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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
八章 アルティナ王国Ⅴ
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167,始まりの呪縛暴かれん


 その扉まで、よく走らずにたどり着いたと褒めてやりたい──そう思える余裕がある。それとも、そんな軽口で誤魔化せたならと、思ってしまっているからか。

 ナクルが朝一番を狙ってキーシャを起こしに来たということは、これから訪問する相手も起きていない可能性が高い。

 礼を欠いた行動であるのは百も承知だ。

 何もなかったならあとで山ほどの説教を聞けばいい。悪い予感が解消されたそのあとで。準備も警戒も、してしすぎることはない。それは、ナクルやリディオルから教わったことだ。

 何もかもが手遅れになってしまう前に。


 キーシャは二回、扉を叩く。この音が彼女を起こしてくれたらいいと、いつもより強めに。

 叩いた直後に浮かんできた後悔を、表に出さないようぐっと堪える。これで最後の躊躇ためらいも踏み越えてしまった。


「お母様、朝早くに申し訳ありません。おうかがいしたいことがあります」


 ふた呼吸分の沈黙のあと、扉は内側から開かれた。


「こんな早くにどうされました、キーシャ?」


 中から現れたシャレルは、着替えを終えている格好だった。

 口を開こうとした瞬間、中から漂ってきた甘い香りに意識を奪われた。

 刺激の少ない薬草茶の香り。身体が温まり、頭もすっきりと覚めるのだと、キャレルがよく用意してくれる茶だ。寝ているどころか、既に動き始めている状態だ。心のうちに抱いていた申し訳なさが、香りに同化していく。混じり合って薄れていくその様は、キーシャの想像の中でしかないが。

 時間も距離も。二人の間を遮る障害物は何もない。キーシャは思うがまま尋ねることができる。身体の前で両手を重ね合わせ、微笑を浮かべて待つシャレルへと、キーシャは今度こそ口火を切った。


「お母様、私がお聞きしたいのはお父様のことです」

「ええ、どんなことかしら」


 あくまでも聞く姿勢を崩さない。疑問を挟まず、キーシャからの言葉を待っている。前のめりになっていたキーシャの気持ちが引き戻される。もしや、シャレルはこんな日が来るのを予見していたのではないだろうか。


「お父様は今、どちらにいらっしゃいますか?」

「キーシャ、以前お話しましたね? 陛下は今、人前には出てこれないと。お忘れですか?」


 困惑した表情で返される。幼子を諭すように、やんわりと。これ以上は聞いてくれるなと。それは、話せない事情があるからか。


「では、お母様。お父様は本当に、今もご健在でしょうか?」


 勢いづいて尋ねた直後。キーシャはその一瞬を見逃さなかった。シャレルの表情が強張ったのを。その反応だけで十分だった。


「キーシャ。いくらあなたでも怒りますよ」

「ナクル」


 取り繕われたシャレルに用はない。キーシャが知りたいのは、彼女が覆い隠した向こう側。その仮面を引き剥がした先。

 うしろで控えていたナクルが、抱えてきた冊子を開いてシャレルへと見せる。キーシャの視界では内容を見ることができないが、見ずともどこを開いたのかわかる。


「嘆願書ですね」

「そのとおりです」


 さっと目を走らせたシャレルへ、ナクルが同意を示す。


「七年前とは……また随分古い記録を持ってきましたね。当時、何度も話に上がっていましたから、覚えています。この嘆願書に何か問題でもありましたか?」

「はい」


 ナクルに並び、キーシャはその箇所を指差す。ところどころかすれた文字。黒灰の洋墨インクで書かれた名前。


「お父様の署名です」

「ええ、そうですね」


 シャレルの目が書面から離れ、合わさった目線を真っ向から見据えるのとほぼ同時。


「お母様、この署名はお父様の文字ではありません。どうして七年前の嘆願書から、お父様の筆跡が異なるのでしょうか。何か理由があって、お父様が書けなかったからですか? それとも──」


 キーシャは口を引き結ぶ。質問するだけなのだが、どうしてこんなに躊躇ってしまうのだろう。無表情にすら見えてくるシャレルは、キーシャが気づくとわかっていたのだろうか。

 聞かなければ、始まらない。


「お母様。お父様は、ご健在でいらっしゃいますか? ──ご存命でいらっしゃいますか?」


 示唆された最悪の予想が、キーシャの語尾を震えさせた。

 一度出てしまった言葉は戻らない。答えを欲するならば、戻してはいけない。

 質問と同時に吐露してしまった不安が、長い沈黙を生む。他の者に話していない理由はわかる。もしも知れ渡ってしまったなら、王国民全てに不安が広がってしまうからだ。

 身内であるキーシャにさえ、明かせない事実であったなら──してはいけない想像が、現実を脅かしにやってくる。国王の死という事実をひた隠しにしているのではないか。彼女一人の胸の内に秘められて。全て秘密裏に処理されて。


