171,夢に夢見る暮れ方で
日は少しずつ地平線に近づいて、空の色を変えようと画策している。変わるけれど、まだいかないよと、夜にはならないと、意地悪されているようだ。
夜が来てしまう。──早く夜になれば良いのに。
ちゃんと伝えられるだろうか。──顔を見て話がしたい。
来てくれることを疑いはしない。人づてながら、シェリックは来ると言ってくれた。口約束かもしれない。保証なんてない。けれど、嘘ではない。
夜になってしまう。決めきれずにいた心が、早く早くと急かしているのに。
一緒にいたい。彼の力となれるように。──本当に? 殺されかけてもなおも思い続けていられる願いなのか? 今に見てろと。足が竦む。顔が強張る。彼に触れられやしない。脆い意志なんて、簡単に砕け散ると。
ラスターの願いを打ち消すように、心のうちから誰かの反論が聞こえてくる。まるで、ラスターとシェリックを会わせたくないかのように。
邪魔をする意図はなんだろう。ラスターの願いが叶うわけがないと思われているからか。ラスターの不安を煽りたいだけか。それとも、本当はラスターも心のどこかでそう思っているからか。
ラスターは合わせた両手をぎゅっと握る。右手と左手の温度を、お互いが感じられるように。
何かを祈るときに両手を合わせるのは、片手だけではこぼれてしまう思いを両手で包み込んで、大切に守るためではないか。頼りない片手でも、ふたつあればより多くの思いを守ることができる。
人にはふたつの腕しかない。もうひとつ──もう一人の腕を合わせて三つにしたなら、その守りはさらに強固にできるのではないだろうか。
決して揺らぐことのないように。どんな甘言にも乗らぬように。包んで、包み込んで、誰にも見えない奥底で、大切にしまっておいたなら。
──守るだけの価値は、そこにあるの?
なおもかき乱すような言葉には、乗らないと──
「ラスター」
上がってくる足音には気づいていた。
シェリックがやってくるにはまだ早い。夜と呼ぶには若干の時間がかかる。だからきっと、足音の主はセーミャだ。
「ここにいると聞きました」
しかし、次のひと言がセーミャではなかったことに、ラスターは少しばかり驚いて振り返った。
先にラスターを呼んだセーミャもそこにいる。だから、予想は半分だけ正解した。
「どうしてもと言うので、連れてきちゃいました」
外れた予想のもう半分。セーミャの隣で、ユノがラスターへと会釈をした。
「セーミャ殿に無理を言ってしまいました。具合は、どうですか?」
どこか遠慮がちな様子の答えを、ユノが自ら教えてくれる。ユノらしい真摯さで、熱心に頼み込んだのだろう。ユノと同じような顔をしたセーミャに目配せされ、ラスターは小さく首を振った。
「ありがとう、ユノ。ボクは大丈夫だよ」
「そうですか」
光の加減で、ユノの顔色がいつもよりくすんで見える。これでは、心配する側とされる側が反対ではないか。ユノの方こそ具合は大丈夫なのかと尋ねたくなる。
ラスターの隣にやってきたユノは、遠くの空へじっと目を凝らす。視線を少しだけ上向かせて。ラスターが見ていたのと同じ景色を、その目に映すみたいに。
「この時刻でも、月は見えるんですね」
しみじみ呟いたユノの目線を追うと、雲に一部隠れながらぼんやりと浮かぶ月があった。満月と呼ぶには少し欠けている。完全な円ではなくても、丸い形だ。
反対側。ラスターの背後には、沈みきらない太陽がいる。夜と昼が同時に存在している。昼には遅く、夜には早い。橙色した、黄昏の刻。
鮮烈な光を残す太陽を見下ろしながら、所在なさげに立ちすくんでいる月。それは、まるで。
「迷子みたいだ」
夜という世界から迷い込んで、帰り道もわからぬまま夕闇に取り残されて。
寂しくはないだろうか。不安に思ったりしていないだろうか。あれほど強い印象を残す太陽が沈んでいくのを眺めて。ひとつだけ残されることに、胸騒ぎを覚えやしないだろうか。
「じゃあ、夜になったら仲間がたくさんお迎えに来ますね」
湧き上がっていた悩みごとを一掃するかのように。うしろを見たラスターへ、セーミャが上を指差した。
「今はわかりづらいですが、日が落ちきったら星が見えます。夜の主役は月ですが、星明かりも明るいですよ。月だけではありません。たくさんの光が輝きます。それに」
セーミャはふふ、と笑った。
「確かに迷子かもしれませんが、夜になったらどんな人でも簡単に見つけられます。月が迷子だったとしても、わたしたちが見つけてあげれば迷子ではありませんよ」
「それ、素敵だね。不思議な発想」
「ありがとうございます」
取り残されてもひとつではない。誰もがその目に捉えられる。時刻を、方角を、知るために。見上げる者も一人きりではないと思えるために。
