164,アルティナの長い長い日
目が覚めて。ご飯を食べて。足の向くまま、気の向くまま。委ねた心はどこを向いているのだろう。
きょろきょろと首を動かし、目を凝らし、鼻をひくつかせ、そこにあるはずの何かを見つけようとしている。
出会ったらわかるだろうか。探し求めていたものだと。長らく欲していたものだと。諸手を挙げて喜べるだろうか。
昨日、ひがな一日考えても答えの出なかった問いかけを携えて、ラスターはぼんやりと空を眺めている。
さわさわと、葉の擦れる音がする。
地面に着かない足はとても頼りない。触れていないだけで不安が増長されるが、それでもここにいたかった。どこでもいい。一人になりたかった。
ラスターはこつんと右にもたれる。まだ冷たさの残る幹が、難なく受け止めてくれた。
旭日ほどの激しさはなくても、外光があるだけで明るい。それがたとえ木漏れ日であっても。
誰の空にも等しく輝いているのなら、彼の頭上にも輝いているだろうか。ラスターと同じ空を眺めているだろうか。
「あはは、なんか……」
笑ってしまう。二人で一緒にいたときはこんなにシェリックのことを考えた日はなかった。会えない時間が彼をおぼろげにし、消えてしまわないよう思考が回り続けている。たかだか数日離れただけなのに、記憶の中のシェリックに靄がかかっている。
三年も一緒にいたのに。過ごした記憶が、ぼろぼろと剥がれ落ちているかのようだ。
会えばわかる。なのに、思い浮かべた彼は曖昧な姿形だ。彼の髪色そっくりに、夜の中へと溶け込んでしまったみたいに。
思い出そうとするたびに、ラスターの心が引き留めてくる。詳しく思い出してしまったら、苛まれるだけだと。
首元に手を当てる。首が温かいからか、手が冷えているからか。互いの温度が影響し合って、同じ温度に近づこうとする。
触れられる。大丈夫。怖くない。手を伸ばされても、もう一度殺されかけても──
ラスターは座り直す。いけない。それは怖い。どうも変な方向に思考が飛んでしまう。
考えていると言いながらその実、徒に時間を浪費しているだけかもしれない。
殺されかけた恐怖が消えない。触れられる。けれどどうだ。思い出しただけで粟だった二の腕は変わらない。両手で顔を覆い、この場から動こうとしない光景を追い払う。努めて忘れようとしても、どこまでも追ってくる。
いっそのこと頭を打ってしまおうか。ここから飛び降りたなら、それも簡単だ。
「怒られるなあ……」
深く考えなくたってわかる。レーシェにも、セーミャにも、もしかしたらシェリックにも。
期限が切れたり、用途のなくなった薬は、捨ててしまえばおしまいだ。中身を出して燃やし、液体は紙や布に浸してから燃やす。
人の記憶も簡単に捨ててしまえばいいのに。記憶を紙に包んで、布にくるんで、密閉容器に入れて。誰の手にも届かないところでこっそり廃棄してしまえば、消去されたならいいのに。
人の身体は便利なのに厄介だ。覚えていたくない光景ほど刻み込まれていく。覚えていたい幸せな景色はすぐに忘れてしまうというのに。
ラスターだけだろうか。鮮明に描けない幸せという空想に、羨望を抱いてしまうのは。
シェリックはどうなのだろう。何が幸せなのかは置いておき、ラスターに会いたいと思ってくれているのだろうか。
弁解されるか、謝罪されるか、殺し損ねたと言われるか。想像しただけでぞっとする。
ラスターには会わない選択もできる。シェリックが王宮にいる間。顔を合わせずにいることだってできる。ラスターが望んだなら、許容できる範囲で叶えてもらえるだろう。
もしそうしたなら、シェリックは二度とラスターの前には現れなくなってしまう。名前も、地位も、王宮という居場所も──もしかしたらラスターですらも。今シェリックをつなぎ止めておけている要素が、失われてしまうのだから。
最後でなければ良かった。ナキがラスターに言ったのだ。これが、最初で最後だと。レーシェの目を盗んで会える機会でもあるかもしれない。
もし最後でなかったら、また会える確証があったなら? ラスターは迷わず会わない選択をしていただろうか? いや、それでも会う選択をしていただろうか。
もしもの未来にいるラスターは、どうしたのだろう。決まってしまった答えを聞くのはずるい作戦だ。今のラスターがその答えを聞いたなら、最初に答えを出したラスターはどこに言ってしまったのだろう。最初のラスターにならなければ。答えを出すなら、今、ここで。
だから少しだけ、勇気が欲しい。仰ぐ空が夜色に染まったとき、満天があるようにと。
天涯に流れる星を見つけたなら。流れきる前に、三度繰り返し祈った願いごとが、ひとつだけ叶うのなら。天を駆け、天めぐる星に。
