172,かくして賽は投げられた
当惑の色は隠せないのに、両目の強さがそれを打ち消している。戸惑うより、逡巡するより、まだ来ぬ彼へ向けられる敵意の塊がうっすらと滲み出ている。
ラスターへ向いているのではない。わかっていても、射すくめられそうになる。眼差しの強さに、わけもなく退きそうになる。
「どうして、信じられるんですか」
ラスターから外された視線。
「ラスター。あなたはあの人に殺されかけたんですよ。そんな人をどうしてまだ信じていられるんですか? 騙されていないと、どうして言えるんですか?」
「……どうしてだろう」
新しく薬を作るように。小さな芽が人の背丈を越す大樹となるように。
人と人との関わりは、一朝一夕では築けない。出会ってすぐに意気投合することもあれば、途方もない時間を要してようやく挨拶を交わせるようになる人もいる。
壊れてしまうのは一瞬だ。積み重ねてきた時間も、近づいた距離も、思い出も、何もかも。初めからそんなものはなかったかのように、崩されてしまう。
会いたくないはずなのに。何よりも怖いと感じているのに。
最後だから。確かにそうだ。この機会を逃したら二度と会えないかもしれない。
本心を聞きたいから。理由もなしにラスターを殺しかけたりする人ではない。
このままいなくなってしまいそうだから。放っておけばよかったかもしれない。
信じられるからではない。
「信じてるんじゃなくて、ボクがシェリックと話したいんだ」
「殺されかけたんですよ?」
「うん、そうだよね」
「そうだよね、って……」
狼狽えだしたユノはおかしくない。ラスターがユノの立場にいたなら、ユノと同じように反応するだろう。
「おばあちゃんが言ってたんだ。先入観だけで物事を捉えちゃいけないって。誰にでも見せる顔がその人の全てじゃないし、誰にも見せられない顔を持っている人だっている。ユノから見たシェリックは、禁術を犯して牢屋に入れられて、今度はボクを殺そうとした悪い人なのかもしれない。でも、ボクから見たシェリックは優しい人だ。初めから今まで、ずっと」
出会ったときにも殺されかけた。船では保証と言いながらついてきてくれた。海に投げ出されたときだって助けてくれて、王宮に来てからも気にかけてくれた。ずっと言わずにいた罪を、ラスターに話してくれた。
シェリックの都合もあるだろう。気が向いただけだったかもしれない。それえも話してくれるほどに信頼を寄せてくれたと思うのは、ラスターの自惚れなのかもしれない。
「初めはお互いに干渉しないって、言わなくても決めてたケド、ボクみたいな子どもと一緒にいてくれた。ボクが薬師でいられるように助けてくれた。最初からボクを殺すためだったら、そんな面倒なコトしないよ」
何も聞かずにいてくれた。
ラスターがシェリックのことを訊かずにいたから。同行者として気が楽だったから。ラディラ共和国という、シェリックにとっては未知の国を知る者だったから。ラスターを一人にしては寝覚めが悪いから──理由はそれだけではなかったはずだ。
一緒にいるだけなら助けたりしない。ただ同行するだけなら、ラスターが困っても見て見ぬ振りをすればいい。干渉せず、手を出さず、傍観していればそれでこと足りただろう。自分の都合だけにつき合わせたのならば。
「ケド、レーシェが許してくれない。近づくコトも、話すコトも、全部却下される」
「当然ですよ……ラスターがあの人と顔を合わせたら、もう一度殺される可能性だってあります。ラスター、今度こそあなたが殺されてしまうかもしれないんですよ」
「そうだよね」
仕留め損ねた獲物の息の根を止めるために。目的が完遂されるまで、何度だって果敢に挑んでいく。達成するために必要なことは、失敗しても打ちのめされても、目標に至るまで決して諦めないことだ。
「──っ、どうしてそんなに楽観的でいられるんですか!」
傷ついたような表情をして。一語一語を区切り、ユノはラスターに訴えてくる。
「楽観的なのかな」
「そうですよ! シェリック殿と会うって正気ですか? 平気なわけないじゃないですか! ラスターはどうしてそんなに平気そうにして──」
「平気じゃないよ」
楽観視しているつもりもない。
「何もしないっていう選択肢はいつでも選べる。でもそれって、あのとき動いていれば良かったかもしれないって思っちゃうかもしれない。だったら、ボクにできるコトをして、少しでも動いて、それでも駄目だったって思う方が諦められる。動いたら、そこから新しい道だって見えてくるかもしれない。動かないで悲観してたって、何も変わらないでしょ?」
レーシェに守られていては、あの部屋から出てこれない。禁術を使ったから、牢屋に入れなければならない。また何をしでかすかわからない。だから遠ざけておかなければ。閉じ込めておかなければ。罪を償わせて、もう誰も関われないように。
決定権もないままに誰かに決めつけられて、諦めるなんて──して堪るものか。
「ボクだって怖いよ。怖くて怖くて、逃げちゃいたいよ。シェリックと会うのが正しいのかわからない。もしかしたら間違ってるかもしれない。でも、今ボクが逃げちゃったら、もう二度とシェリックに会えないかもしれない。やろうとしてた選択もできなくなっちゃう。シェリックはずっと、いつでもいなくなれる準備をしてたから」
