167,始まりの呪縛暴かれん
その扉まで、よく走らずにたどり着いたと褒めてやりたい──そう思える余裕がある。それとも、そんな軽口で誤魔化せたならと、思ってしまっているからか。
ナクルが朝一番を狙ってキーシャを起こしに来たということは、これから訪問する相手も起きていない可能性が高い。
礼を欠いた行動であるのは百も承知だ。
何もなかったならあとで山ほどの説教を聞けばいい。悪い予感が解消されたそのあとで。準備も警戒も、してしすぎることはない。それは、ナクルやリディオルから教わったことだ。
何もかもが手遅れになってしまう前に。
キーシャは二回、扉を叩く。この音が彼女を起こしてくれたらいいと、いつもより強めに。
叩いた直後に浮かんできた後悔を、表に出さないようぐっと堪える。これで最後の躊躇いも踏み越えてしまった。
「お母様、朝早くに申し訳ありません。おうかがいしたいことがあります」
ふた呼吸分の沈黙のあと、扉は内側から開かれた。
「こんな早くにどうされました、キーシャ?」
中から現れたシャレルは、着替えを終えている格好だった。
口を開こうとした瞬間、中から漂ってきた甘い香りに意識を奪われた。
刺激の少ない薬草茶の香り。身体が温まり、頭もすっきりと覚めるのだと、キャレルがよく用意してくれる茶だ。寝ているどころか、既に動き始めている状態だ。心のうちに抱いていた申し訳なさが、香りに同化していく。混じり合って薄れていくその様は、キーシャの想像の中でしかないが。
時間も距離も。二人の間を遮る障害物は何もない。キーシャは思うがまま尋ねることができる。身体の前で両手を重ね合わせ、微笑を浮かべて待つシャレルへと、キーシャは今度こそ口火を切った。
「お母様、私がお聞きしたいのはお父様のことです」
「ええ、どんなことかしら」
あくまでも聞く姿勢を崩さない。疑問を挟まず、キーシャからの言葉を待っている。前のめりになっていたキーシャの気持ちが引き戻される。もしや、シャレルはこんな日が来るのを予見していたのではないだろうか。
「お父様は今、どちらにいらっしゃいますか?」
「キーシャ、以前お話しましたね? 陛下は今、人前には出てこれないと。お忘れですか?」
困惑した表情で返される。幼子を諭すように、やんわりと。これ以上は聞いてくれるなと。それは、話せない事情があるからか。
「では、お母様。お父様は本当に、今もご健在でしょうか?」
勢いづいて尋ねた直後。キーシャはその一瞬を見逃さなかった。シャレルの表情が強張ったのを。その反応だけで十分だった。
「キーシャ。いくらあなたでも怒りますよ」
「ナクル」
取り繕われたシャレルに用はない。キーシャが知りたいのは、彼女が覆い隠した向こう側。その仮面を引き剥がした先。
うしろで控えていたナクルが、抱えてきた冊子を開いてシャレルへと見せる。キーシャの視界では内容を見ることができないが、見ずともどこを開いたのかわかる。
「嘆願書ですね」
「そのとおりです」
さっと目を走らせたシャレルへ、ナクルが同意を示す。
「七年前とは……また随分古い記録を持ってきましたね。当時、何度も話に上がっていましたから、覚えています。この嘆願書に何か問題でもありましたか?」
「はい」
ナクルに並び、キーシャはその箇所を指差す。ところどころかすれた文字。黒灰の洋墨で書かれた名前。
「お父様の署名です」
「ええ、そうですね」
シャレルの目が書面から離れ、合わさった目線を真っ向から見据えるのとほぼ同時。
「お母様、この署名はお父様の文字ではありません。どうして七年前の嘆願書から、お父様の筆跡が異なるのでしょうか。何か理由があって、お父様が書けなかったからですか? それとも──」
キーシャは口を引き結ぶ。質問するだけなのだが、どうしてこんなに躊躇ってしまうのだろう。無表情にすら見えてくるシャレルは、キーシャが気づくとわかっていたのだろうか。
聞かなければ、始まらない。
「お母様。お父様は、ご健在でいらっしゃいますか? ──ご存命でいらっしゃいますか?」
示唆された最悪の予想が、キーシャの語尾を震えさせた。
一度出てしまった言葉は戻らない。答えを欲するならば、戻してはいけない。
質問と同時に吐露してしまった不安が、長い沈黙を生む。他の者に話していない理由はわかる。もしも知れ渡ってしまったなら、王国民全てに不安が広がってしまうからだ。
身内であるキーシャにさえ、明かせない事実であったなら──してはいけない想像が、現実を脅かしにやってくる。国王の死という事実をひた隠しにしているのではないか。彼女一人の胸の内に秘められて。全て秘密裏に処理されて。
「見つけたのはあなたですか、キーシャ?」
「いいえ、ナクルです」
「そうですか……」
伸びてきたシャレルの指が、嘆願書へと添えられる。労るような触れ方。懐かしむにしてはどこか影が帯びている。まるで、手の届かないものへと思いを馳せるように。
「──陛下はご存命です」
堪らず声を上げかけたキーシャより一瞬早く、シャレルは答えた。
「ご存命でいらっしゃいます」
呆けてしまったキーシャにわかるよう、シャレルはもう一度はっきりと教えてくれる。
