176,秘密の任務は足早に
会話するときには、相手の目を見て話すのが礼儀だ。とは言っても、一方的に相手を見続けるのは不躾である。
ナキの隣には、リディオルを肩に担いだ男性がいる。前方には、エリウスの腕を引いたもう一人の男性がいる。
目は、先導する男性から離さないでいた。エリウスを同行させた理由は、治療するためかさせないためか。彼らの目的が見えない。
用心しすぎて損はない。警戒を怠った隙を突かれるより、ずっといい。備えたからと言って、ナキに何ができるわけでもないけれど。
ナキは書物を抱く手に力を込める。
気は進まないし、書庫の主を思い出すと心苦しくなる。けれど、いざという事態がやってきたなら、この書物を投げつけて一瞬でも気を逸らすぐらいの行動は取れるだろう。抱えている書物ひとつが、ナキの手元に唯一ある武器だ。
もしも彼らが敵だったなら。動けないリディオルを庇ったところで全滅してしまうのが関の山だ。
躊躇してはいけない。使いどころを見極めなければ。
「そんなに警戒しなくても、こいつに危害を加えるつもりはない」
それがナキに話しかけられたものだと気づくのに、数歩の距離を要した。
隣を歩く男性を見る。彼はちらとナキに目をやると、すぐに前を向いてしまう。
視線以外の意識を全て隣の彼へ向けていたことに、どうやら気づかれていたようだった。
「治療室から遠ざかる理由はなんですか?」
「直す気がないんじゃない。治療師がいるなら、わざわざあっちに行かなくてもいいだろ」
「必要な道具や薬がなければ、適切な処置は施せません。技術だけあっても、本来の力を発揮できないと思いますが?」
治療室と治療師は同じではない。いくら凄腕の治療師がここにいても、治療に使う道具がなければ、力の全てを出しきれない。片方だけでは駄目だ。
「どうとでもなる。あそこは遠いんだよ」
発見して、すぐ向かえば済んだはずだ。数十歩に満たない距離から離れる方へ歩いてきて、遠いと理由づけるのはどういう了見か。
ナキは腹を括って彼をねめつける。
理解した。彼はナキの行動を阻害する者だ。
「治療を遅らせる必要がある──リディオル殿を助ける気はない、ということですか?」
名乗りもせず、何者かも知れない相手に尽くす礼はない。会ったばかりで、不可解な行動を取る彼らに、全幅の信頼を置けというのにも無理がある。
「はずれ」
ナキが前面に出した敵意を意にも介さず、彼はあっさりと受け流す。
「なら、どうしてですか?」
くじかれた出端を立て直し、ナキは彼に質問を重ねる。
「どこの誰とも知れないあなたたちを、全面的に信じろと言うんですか?」
そのひと言は、よほど彼の意表を突いたらしい。彼は一人で納得したように「ああ、そうか……」と呟いている。
この状況で何を納得したというのか。ナキに思い当たることは何もないというのに。
「──王宮の方ですよね?」
探るような疑問は、前方からやってきた。
腕を取られているエリウスが、首だけナキたちの方を向いている。
「どうしてそう思う?」
そう訊いたのは、エリウスの腕を離さない男性だ。表情が見えづらくてもわかる。男性は、面白そうな顔をしていると。
「私の名を聞いて、瞬時に治療師だと判断されていました。それと、そちらの方は一瞬だけ驚いていましたね? 前代のエリウスをご存じだったのではありませんか?」
「ほう。それで?」
「受継が起きていたことに驚かれていたのではないでしょうか。名だけで治療師だとわかるのは賢人を知っている人物。あなたがたは、賢人と近しい立場にいたのではないかと推測しました」
そういえば。
不思議な光景だったことに気づく。
エリウスは、今も腕をつかまれたままだ。素性の知れない者に強引に引っ張られたなら、抵抗のひとつでも試みておかしくない。それなのに、エリウスは振り払うどころかされるがままだ。望んではいないだろうが、この状況を甘んじて受け入れているように思える。
ナキは、隣でリディオルを担いでいる彼を見る。この人は、前を行く男性に従っているように見える。さながら、主につき従う立場にいるかのような──
「それで? 私は何者だと予測した?」
男性からの催促に、エリウスはこわごわ口にする。
「あなたは……いえ、あなた様は──国王陛下でいらっしゃいますか?」
ナキは見た。男性がエリウスを向いて、満足げな笑みを口の端に乗せたのを。
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王宮の廊下を、ファイクはひぃひぃ言いながら走っていた。
通りすがる人々が何事かと一様に視線を送ってくる。どれもちらと投げかけるだけ。すぐに興味を失くしていく。
