175,知らぬ名前のその人は
どうしてこう、この道のりは長いのか。両手で抱えた書物と同じくらい、足の運びも重い気がする。
書庫までの距離はそう遠くない。最短で考えるならば、薬草園に行くまでの距離とあまり変わらないのではないか。──ただし、あくまでも位置関係だけなら。
人は壁の間を通り抜けられない。柱をなぎ倒していくわけにもいかない。通行可能な通り道を歩いていくと、王宮を半周しなければならない道のりとなるのだ。右から行っても左から行っても、かかる時間はほとんど変わらない。なんともまあ、厄介な位置にあるのだか。
「こんにちは、ライゼン殿」
「おや、ナキ殿。こんにちは。本日は返却ですかな?」
ナキを出迎えたのは、書庫の主として名高い宰相ライゼン=ミニストル。数十万と保管されている書庫でも、彼の手にかかれば探し当てることは造作もないと言われている。
ナキも何度か彼に助けられているのだが、彼の手腕には舌を巻いた。探している書物の概要を彼に伝えると、狙い澄ましたかのような一冊を渡されるのだ。
ときにはその冊数が増えることもあるのだが、的確さを違えることはない。さながら探偵のようだと称していたのは、レーシェだったかファイクだったか。
「はい。それと、頼んでいた書物をお借りしに」
「なんの。重たい荷物を持ってきてくださってご苦労様でした。あれはナキ殿でしたか。少々お待ちを」
書物を取りに立ち上がるライゼンの背中を、ナキはなんとなしに見送る。
優しげな風貌が、片眼鏡で隠れてしまうのは勿体ない。彼の優秀さに焦点が当たりがちだが、彼が纏う雰囲気や容姿も一役買っているのではないかとナキは思っている。現賢人の中で最年長の人物でありながら、年齢やその地位を笠に着ることなく、関わりの薄いナキにも丁寧に接してくれる。驕慢から最も遠い人物であり、彼がこれまでたどってきた人生には、憂いも迷いもなかったのではと疑ってしまいそうなほどだ。
──いや、憂いなく、迷いなく、進める人生など存在しない。経てきた経験がどれだけ壮絶だったとしても、彼はここで温和な笑みを見せてくれる。ナキにとっては、その今が彼を表す全てだ。
過去の蓄積が今を形成し、経験がその人を作り上げたというなら、乗り越えてきた成果に感謝しよう。
グレイも、ラスターも、そしてナキも。
経験から何を考え、何を学び、何を生かすか。全ては、その人の人生という一本道に通じていく。
書物を手にし、戻ってきたライゼンへ挨拶も世間話もそこそこに、ナキは書庫をあとにする。蒼然とした空を外に見つけ、そのときが近いことを確認する。
ナキより少し前に薬室から出て行ったグレイは、かくまっている彼とともに塔へ上る手はずになっている。
迷っていたラスターは決めたのだろうか。覚悟の有無を尋ねたファイクの横から、ナキは簡単な二択を問いかけた。小難しくすればするほど、大仰に捉えてしまえばしまうほど、選ぶ側にも大きな負担が生じてしまう。緊張感は必要かもしれないが、不必要な緊張は本心を押し込める結果に繋がりかねない。
ナキの意図が上手くはまってくれればいいと思ってはいるが、決めるのはラスターだ。心が疲弊していた彼女へ、決断と行動に矛盾がなければいいと願うばかりだ。
だから、なんとなく足がそちらへと向かってしまったのだろう。来たときの道のりではなく、そのままさらに進むような形で薬室まで戻る方向。彼がかくまわれている薬草園の横を、通りすがる道を選んでしまったのは。
考えが占められると、気持ちも行動もそちらに引き寄せられるらしい。上の空とはこのことだ。今更引き返したとしても戻る時間が遅くなるだけだ。
ナキは諦めて受け入れ、書物を抱え直して歩いて行く。 妙な匂いを嗅いだのは、治療室の前を通り過ぎたくらいのときだった。
漂ってくる薬品は慣れ親しんだ匂いなので、苦でもなんでもない。しかし、今そこに混じる別の匂いがある。
どこからだろう。グレイといるとたまに同じような匂いを嗅ぐが、これは、それよりももっと強烈だ。何かを焼いたような、焦げついた匂い。
歩く度に強くなる匂いに、ナキは書物を抱えている方とは反対の腕で口と鼻を覆う。布が欲しいところだが、常に持ち歩いてはいない。長袖の服で良かったと思う。強くなるということは、近づいているのだろう。
進む先、前方右側に、扉が半開きになった部屋がある。王宮の内側に面した部屋ということは、賢人の誰かの部屋だろう。匂いの元も、そこから来ている気がする。
微かに開いてはいるが、そのまま入るのは躊躇われ、ナキは扉を二度叩く。返事はない。部屋の主が慌てて出て行って扉を閉め損ねたのか、もしくは空調確保のためか。換気をするなら、窓を開けた方がいいのではないか。建物内より外の方が、広さは断然ある。
「……失礼します」
覗き込んで、ナキは息を止める。
そこは、酸鼻を極める状態だった。
棚はあらかたなぎ倒され、その周りには大量の書物が散っている。力任せにはぎ取られたような遮幕、足を折られて半分を焼かれたような椅子。間にあったと思しき卓は原型を留めているが、天板に残っているひびは、どれほどの力を込めたらこうなるのだろう。
匂いどころか、この惨状は何があったのか。まるで、この部屋だけ強盗に襲われたのだと言われても、納得してしまいそうだ。
「何、これ……何が……」
いや、それよりも誰が。なぜ誰も気づいていないのか。
こんなに異変を感じさせる匂いを発していて、騒ぎひとつ起こっていない。この状態で、窓硝子はひとつも割れていないことが不自然に感じる。まるでこの部屋だけ時空を超えてきたような、得体の知れない恐ろしさがここにある。それと、もうひとつ。
──では、ここに。
踏み入れられずにいた足の代わりに、ナキの目がその答えを探す。怖かろうが、知らなければならないと。
──ここに、人はいたのか?