だから、迷子のままではない。
月が帰る場所を見失っても、月のあるべき場所を知っている者たちがいる。仲間がここにいると、夜空が居場所なのだと教えてくれる。それはなんと、心強いだろう。
存在を認識される。当たり前にも思えるその感覚が、なんて嬉しくなるのだろう。当たり前が当たり前じゃない。その事実ひとつを知っただけで。
「そうだね。一人じゃないよね」
「ええ。一人じゃありません」
セーミャは力強く頷いてくれた。
一人じゃない。孤独ではない。
では、一人きりになってしまうシェリックは今、何を考えているだろう。
賢人の地位が剥奪され、王宮という帰る場所を失ってしまう彼は。
見つけてほしいと思っているのだろうか。いいや、シェリックはそんなこと思わない。自ら進んで迷子になるのを選ぶだろう。誰からも見つけられない彼方まで、行ってしまうみたいに。
ラスターは左を向く。
「──ごめん、ユノ。ボクに何か用事があったんだよね?」
想像の海を泳ぐのも、思考回路をさまようのも、あとでいくらでもできる。せっかくユノがここにいるのに、考えに浸ってしまっては申し訳ない。不安に思うなら尚更。話していた方が、余計なことを考えずに済む。
気を紛らわせるためだなんて、それも失礼な話になってしまうが。
「用事というほどでもないですが……その、シェリック殿の通達を聞いて、ラスターはどうされているかと思いまして。ラスター、オレにできることがあったら、なんでも言ってください」
セーミャに無理を言ったと教えてくれた。だから、ユノはよほど切羽詰まった用事があるのだろうと思っていた。
事件ではない。命が関わるような何かが起こったのと違う。ユノは気にかけてくれたのだ。火急の用件がなくとも、ラスターを気にしてくれたのだ。
「ありがとう、ユノ」
もう一度大丈夫と言おうとして、浮かんできた躊躇いがそれを押しとどめた。
ユノの顔色が冴えないのは、何も夜のせいばかりではない。それに、ラスターばかり気にかけられてしまってもいけない。それを訊くのに、少しばかり勇気を要した。
「でも、ユノは? リディオル、戻ってきてないんだよね?」
ラスターがセーミャと一緒に、フィノの元を尋ねようとしたときだった。魔術師見習いのアルセという女性が、リディオルを探している場面に遭遇したのは。
その直後に快復したナキと出くわしたものだから、そちらの嬉しさが大きくなってしまったのだ。けれど、あれからリディオルが見つかったという話は聞いておらず、ラスターもここ数日は見かけなかった。戻った報を聞かない魔術師は、今も行方が知れていない。
ラスターがシェリックを待っているのと同じように、ユノにも待っている人がいる。言づてもなしに突然いなくなっってしまったら、誰だって心配になる。
リディオルの神出鬼没はわかっているつもりだが、何も言わずに姿を消したりするだろうか。フィノもおらず、リディオルも見つからない。一人ずついなくなってしまう。心配と嫌な予感が膨れ上がるのだ。
ユノが、強張った顔を無理矢理に笑顔へと変えた。
「大丈夫です。リディオル殿はどうにかするって言ってましたし、そんな人の近くにいたオレたちも、柔じゃないですから。そのうちひょっこり帰ってきますよ──きっと」
姿を見せないリディオルを心配しているのはラスターだけではない。見習いという立場もあり、より身近にいたユノたちの方が、その度合いは大きいだろう。
「リディオルは考えてるコトわかんないし、いつでもからかおうとしてくるし、はぐらかすし、内緒にしてばっかだ」
何を目的としているか想像がつかない。いつもラスターの予想をひょいと飛び越えていく。届かない悔しさと追いつけない遠さを感じては、歯がみしてしまう。
「そう……ですね。あんな人に、未だかつて出会ったことはありません」
「でも、思っていないコトは絶対に口にしない。リディオルがどうにかするって言ったなら、絶対になんとかしてくれる。ボクはそう思うよ」
外側だけではわからない、リディオルが持つ本心。面倒くさいと言いながらも行動を起こして。適当な態度と思わせながら、その裏で着実にこなすための土台を前もって作り上げて。
出会ったときもそうだった。
シェリックをアルティナに連れてくるために。彼が仕組んだ計画は、どこからどこまでだったのだろう。ルパでシェリックと面会したことすらも、彼の画策だったのではないか。
いいようにされてしまって地団駄を踏みたくなる反面、成し遂げるためにありとあらゆる手段を講じてきた計画性には恐れ入る。結果としてリディオルの思い通りになってしまったが。