気にはかけても関心が薄い。それはファイクが評する、王宮にいる人間の人となりだ。
無論、全員がそこに当てはまりはしない。王宮という特殊な場が作り出す空気に不満があるわけではないし、なんだかんだファイクも染まっているだろう自覚もある。
どたどたと軽くない足音を鳴らしているおかげで、注目を浴びてしまうのもやむを得ない。関心がよそに移ってくれるならむしろ有り難い。変に気遣われたり話題にされるよりは、無関心でいてくれた方が良い。ファイクとしても願ったり叶ったりだ。
薬師見習いが忙しそうに走り回る光景は、王宮での日常茶飯事。見た人がそう思って気にも留めないのなら、いくらでもなりきろうではないか。
グレイならば、もっと日常に溶け込めるような所作でやって来れただろうか。比較対象を挙げ、言動を思い返し、今にも肩を叩いてきそうな後悔から逃げる。済んだことを悔やんでも、やり直しは効かない。
塔の頂上まで上る役目と、薬室まで走る役目。どちらが大変かなんて、秤で簡単に計れる事柄ではない。別に、体力のないファイクが階段を上りたくないからという理由だけではないのだ。断じて。
運動が苦手なファイクに、急いで呼びに行くなんて芸当はできない。これを機に体力つけたらなんて言われそうだ。凄まれても、たとえナキでも、その提案には頷けない。
ファイクは走り込みをするより、植物の生態を調べる方がずっと有意義だと思っている。何より没頭できるほど楽しい。調べるほどに、今まで知らなかった知識を得られるからだ。
「基礎体力を、つけるのは、確かに……大事だけど、さっ」
会話してくれる人が近くにいないので、先ほどからずっと一人で喋っている。通りすがる人に不思議な目で見られるが、声をかけてくる者は誰もいない。
ファイクは、聞く者のいない言葉を延々と喋り続ける。口がおっつかなくても、脳内で語り続ける。ただ走るだけではいけない。思考回路を満たさなければ、隙間で余計なことを考えてしまう。
彼が誰かに見つかってしまいやしないか。ラスターと会うことなく終わってしまうのではないか。この計画の失敗を。
見慣れた扉。ファイクは中へと飛び込む。
探していたナキどころか、誰の姿もそこにはない。──レーシェがいなかったのは僥倖だが、見習いはいなくて当然か。ナキを除いて、他の見習いたちがここにいないことは既に知っている。
ナキは頼んでいた本を取りに行くと話していたから、ここにいないなら恐らく書庫だろう。待っていればそのうち戻ってくるはずだ。
薬室から外へ行きかけて、ファイクは思い直す。ここから書庫までの道のりは、ほぼ同じだ。王宮の中を半円を描くように回っていけば、書庫へとたどり着ける。
ナキがどちらの道を通ってくるかわからない。これで行き違いになってしまったら、余計な時間を食ってしまう。大人しく待っているのがいいだろう。
「……グレイの薬だけでも、用意しておこうかな」
創傷の薬ならば、いくらか作り置きがあったはずだ。薬を塗って、綿紗で押さえて、包帯を巻いておけば、これ以上悪化しはしないだろう。
「シェリック殿もシェリック殿だよ……薬草園の明かりが壊れるってわかってたなら教えてくれてたっていいのに……」
予め聞いていたなら、グレイもファイクも対処できたかもしれない。起こるかどうかわからなくとも、近づかないという一点に関しては準備ができた。
「とりあえず、これで──」
そのときだった。うしろで小さく、音が鳴ったのは。
ファイクの肩が跳ねる。誰かいたのか。いつの間に。
悪戯が見つかって怒られる直前。子どもの頃に戻ったみたいに全身が固まる。蛇に睨まれて石にされてしまう物語が、どこかになかっただろうか。
そこにいた誰かが悠然と歩いてくる気配がする。ファイクの方へと。違う。これはナキの足音ではない。ナキはもっと、早足で歩く。
一度口から出てしまえば戻せない。取り消せないから弁解をする。言葉とは、そういう性質だ。
見つけられていなかった。すぐには見えないところにいるなんて、ファイクは思ってもみなかった。
足音はファイクの背後でぴたりと止まる。逃げるのも、しらばっくれるのも、もう遅いと。
「──面白そうな独り言が聞こえてきたわ」
振り返れない。一番、見つかってはいけない人がそこにいる。
「いなくなったシェリックの居場所、あなたは知っているのかしら」
詰問されているのではない。レーシェは穏やかに話しかけてくる。どこまでも優しくて、その表面がいつ崩れるのか想像するだけで怖い。
「案内して、くれるわよね?」
「……はい」
ファイクは観念して頷く。口は災いの元になり得る。
想像する限り、最悪の展開になったのだと悟った。