亡くなっていない。
国王は生きている。
シャレルが目元を和らげる。
「あなたを嫁がせるまでは、決して星にはならないと豪語していましたよ」
「そう、お父様が……」
「キーシャ様!」
膝から崩れ落ちたキーシャだったが、脇から伸ばされた力強い腕に支えられる。書類も抱えているのに、手を煩わせてしまった。
思っていた以上に、キーシャの胸のうちを占めていたらしい。塞いでいた塊がごっそりとなくなったかのようだ。嬉しいはずなのに、その軽さに身体も心もついてこれていない。支えがなければ立つこともできないなんて、お笑いぐさだ。
キーシャは膝に力を入れる。足の裏全体で感じるこの地面が、キーシャの立つ世界だ。
「ありがとう、ナクル。一人で立てるわ」
支えていた手が何も言わず離れる。しかし、ナクルの気配はキーシャから一歩以上遠ざからない。何があっても手を伸ばせる位置。キーシャを守る鋼の意志が、そこにある。
「思い詰めさせてしまいましたね、キーシャ。ですが今、これ以上は私からお話しできません」
「お父様が生きていらっしゃるとわかっただけで十分です。教えてくださってありがとうございます、お母様」
今は話せなくとも、永久に語られないわけではない。これから先、語ってくれる場があるだろう。今はまだ、その時機ではないのだ。
「お母様。機会が来ましたら、そのときは教えてください」
「ええ、必ず」
「こんな時間に申し訳ありませんでした。失礼します」
キーシャは一礼し、ナクルとともに部屋を辞する。
ナクルが見つけてきたのは、国王が記した署名の違いだった。誰が記したのか。なぜ国王ではなかったのか。詳しいことはわからずじまいだった。
しかし、国王は生きている。キーシャが最も知りたかった情報がわかっただけでも朗報だ。
「戻りましょ、ナクル」
「はい」
ナクルを促し、足を動かしていくのと同時に頭が鎮まっていくのを感じる。心はその反対。今にでも駆け出しそうな拍を刻んでいる。
──お父様が、生きている。
ナクルから報告を受けて、キーシャの脳裏によぎった話があった。
かつてルパを救った元海賊のヴェノム=サーク=アルエリア。彼が初代国王となり、彼の仲間たち十二人が賢人となって彼を助けたのだという。港町ルパで広められ、キーシャも知識として教えられていた英雄譚だ。同時に、アルティナ王国の起こりでもある。
──実際には違う。シャレルから教えてもらった話は、これまでの常識を覆す内容だった。
初代国王はルパを救った海賊ではない。海賊ヴェノムとともにいた、彼の仲間の一人だった。ルパを救った英雄は町で果て、英雄の遺志と名前を継いで、アルティナ王国を作り上げた。これがアルティナ王国の起こりであり、最初の受継だったと。
名と意志を継ぎ、次に王国を支えていく者たちに託すこと。シャレルがひた隠しにしていた、アルティナ王国の受継の起源だ。
だから、キーシャは考えてしまった。筆跡の異なる署名は、国王が受継をしたからではないかと。筆記具を持つことのできない状況にあり、誰かに代筆をしてもらったのではないかと。書くための手は既にこの世にはなく、空へ上ってしまったのではないかと。
「キーシャ様! どちらにいらしていたのですか」
自室の扉を開けた途端、キャレルから浴びせられた抗議に目を丸くする。
そういえば、茶を頼んだまま出かけてしまったのだったか。すっかり忘れてしまっていた。
「ごめんなさい、キャレル。そのままでいいからお茶をもらえる?」
「まだ冷える時間でしょう。お顔が優れませんし……ああ、ほら、手も冷えきっているではありませんか。新しく淹れ直しますので、温まってくださいませ」
握られた手は、キーシャの温度を確認するとすぐに離れていく。なんとなく名残惜しくなり、左手で右手を包み込んだ。
賢人たちが集まる場での彼女と、キーシャについてくれるときの彼女と。別人になり替わったような変わりように、ついつい苦笑いをこぼしてしまう。
対等である立場だからこそ、他の賢人たちが集まる場では、醸し出される雰囲気に従うのだという。寄りかかるでもなく、押し付けるだけでものなく。互いを尊重して意見を述べられるように。それ以外は、緩められるところで気を緩めるのだと。
キーシャは、キャレルからそう学んだ。
「すぐ淹れますので、少しお待ちください」
「ええ、ありがとう」
執務机の前ではなく、来客用の椅子に腰をかける。
柔らかく跳ね返る弾力が、キーシャを支えてくれた。
キーシャは冷静だ。収まらない興奮が少しだけ体内にいるのを感じられるくらいに。
「キャレル、三人分お願いしてもいいかしら」
「お客様がいらっしゃるのですか?」
「いいえ、あなたたちに」
キャレルが、茶器を準備していた手を一旦止める。
「そこまでお気遣いなさらずとも」
「私が労いたいの」
「かしこまりました。ご相伴にあずかります」
キーシャは斜め後ろに控えていたナクルを顧みた。
「ナクルも座ってちょうだい」
「キーシャ様は包囲網を敷くのが得意でいらっしゃる」
「目的遂行のための手段よ」
「かしこまりました。失礼します」
そうしてナクルも、キーシャの向かいへと腰を下ろした。