「見つけたのはあなたですか、キーシャ?」

「いいえ、ナクルです」

「そうですか……」


 伸びてきたシャレルの指が、嘆願書へと添えられる。労るような触れ方。懐かしむにしてはどこか影が帯びている。まるで、手の届かないものへと思いを馳せるように。


「──陛下はご存命です」


 堪らず声を上げかけたキーシャより一瞬早く、シャレルは答えた。


「ご存命でいらっしゃいます」


 呆けてしまったキーシャにわかるよう、シャレルはもう一度はっきりと教えてくれる。

 亡くなっていない。

 国王は生きている。

 シャレルが目元を和らげる。


「あなたを嫁がせるまでは、決して星にはならないと豪語していましたよ」

「そう、お父様が……」

「キーシャ様!」


 膝から崩れ落ちたキーシャだったが、脇から伸ばされた力強い腕に支えられる。書類も抱えているのに、手を煩わせてしまった。

 思っていた以上に、キーシャの胸のうちを占めていたらしい。塞いでいた塊がごっそりとなくなったかのようだ。嬉しいはずなのに、その軽さに身体も心もついてこれていない。支えがなければ立つこともできないなんて、お笑いぐさだ。

 キーシャは膝に力を入れる。足の裏全体で感じるこの地面が、キーシャの立つ世界だ。


「ありがとう、ナクル。一人で立てるわ」


 支えていた手が何も言わず離れる。しかし、ナクルの気配はキーシャから一歩以上遠ざからない。何があっても手を伸ばせる位置。キーシャを守る鋼の意志が、そこにある。


「思い詰めさせてしまいましたね、キーシャ。ですが今、これ以上は私からお話しできません」

「お父様が生きていらっしゃるとわかっただけで十分です。教えてくださってありがとうございます、お母様」


 今は話せなくとも、永久に語られないわけではない。これから先、語ってくれる場があるだろう。今はまだ、その時機ではないのだ。


「お母様。機会が来ましたら、そのときは教えてください」

「ええ、必ず」

「こんな時間に申し訳ありませんでした。失礼します」


 キーシャは一礼し、ナクルとともに部屋を辞する。

 ナクルが見つけてきたのは、国王が記した署名の違いだった。誰が記したのか。なぜ国王ではなかったのか。詳しいことはわからずじまいだった。

 しかし、国王は生きている。キーシャが最も知りたかった情報がわかっただけでも朗報だ。


「戻りましょ、ナクル」

「はい」


 ナクルを促し、足を動かしていくのと同時に頭が鎮まっていくのを感じる。心はその反対。今にでも駆け出しそうな拍を刻んでいる。


 ──お父様が、生きている。

 ナクルから報告を受けて、キーシャの脳裏によぎった話があった。

 かつてルパを救った元海賊のヴェノム=サーク=アルエリア。彼が初代国王となり、彼の仲間たち十二人が賢人となって彼を助けたのだという。港町ルパで広められ、キーシャも知識として教えられていた英雄譚えいゆうたんだ。同時に、アルティナ王国の起こりでもある。


 ──実際には違う。シャレルから教えてもらった話は、これまでの常識を覆す内容だった。

 初代国王はルパを救った海賊ではない。海賊ヴェノムとともにいた、彼の仲間の一人だった。ルパを救った英雄は町で果て、英雄の遺志と名前を継いで、アルティナ王国を作り上げた。これがアルティナ王国の起こりであり、最初の受継だったと。

 名と意志を継ぎ、次に王国を支えていく者たちに託すこと。シャレルがひた隠しにしていた、アルティナ王国の受継の起源だ。

 だから、キーシャは考えてしまった。筆跡の異なる署名は、国王が受継をしたからではないかと。筆記具を持つことのできない状況にあり、誰かに代筆をしてもらったのではないかと。書くための手は既にこの世にはなく、空へ上ってしまったのではないかと。


「キーシャ様! どちらにいらしていたのですか」


 自室の扉を開けた途端、キャレルから浴びせられた抗議に目を丸くする。

 そういえば、茶を頼んだまま出かけてしまったのだったか。すっかり忘れてしまっていた。


「ごめんなさい、キャレル。そのままでいいからお茶をもらえる?」

「まだ冷える時間でしょう。お顔が優れませんし……ああ、ほら、手も冷えきっているではありませんか。新しくれ直しますので、温まってくださいませ」


 握られた手は、キーシャの温度を確認するとすぐに離れていく。なんとなく名残惜しくなり、左手で右手を包み込んだ。

 賢人たちが集まる場での彼女と、キーシャについてくれるときの彼女と。別人になり替わったような変わりように、ついつい苦笑いをこぼしてしまう。

 対等である立場だからこそ、他の賢人たちが集まる場では、醸し出される雰囲気に従うのだという。寄りかかるでもなく、押し付けるだけでものなく。互いを尊重して意見を述べられるように。それ以外は、緩められるところで気を緩めるのだと。

 キーシャは、キャレルからそう学んだ。


「すぐ淹れますので、少しお待ちください」

「ええ、ありがとう」


 執務机の前ではなく、来客用の椅子に腰をかける。

 柔らかく跳ね返る弾力が、キーシャを支えてくれた。

 キーシャは冷静だ。収まらない興奮が少しだけ体内にいるのを感じられるくらいに。


「キャレル、三人分お願いしてもいいかしら」

「お客様がいらっしゃるのですか?」

「いいえ、あなたたちに」


 キャレルが、茶器を準備していた手を一旦止める。


「そこまでお気遣いなさらずとも」

「私が労いたいの」

「かしこまりました。ご相伴にあずかります」


 キーシャは斜め後ろに控えていたナクルを顧みた。


「ナクルも座ってちょうだい」

「キーシャ様は包囲網を敷くのが得意でいらっしゃる」

「目的遂行のための手段よ」

「かしこまりました。失礼します」


 そうしてナクルも、キーシャの向かいへと腰を下ろした。




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