忙しいと口にしながら、誰よりも周囲を気にかけていた。ラスターもリディオルに力づけられた覚えがある。理由も意図も全く想像はつかないけれど、リディオルが何かをしようとしている企みは、ラスターにも感じられた。
ずっとずっと先を歩く人。シェリックと肩を並べている人。彼らの横まで追いつこうとするのが、そもそも無謀かもしれない。
「……逆に励まされちゃいましたね」
励ませたのだろうか。弱々しく笑うユノからはとてもそうは感じられない。もしや、ラスターにこれ以上心配をかけまいとしているからだろうか。
顔を曇らせないように。思考が占められてしまわないように。不必要な言葉で煽らないように。
その心がけを、ラスターが有り難いと思っているなら大間違いだ。
「ユノ、辛いときは弱音吐いたっていいんだよ」
ラスターだって思っている。ユノに、無理に笑ってほしくないと。
顔だけでも笑っていたら、笑顔は作れるだろう。けれど、心と表情がちぐはぐな状態では、知らぬ間に心が悲鳴を上げてしまう。理屈に合わないと、どこかで無理が生じてきてしまう。
心を偽って、嘘を積み重ねて、表へと出られなくなった本心は奥深くに隠れる。何重にも覆われて、誰からも見つけられなくなる。ありのままを出せずにいると、素直に笑うことも、泣くことすらも、できなくなる。本当の心がどこにあるか、自分ですら見つけられなくなってしまう。
そうして、本当の心が一人きりで絶叫する。気づいてほしいと、もう限界だと、偽りの仮面に爪を立てる。
「誰かの前が難しければ、一人だっていいんだ。でも、二人だったら一緒に悲しむコトができる。聞いてあげられる。大変だったねって、辛かったねって、言ってあげられる。聞いてもらうコトで心が軽くなるかもしれない。──あ、でも別に、今話してって言ってるわけじゃないよ?」
それは、かつてのラスターとシェリックの距離だった。お互いに踏み込まず、事情を聞き出さず、一緒にいるだけの間柄。近すぎない代わりに、遠ざかりもしない。一定を保っていられる位置。
「……ありがとうございます。そうですね……いつか、お話できたら……」
ユノが口を閉ざすのは、きっと聞かれたくないからだ。言いたくないことは誰にだってある。
「うん。ユノが話してくれるなら、ボクはいつでも聞くよ」
だから、ラスターもその線は踏み越えない。手前で立ち止まる。ユノが望まないならば、そこから先へは進まない。この距離が最適なこともある。今がそうであるように。
聞くか聞かないかを選べるならば、話すか話さないかを選んだっていいはずだ。そうしたいかどうかを選ぶのは、人それぞれが持つ決定権なのだから。
ユノが目を合わせてくる。努めて明るく、話しかけてきた。
「そういえば、ラスターはどうしてここに? 塔の上なんて、来るの大変じゃないですか?」
不意を突かれ、ラスターは一瞬だけ口ごもる。
「──セーミャと星を見たくて。ほら、高いところの方が、星に近いから」
まさかユノに訊かれるとは思っていなかった。違和感なく答えられただろうか。
「下だとどうしても明かりが邪魔してしまうんです。塔の上だとより綺麗に見られると聞いたんですよ。ラスターがラディラに帰ってしまう前に、一緒に見ましょうと誘ったんです。こんな機会、またあるとも限りませんから」
ラスターに続いて、セーミャが補足をしてくれた。誤魔化しはうまくいきそうだ。内心で胸をなで下ろす。
外灯はユノが手がけたもの。その明るさも、便利さも、ラスターが説明するまでもなく知っているだろう。外灯の近くでは星がうまく見えないことも。
「じゃあ、せっかくなのでオレもご一緒してもいいですか?」
そのひと言が、全くの予想外だったことを除けば。
ラスターもセーミャも、今度こそ言葉に詰まる。しまったと、顔にありありと出してしまった。慌てて取り繕おうとしても、不自然な笑顔にしかならない。ユノがそう言い出すかもしれないと、今考えればわかったはずなのに。
「……オレがいては邪魔ですか?」
ほら、困らせてしまう。
ラスターたちの様子に何かを察したのだろう。ユノが顔を曇らせて訊いてくる。
「う、ううん。そうじゃ、ないんだケド……」
ユノがいては知られてしまう。
シェリックをかくまっていたことを。ここにやってくることを。ラスターを気にかけてくれたユノへ、いらぬ心配をかけてしまう。
ラスターは振り返る──振り返ってしまう。セーミャを見て、そうすべきではなかったと後悔した。
「もしかして……シェリック殿ですか?」
呟かれたのは、ほぼ同時。
「シェリック殿がいなくなったのは、ラスターにもう一度会おうとしているからですか?」
戸惑いと躊躇い。困惑しながらも、ほんの少し顔をしかめて。
ユノは、そう尋ねてきた。