この惨状を作り上げた者はとうにいないだろう。では、それ以外に誰かがいた可能性は? 誰かが襲われた可能性は?
棚の下。人が入れる隙間はなさそうだ。壁沿い。人らしき影はない。横倒しになった調度品の陰。何もない。端へと飛ばされた卓の裏。そちらにも人の気配はない。奥の執務机の向こう側。黒い塊が落ちているだけ。
あれは。
人の靴に見えやしないだろうか。
書物を足元に置き、ナキは部屋に飛び込む。躊躇などしている場合ではない。回り込んだ机の下方。ナキは、想像が間違っていないことを知った。
うち捨てられたような人の姿。手と顔のあちこちに灰と煤がついて、力なく手足を投げ出し、その人は仰向けに倒れていた。
王宮ではあまり見かけないが、顔は知っている。叫びたいのに、引きつれた喉からは悲鳴どころか声すら出てこない。生きているのだろうか。死んでしまったのだろうか。
「リディオル殿!」
揺すろうとした手が彼の腕輪に触れる。ようやく見つけてもらえたとばかりに、澄んだ一音がちりんと鳴った。
とにかく、誰かの手が必要だ。ここから連れ出すのも、確かめるのも。ナキの手で成人男性は運べない。治療室の近くという位置を嘲笑うかのような凶行。皮肉な現実に、唇を噛まずにはいられない。誰が、こんなことを。
震える膝を伸ばし、入り口を振り返って、ナキはぎくりと身を強張らせた。
「うわ、酷いなこりゃ」
「相当やられましたね」
見知らぬ男性が二人、いつの間にかそこに立っていた。いや、これは都合がいい。
「あの、手を貸してください!」
誰かは知らないが、人であることに間違いはない。
背の高い方が先に動き、散乱しているものをひょいひょいと避けてナキの元までやってくる。近づいてきた彼を見て、先ほどとは別の意味でぎょっとした。彼が身につけている装飾品の量は、あまりに見慣れない多さだったからだ。
彼は倒れているリディオルを見て、目を見開いた。
「予想以上にやられてるじゃねぇか。……過信すんなっつったのに」
顔をしかめて、そうつぶやく。
「過信しなかったから最小限に留めたんじゃないのか?」
「そうとも言いますね。──よ、っと」
彼は難なくリディオルを肩に担ぎ上げ、入り口で待つもう一人の元へと向かう。
あまりに鮮やかで淀みなく行われた行動。呆然と眺めつつ彼らのあとを追うナキだったが、彼らが歩き始めた方向に気づいて、慌てて声を上げた。
「待ってください、どこに連れて行くんですか!?」
書庫の隣に位置する治療室は、目と鼻の先だ。先ほどナキが歩いてきた道をたどればいい。
彼らが向かおうとしている方向は、全くの逆方向だ。治療が必要な人間をそこから遠ざけるとはどのような目的か。さすがに看過できない。
ナキは、振り返った二人の眼前へ躍り出た。立ちはだかるというには語弊がある。進行を遮るならば、彼らの背中側へ行くのが正しい。
敵か。味方か。この短時間では判断がつかない。けれど彼らがもし、治療を邪魔するというならば。ナキは止める理由がある。
「治療室は反対です。その人を、どこに連れて行くつもりですか?」
リディオルが賢人だからではない。ラスターや、かくまっていた彼と親しいからという理由だけではない。目の前にいる人間を見殺しにするなんて真似は、したくない。
「どこに、と言われてもね」
「──ナキさん? こんなところで何を──」
ナキのうしろからやってきたエリウスに、ぴんと閃く。渡りに船だ。
「エリウス殿! リディオル殿を助けてください!」
「えっ、リディオル殿……? それに、あなたがたは……」
唐突に巻き込んでしまって申し訳なく思う。ナキにもよくわからないこの状況を、エリウスに一瞬で理解しろといっても無理な話だ。ナキ一人で把握に努め、対処するよりはよほど心強いのもまた事実だ。
相手は二人。こちらも二人。数の不利を払拭するくらいはできただろう。
彼らはどう出るか。この状況でもなお、治療室へ向かうことを拒むだろうか。
「──治療師がいるならちょうどいい」
腕を組み考えごとをしていた男性が、有無を言わさぬ素早さでエリウスの腕をむんずとつかんだ。穏やかそうな雰囲気からは、想像つかない隙のなさで。
「あ、あの?」
リディオルを担いだ男性は動こうとせず、彼らのやり取りを遠巻きに見ている。彼が逃げようとしたなら追いかける心づもりいたのだが、動く気配はまるでない。
もう一人の男性を、待っているかのように。
「ちょっと力を貸して欲しいんだ」
「何事ですか……?」
どこか緊張を含ませながら、エリウスが呟く。
それは、ナキの方こそ知りたい。