっているなら、心構えはできる。しかし、構えることと対処することは別物だ。本物でないとわかっていても、彼を目の当たりにしたときの度し難い衝動は、抑えて抑えきれる感情ではない。


「ラスターが無事でいてくれるなら、俺はそれ以上を望まない」

「俺が止めたことで、あなたがどうなってもですか?」


 避けられた明言に気づき、シェリックは薄く笑う。


「ああ」


 どんな手を使っても──どんな結果になったとしても。


「……わかりました。ですが、あなたの要望全てには応えませんから」


 言いかけた礼を呑み込み、思わずグレイを振り返る。


「俺たちが動くのはラスターのためです。あなたがラスターの無事を望むなら、俺もそのように動きましょう。ですが、無事というのは、何も命の安全だけを指す言葉じゃない」


 ぴしゃりと断言される。


「ラスターの命が守られても、心の平穏が失われれば到底無事とは言えない。だから、あなただけ責任放棄させるわけにはいかない。ラスターの無事を願うのであれば、まずあなたがラスターの傍にいるべきでは?」

「……耳に痛いな」

「当然です」


 どんな結果では駄目だ。それでは許容されない。前提条件がなければ、許される結末には至らないと。


「君に押しつけるつもりじゃなかったが、俺も善処しよう」

「最善を選び続けてくれたなら有り難いですね」

「手厳しい」


 肩を震わせてひとしきり笑ったあと、シェリックは前を向いた。ぼんやりと照らされる観測塔がそこにある。逃げかけていたシェリックを許しはしないと言いたそうに、空高くそびえ立っていた。


「ありがとう、グレイ。君たちが助けてくれなければ、俺はまた間違えていた」

「礼を言うなら、上ってからにしてください」

「それもそうだ」


 塔に来るのもずいぶんと久しぶりだ。六年ぶりに訪れたあのときとはまた違った懐かしさを感じる。シェリックは入口の扉に手をかけた。


「──シェリック、殿……!?」


 グレイよりも後方から、二人の騎士がやって来る。声と同じく、驚愕に満ちた顔をして。


「なぜ、あなたがこちらに──」

「行ってください、シェリック殿」


 やってきたナクルたちとシェリックとの間に、グレイが身を割り込ませる。その身ごと盾になると、体言するかのように。


「腕に覚えは?」

「ありません。ですが、少しの時間稼ぎくらいでしたらできます」


 頼りになるとは言いがたい発言だが、ここは彼に任せるしかなさそうだ。


「わかった。頼む」


 信じるしかない。シェリックは向かわなければ。彼らの思いを無駄にしないために。不測の事態の正体を、一刻も早く確かめるために。


「シェリック殿!」


 狼狽したナクルの呼びかけを無視して、シェリックは観測塔へと飛び込む。

 途端に落ちた光度。暗さに慣れるまで、幾ばくか時間を要するが、今はその僅かな時すらも惜しい。脇に立てかけていた棒を拾い、手早くかんぬきをかける。

 グレイが告げたことに嘘はないだろう。仮に武術の心得があったとしても、騎士として実践での経験を持つナクルたちとグレイでは、その差は大きい。人数も彼らの方が勝っている。

 ぼう、と照らし出される階段を駆け上がりかけ、シェリックは壁にかかる照明を見上げる。階段の幅は狭く、かけられている照明はシェリックの手の届く高さに設置されている。

 あまりに高すぎると修理する際大変だと言う理由から、室内灯としては比較的低い位置に取りつけられているものだ。


「──悪い」


 誰に向けての謝罪になるのか。もしかしたらこれは、人ではなく物に対してかもしれない。

 シェリックは伸ばした手で飾り蓋を外し、ひとつ下を照らす照明めがけて投げつける。硝子の割れる音とともに、真っ暗な闇が広がった。

 追い立てられるように、上へ上へと向かう。暗闇に追いつかれるのが先か、それとも逃げきって頂上まで行けるか。無事に着けたとしても、グレイがいない状態でラスターと話せるのか。

 シェリックを引きずり落とそうと、不安が足にまとわりつく。作り出した闇の中に落とそうと。

 捕らわれるつもりはない。

 繰り返す浅い呼吸が、徐々に思考力を奪っていく。一段上る度に重くなる足は、既に誤魔化しが効かない。上り慣れた階段が、こうも厄介な道程に変わるとは。


 下方から鈍い音が響いた。

 ──来たか。

 鋭く命じている声に、無遠慮な靴音。グレイだけでなく、入口に仕掛けていた小細工も突破されたようだ。これでもう時間もあと戻りの余地もなくなってしまった。

 逃げるつもりはない。賢人の地位を剥奪されたことに、異を唱えるつもりはない。ただひとつだけ。彼女と、話がしたかった。


 笑ってしまう。

 切望した割に、彼女が来るか来ないかどうかは、頂上にたどり着くまでわからない。彼女がいなければ、下からやってくるナクルたちに捕らえられて終わりだ。

 彼女がいたとしても、シェリックが追いつかれてしまっても終わり。なんて分の悪く、危険ばかりが大きいのだろう。

 必ず来るという保証はない。二度と近寄りたくないと、思われていてもおかしくはないからだ。

 彼女が帰ってしまう前に。

 レーシェに帰されてしまう前に。


 ──ラスター。


 会える機会は、話ができる機会は、きっと今、周囲の者たちが苦労して作り上げてくれたこの一瞬しかないだろう。目を凝らさなければ見えないほどの糸を紡いで、ようやく線として存在するような、奇跡的な状況。

 たとえ顔を合わせても、話にはならないかもしれない。今までのような反応が返ってくるとは、シェリックも思っていない。

 たとえ伝えたところで、彼女の傷は簡単には癒えない。薄まることもないだろう。大きな外傷であればあるほど他者からの認識は容易だが、跡が見えない傷ほど治療は難しい。傷の深さも大きさも、想像するしかないからだ。


 どれほどの傷を負わせただろう。

 どれだけの痛みを植えつけただろう。

 傷はその痛みを知り、現実に近い形で想像し、そこに寄り添い、傷を負った者と認識にずれが少ない者にしか治せないのではないか。だから、シェリックには、彼女を癒やすことは──

 仰いだ先に頂上への扉が見える。なんとか間に合ったようだ。

 空への扉を押し開ける。地平線の境に、最後の赤がうずくまる。シェリックは端から端まで目を凝らす。


 しかしそこには、誰の姿も見当たらなかった。




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