祈りでも願いでもない。ラスターの意志と決意を。
──約束の刻は今夜。
**
肌身離さず持っていた、親指ほどの銀の鍵。それはナキのお守りだ。
レーシェから預かり、管理することを厳命され、嬉しいと同時に誇らしかった。
故郷では毒を扱うというただそれだけで疎まれ、毒が薬になると説明しようにも聞き耳を持たれない。何度苦渋を味わっただろう。指折り挙げただけでは足りないが、それも過去の話だ。
ナキは銀の鍵を鍵穴に差し込み、左へとひねる。無機質な音。聞き慣れているその音に、今なお背筋が伸びる。レーシェから受けた期待へ応えたい思いと、収められている薬品の危険性からだ。
ナキがしていた毒の研究に、目をつけてくれたのはレーシェだ。ナキの知識が必要だと、協力して欲しいと手を取られ、あまりの熱心さにそのときは熱意に押されるまま頷いてしまった。
今思うと、それは正解だった。ナキの人生における、分岐点だったとも言えよう。
植物を無毒化する方法。毒草と薬草の見分け方。使える部分。毒をもって毒を制す。知識が必要だと言われたのに、レーシェから学ぶことの方が多かった。新しい知識や見解を得るたび、毒の奥深さについても改めて知る。レーシェがナキに向けていた熱意の方向が、いつしかナキから発せられるまで、そう時間はかからなかった。
だからナキは、レーシェを尊敬している。初めてナキを認めてくれた人だから。
ナキが託された毒の棚。
この棚を開くのは、ナキが騒動を起こして以来だ。
誰にも触れられずにいた棚が変わりようもないのだが、大きな理由は、ファイクから指摘された違和感だ。
──ナキは、きちんと整理していた。毒も、薬も、ひと目で何かわかるように。
ファイクの言ったとおりだ。
誤って調合しないように、その毒に対応した解毒剤も用意できるように。ナキは管理を怠らなかった。間違いをしないために、予防策を張っていた。万が一ナキ以外の人物がここを開けてもすぐに判別できるように。
開けた瞬間に気づいたのは、瓶の位置が違うこと。これはファイクやグレイに片づけを頼んでいたから、ナキの記憶と違うのは致し方ない。むしろ元の場所へとしまってくれたことに感謝すべきだ。
手前にあった茶色の瓶を取り、ぐるりと一周回してみる。いつもナキが薬品を詰める瓶だ。光で反応しないように、色つきの瓶を使い、密閉できるように二重蓋となっている。
やはり、ファイクの言ったことが正しい。瓶に貼りつけていた名称の紙が、なくなっている。
ナキは右隣の緑瓶、最初の瓶からひとつ奥にある茶瓶、左隣の茶瓶と、手当たり次第確認していく。ナキの予想どおり、どれも名称はわからなかった。
あの日出していたと思しき六本、全てだ。他の瓶も見てみるが、こちらは名称がわかる。意図的なものか、何かの弾みで剥がれてしまったか──ナキが無意識下で剥がしたか。
嫌な想像に顔をしかめるが、最後に関しては確かめようがない。ナキが剥がす理由はないからだ。ナキ自身何を考えていたかわからないが、動機と理由を考えるなら心当たりはない。
──保留だ。
該当の六本全てを作業台へと置き、緑の瓶だけ離して置く。
わかるのは緑色の瓶に入ったこの一本だけだ。あとは全て茶色の瓶。舐めて確かめたなら、もう一種類はわかるのだが、ファイクに見咎められるだろう。治療室でもさんざん小言と説教を食らったのに、またその渦中に飛び込むのはごめんである。
あとは、水分を蒸発させた結晶の色と状態、燃やしたときの炎の色、他の薬品との反応、それらで判断するしかない。
──それでも。
わからない薬品がふたつ残る。
光で変わる性質だから晒しておけばいいだけだが、それをしたって最低でも三日は待たなければならない。
そもそも、最果ての牢屋に入れられ、今回ラスターを殺そうとした人物を助ける義理はあるのか。名前だけしか知らず、ナキと直接的な関わりのなかった人物を。
慈善事業をしたいわけではない。やる気になっているファイクやグレイには申し訳ないが、ナキにはそこまで危ない橋を渡る必要はないのだ。
ラスターは、レーシェによってラディラ共和国に戻されると聞いた。だからこれ以上、ナキたちがラスターと関わることもなくなるだろう。罪人である彼と、関わることも。
「……借りを返すだけよ」
乾燥した根が収められている小瓶を取り出し、ナキは呟いた。
そうだ。別に彼のためではない。ラスターのためではない。なんの毒かわからない瓶を放置してしまっては、今後のナキが一番困る。
それに、ラスターに借りを作ったままでは、いつ返せるかわからない。このままラディラへ帰られて、勝ち逃げをされたくないだけだ。ここで恩を売って、逆に貸しを作ってしまえばいい。
だからこれはナキ自身のためだと、言い聞かせた。