過去に禁術を犯しても、牢屋に入れられても、アルティナから離れても──それでも、王宮がシェリックの帰ってくる場所だった。占星術師という大義名分を与えられて、いなくならないための枷をつけられて。
シェリックもそれを許容していたから、王宮へと帰ってきた。ラスターが人質に取られていなくても、きっと一人で帰ってきたに違いない。枷を外して、今度こそいなくなるために。王宮とシェリックを結んでいる関係を断ち切るために。
「ボクはもう、誰かに理由を作られて諦めたくない」
正しさに従うか。心の赴くままに従うか。
正解の道はわからない。歩いてきた道を振り返って、その道が本当に正しかったかどうかを判断する。決めるのは全て終わったあとだ。道半ばでは、判断するだけの材料が足りない。歩いてきた道の末に、望む答えを得られたか否かだ。
「ユノだったらどうする?」
今なら聞けるだろう。
「会いたい人がいて、その人には簡単に会えない。会うのは怖いし、会いたくないと思ってるんだケド、それでも会いたい。その人と会える機会が一度だけあって、それが最初で最後だったなら、ユノはどうする?」
答えが足元に落ちているみたいに。下をじっと向いて、ユノは耳を傾けてくれる。
今なら、誰かの結論を聞いても、ラスターが揺れることはない。ラスターの答えは、ここにある。
もう、自分の声に惑わされたりしない。後ろ向きな考えがなんと言おうと、ラスターは意志を曲げたりしない。
言いたいこと。伝えたい心。抱いている感情。他人の感情は覗けない。考えていることを言葉にするのはそのためだ。伝えようとしなければ、相手に届きはしない。
だから、ラスターはシェリックに会いたい。伝えようと決めた。怖くても、恐ろしくても、身が竦んでも、逃げ出したくても。ここに来ると決めた。
伝えたいだけじゃない。ラスターは知りたい。シェリックから聞きたい。どうしてラスターを殺そうとしたのか、説明してほしい。
人を介してしまうと、違った意味に変わってしまうかもしれない。人づてに聞いてしまうと、間に入った人の解釈が加えられてしまう可能性がある。だから、シェリックから直接教えてほしい。嫌われていても、憎まれていても、疎まれていたとしても。シェリック自身の言葉で聞けたなら、納得はできる。
大丈夫、セーミャが一緒にいてくれるのだから。言い訳も逃げ道もなくなってしまえば、ようやく諦められる。
「──ラスターは、それをずっと考えていたんですね」
「だって、みんなが遠ざけようとするんだもの。反抗したくもなるよ」
堪えていた痛みが和らいだように。ユノは少しだけ笑ってくれた。
会いたくて、会いたくなくて。ナキに話を聞いてから、ラスターは悩み続けていた。今だってずっと考えている。何を話そうか。どんな言葉で伝えようか。
想像の中で、シェリックの顔は見えない。おぼろげになるほど、霞んでしまった。
「シェリック殿は、ここに来るんですか?」
「うん。だから、さっきユノにここにいていいか訊かれたとき、すぐにうんって言えなかった」
「そうですか……」
「ごめん。心配してくれてるのに」
ユノは、ラスターのためを思って言ってくれただろうに。応えられない心苦しさで、つきんと痛む。
「セーミャ殿もご存じだったんですね?」
「はい。騙してしまうような形になってしまってすいません」
「いえ、決してそんなことはないですよ」
ユノは首を横に振り、ラスターへと近づく。すれ違う瞬間。
「オレにとっては好都合ですから」
冷たいひと言が通り抜けた。
「──うっ」
何かがぶつかり合ったような鈍い音。漏れた声。渦巻いた風。消えたセーミャ。
音のした方向を目で追う。そこには、目の前から消えたセーミャが倒れている。セーミャを見下ろすユノの手には、片腕の長さほどの杖がある。
「セーミャ……? ユノ……?」
ユノは今、なんと言った。
悟った結論を身体が拒絶する。認めたくないと。何かの間違いだと。では、この光景は。今の鈍い音は。横殴りの突風の正体は。好都合とは、なんのことだ。
誰に何を訊いたらいい。答えを持つ者は、一人しかいない。
「──ようやく確信が持てました。ありがとうございます」
平坦な声が発せられる。困惑した様子も、心配をしてくれていた口調も、一切がはぎ取られている。頭から冷水を浴びせられたように、ラスターの思考が凍りついた。それは知りたかった答えだったと、嫌でも理解する。
そこにいるのはユノだ。ユノなのに、ユノではない誰かがここにいる。得体の知れない生き物が、戸惑うラスターを無感情に映している。
近づいてはならない。ラスターの本能が、左足をうしろに下げる。けれど、それだけだ。二歩目が出ない。
「それとすいません、ラスター」
ラスターが逃げられないのを知っていたように、ユノはゆっくりと歩み寄ってくる。持っていた杖を、ラスターの眼前でぴたりと静止させた。突きつけられるには静かで、渡されるにしては不自然な向き。
──ああ、前にもこんなことがあった。誰何され、理由を問われ、杖を向けられた。
「シェリック殿が来るまで、人質にさせていただきますね」
かつて薬草園で遭遇したユノとは、別人に成り果てて。